第九章 第3話 春の祭
海風がクリーム色の髪を乱していく。
心臓がどきどきした。
ロウジーは硬い表情で、マリアンの返事を待っていた。
波音と心臓の音しか聞こえなくなって、らしくもなく、マリアンは激しく動揺していた。
あの女性達のことが頭をよぎり、微かに胸が苦しかった。
近い将来と、遠い将来のことを考えて、少しだけ逡巡した。
そして彼女は、深く息を吸い込んだ。
「――――――――――――――――――――――――――じゃあ次は夏ね。」
いつも堂々と笑う彼女が、この時見せた笑顔は、恥ずかし気だった。
ロウジーがぱっと表情を輝かせ、青年のその率直さに、マリアンは胸が苦しくなった。
岸辺から花が零れる都市の前で、青年は明るく笑った。
「それから秋だな。冬はちょっと寒いけどな。」
そして陽気に言葉を接いだ。
「それから来年の春だな。」
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昼食を食べ終えてしばらくしてから、マリアンは通用口の外でロウジーと落ち合った。
フロウラングの春の大きな祭がある日で、船に乗ってから、ロウジーと出掛ける初めての日だった。
マリアンはこの時、少し困惑していた。
ほんの二日前に、思いも掛けぬことを聞いてしまったのだ。
まさかね。
だが門の前でマリアンを迎えたロウジーは、何やら妙に緊張している様子だった。
……まさかね。
ロウジーは特に何かを言ったりしなかったので、マリアンは先輩女中から聞いた話は、考えないことにした。
「恋人祭」と言うその祭は名前の通りに、恋人や夫婦を祝うお祭りであるらしい。
華やかで大きな祭は、恋人がいてもいなくても、子供からお年寄りまで都市じゅうが楽しみにしている、フロウラングの春の風物詩であるそうだった。
後から知ったのだが、女中頭のジゼルはこの日は新人を優先して休日や早番にしてくれていて、特に予定を調整して貰った訳でもないのに、二人は午後から、一緒に街に出掛けることが出来たのだった。
あれからグラナガン家とロウジーの近所の住人達に宛てて、レベッカからは、長いお礼の手紙が届いていた。
彼らは無事に、新しい都市に着いたのだ。
ほっとした表情をしたマリアンを見て、ロウジーは笑った。
ただ、今はダンに託されているその手紙を、ファゼルが読んだかどうかは分からなかった。
あの日以来、ファゼルはまた邸から姿を消していて、黒髪の青年に、二人はずっと会っていなかった。
「……執事ってそういう仕事?」
「あいつも知らなかったらしいぞ。」
ロウジーとファゼルの話をしたマリアンは彼の無事を祈ったが、自分のしていることがちょっと疑問だった。
普通、無事を祈られる様な仕事じゃないと思うけど。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
マリアンが初めて見るフロウラングの春の祭は、街じゅうが花や旗や、リボンで飾られていた。
どの広場でも公園でも何かの催しが行われていて、人々が歓声を上げていた。
音楽が演奏されている公園や、曲芸が披露されている広場を辿る様にして、二人は街を歩いた。
何かを食べようとすると、この日はどこでも、男女の二人連れ限定の特別料理が用意されていたりした。
マリアンが笑うと、ロウジーも嬉しそうに大きく口を開けて笑った。
都市じゅうが、宝石箱を引っ繰り返した様な華やぎだった。
日が暮れて街灯が灯ると、街は一層美しさを増した。
両側に灯りを灯した店が続く、光の路の様な商店街を二人は歩いた。
何件かの店をひやかして、雑貨店に入った時だった。
「なあ、これ買わないか?」
商品棚を見つめて、ロウジーが言った。
商店街でも今日は、恋人達のための揃いの食器やアクセサリーが、大量に売られていた。
ロウジーが見ていたのは、外袋を真ん中で重ね合わせる様にして二つ一組にした、折り畳み式の櫛だった。小さなリボンが、重ね合わせた袋の上部を留めていた。
マリアンは驚いて青年を見上げた。
櫛を入れた袋は、口の表面が斜めに流線を描いて刳れていて、色違いに塗られた二本の櫛の柄が、そこから覗いていた。
櫛の柄には同じ植物が意匠違いで描かれていて、小さな石が、数個埋め込まれているのが見えた。
まさかあの時拾った櫛のことを、彼は覚えていたのだろうか。
