第九章 第2話 二人の海
二人は並んで港を歩き出した。
「海からフロウラングを観たことあるか?」
「ううん。」
「遊覧船、乗ってみるか?」そう尋ねて、ロウジーは付け加えた。「今日は金あるしな。」
楽しそう、とは思った。
一家を見送るために二人は今日は休日にして貰っていたのだが、出航は朝だったから、あとは一日中予定が空いていた。
天気も素晴らしくよくて、何もしないで過ごすのは、勿体なかった。
だがマリアンは、ちょっと躊躇った。
「貯金しなきゃいけないんじゃないの?」
謝礼で貰ったお金を、ロウジーは貯金するのかと思っていた。
指輪は、それなりの額になった。
食事やレベッカの捜索を助けてくれた近所の住人達に、彼らはそのお金で砂糖と香辛料を買って配った。
費やしてくれた時間も物もみんなばらばらだったから少し悩んだが、金額があからさまにならない物に換えて、全員に同じお礼を配ることにしたのだった。
砂糖と香辛料は、「どちらも日持ちがするし、高価い物だから、どの家でも喜ばれる」と言ったマリアンの案が採用された。
それでも余ったお金は、費用が生じると持ち出しになることが多かった「自警団」の、今後のために取っておくことにした。
ファゼルは多分、最初からここまで考えていたのだと、マリアンとロウジーは今になって気が付いていた。
そのファゼルは、自分も謝礼の対象に含まれていたことに戸惑っていたが、ロウジーに「現金で渡した方がいいか?」と尋ねられ、みんなと同じ物を受け取ることを選んだ。実家に持っていくと言う。
そして使用人部屋で料理をする機会のないマリアンとロウジーは、欠勤の埋め合わせ分も加えて、その品代を現金で貰っていたのだった。
「今日はいいんだ。」
少し硬い声で、金髪の青年はマリアンに応えた。
ロウジーは、陸路を主眼とした輸送業をやりたいと言っていた。
山と川の多いガーランドは水上交通が発達していたが、その分、陸路が脆弱だった。
男性の使用人は、事業を起こすことを目指していることが多い。
使用人の仕事は特別高給ではないのだが、住居と食事付きである邸勤めは、お金を貯め易かった。
幸いにジャンも、グレイド家に勤めていた時の貯金の多くを残していて、それを一家の当面の生活資金とすることが出来たのだ。
この日ロウジーは、マリアンの分まで船代を払ってくれた。
フロウラング育ちのロウジーに連れられ、マリアンは初めてフロウラングの遊覧船に乗ってみた。
世界のずっと深い所から、囁きが零れ出ている様な波の中を、やがて船は静かに動き出した。
フロウラングの海岸には幾つもの公園があり、海から見渡す春の都市は、花で溢れていた。
花で覆われた海岸と、純白の遊覧船の広い甲板との間を、何艘もの優美な船が通り過ぎて行く。
その景色に、マリアンは感動した。
「綺麗ね。」
「夏も秋も綺麗だぞ。」
小さく笑って言ったロウジーに、「見てみたいわ」と言い掛けて、マリアンは言葉を飲んだ。
乗船してみて気が付いたのだが、どうもこの海岸を周遊する遊覧船は、フロウラングの恋人達の御用達の様で、広い甲板には見渡す限り男女の二人連れと、家族連れしかいなかった。
他人から見れば自分達もそう見えるのだろうが、自分自身を勘違いさせるのは難しい。
自分達が場違いな気がして、出航からずっと、マリアンは落ち着かない気持ちになっていた。
なんとか「そうなの。」と応えてから、マリアンは船の行き先を見やった。
「また乗らないか?」
そう言われて、マリアンは驚いて金髪の青年を振り返った。
ちょっと鈍過ぎじゃないかしら。
周りの様子が見えないのかしら、とマリアンは少々落ち込んだ。
「………この船、恋人同士しか乗ってないみたいだけど。」
何とか気を取り直し、マリアンは青年にそう指摘してみた。
「―――――――――――――――――だから、俺じゃ駄目か?」
その言葉に、マリアンは目を瞠った。
金髪の青年が、緊張した面持ちで自分を見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「お手数をお掛けしました。」
ファゼルはそう言って、事務机の向こうのダンに頭を下げた。
書類に記入を続けていた執事頭は、顔も上げずに応えた。
「いい考えだった。ジゼルも褒めていた。」
まあ人並みに世間体を気にするのなら、堪えるだろう。
これで夫人が諦めるかは分からないが、王族や貴族の多くは、体面を重んじた。
夫人は首飾りも容れ物も知らないと言うだろうが、都市の首長家に事態を知られたことが重大で、こうなってしまえばもう首飾りの出所など、問題ではない筈だった。
女中頭と共に方々に手を廻してくれた老齢の執事頭は、書類から目を上げないままに続けた。
「訓練場の土砂の撤去が終わったと連絡が来た。明日から向こうに戻れ。」
「…そうですか。」
とうとう再開するらしい。
黒髪の青年は、一拍置いて頷いた。
すると執事頭は一瞬だけ、ちらりと若い部下を見やった。
日頃から余計なことを一切喋らない老齢の執事は、すぐに書類に目を戻し、感情の見えない声で告げた。
「休みの日に出掛けられる程体力が残っているのなら、もう少し厳しい訓練でも大丈夫そうだな。」
「―――――――――――――――――――――――――――――――――」
これはダンには珍しい、冗談なのだろうか。
そうだと思いたい。