それぞれ異なる色の組み合わせで、商品棚に幾つも並ぶ二つ一組の櫛を、ロウジーはじっと見つめていた。
あの時、ちょっと見ただけだったのに。
胸が一杯になったが、マリアンは棚に掲示されている値札をちらりと見やって、躊躇った。
「………高いわよ。」
細工の美しさの分だけ、値が張っていた。
「――――――――――――――――――――俺が買うんだ。」
青年はそう言って、「何色がいいか」と尋ねてきた。
結局二人は、赤色と白色の一組を選んだ。
店を出ると、ロウジーは緊張した表情で、マリアンに白い色の方の櫛を差し出した。
「ありがとう。」
照れてしまって、笑うことも出来ずにマリアンがそう言うと、青年はにかっと、満面の笑顔を見せた。
そこから二人は、少し歩いた。
するとやや広くなった路幅が、小さな広場の様になっている場所に出た。
ベンチがそこに並べられていて、三人だけの楽団が、その向こうで静かな曲を奏でていた。
二人はどちらからともなく立ち止まった。
歩き過ぎてしまったのかもしれない。
すっかり良くなったと思っていたのに、左足が少し痛み出して、マリアンは「ここで少し休みたい」とロウジーに頼んだ。
ロウジーは慌てて周囲を見回したが、ベンチにも花壇の淵にも、腰を降ろせそうな場所には全て男女の二人連れが座っていて、空いている席は一つもなかった。
取り敢えず立ち止まっているだけでもマリアンはよかったが、ロウジーはややおたおたとしてから、マリアンの横に背中を向けて屈んだ。
「手を付いた方が楽か?」
肩を貸してくれるらしい。
マリアンが青年の背中を見つめると、「座ってもいいぞ。」と言うものだから、彼女は笑ってしまった。
このひとは本当に。
5歳の子供もわたしも同じなのね。
小さな広場で曲に聴き入る恋人達を、マリアンは少しの間見つめた。
先輩女中の話によると、恋人祭は、恋人や夫婦の女性の方から、相手の男性にキスを贈る習わしがあるらしい。
ロウジーの背中に自分の左肩をくっつける様にして、マリアンは何も言わずに、自分もしゃがんだ。
「ねえ。」
微笑を浮かべたマリアンに声を掛けられて、ロウジーは振り返った。
マリアンの足の痛みにどう対処していいのか分からず、彼は少し緊張した表情をしていた。
青年の右腕に、マリアンは手を掛けた。
そして少し膝を伸ばすと、彼女はそっとロウジーに唇を重ねた。
静かにマリアンが離れ、一瞬の静寂があった。
5歳の子供と、彼女が同じ筈はなかった。
突然、マリアンは激しく抱きすくめられた。
今度はロウジーから、マリアンはもう一度唇を重ねられていた。
触れただけの先刻のキスとは、比べものにならない激しさだった。
ちょっと、これ、習わしと、違うんじゃ。
数秒の間、彼女は何も出来ずにロウジーの腕の中にいた。
それから唐突に、驚きと羞恥心の両方が同じくらいの強さで込み上げて、マリアンは自分の両腕を突っ張った。
しばらく懸命にロウジーの胸を押し返していると、ようやく、彼の腕が緩んだ。
マリアンは慌てて立ち上がった。
そして足早に歩き出した。
後ろを追い掛けて来たロウジーが、弱った様な声で訊いてきた。
「怒ったのか?」
「怒ってないけど。」
つっけんどんに言ってしまってから少し落ち着いて、マリアンは立ち止まり、一呼吸を開けてから、振り返った。
そして彼女は、恥ずかしそうに小さく微笑った。
ロウジーの表情が輝いた。
青年は、二歩でマリアンに追い着くと、マリアンの腰に手を添え、彼女を高く持ち上げた。
「ちょっと……!」
「今日は誰も見やしねーって。」
彼は笑った。
「―――――――――――――――――――――――」
確かに周りを見てみると、恋人達がどこでも、みんなぴったりと寄り添っていた。
春風が吹いて、遠くまで続く星空が見えた。
「――――――――――邸の手前で降ろしてね。」
最初にちょっと真顔でそう言ってから、飴色の瞳の娘は、青年の広い肩に、自分の両腕を回した。
完
読了ありがとうございました。
ここまで読んで下さった方、ブクマ・評価下さった方、今日偶然読んで下さった方、本当に本当にありがとうございます。
よろしければ本編の「浮浪者の娘」シリーズもお読み頂けると嬉しいです。
本編の第4部(あるいは第3部後編)は、またしばらくしたら書き出したいと思います。
それでは!




