第九章 第1話 港を発つ船
港は大勢の人で賑わっていた。
海へ出る船の着く港は、川船が発着する港とは別の場所にあった。
海鳥がうるさい程に鳴いていたが、その陽気な声は、人々を明るい気持ちにさせた。
一家の荷物は少なかった。
行く先の東岸の都市ではグラナガンの事業所が、ジャンの仕事探しを手助けしてくれることになっている。一家が当面住む家も、事業所の所員が既に用意してくれていた。
ジャンの家の小さな机の周りに集まった時。
レベッカは残りの宝飾品を、全て礼拝堂に寄付したいと告げてきた。
ファゼルは、すぐには頷かなかった。
「引っ越せば、しばらくは色々とお金が掛かると思いますが……」
慰謝料として、割り切って貰っておいてもよいのではないかと彼は思う。
だがレベッカは首を横に振り、彼女の隣に座るジャンも、何も言わなかった。
少し考えて、執事見習いは応えた。
「―――――――――では一年は、このままお預かりしておきます。一年の間にもし必要が生じたら、いつでもご連絡下さい。」
レベッカとジャンは、小さく頷いた。
「預かりの目録を作成します。」と、ファゼルが告げた時、執事見習いの横にいたロウジーが、呟く様に独り言ちた。
「夫婦喧嘩したら、窓から逃げ出しそうだよな…。」
マリアンとファゼルが左右から青年を睨み付け、向かいでレベッカが真っ赤になった。
ジャンは笑っていたが、一拍置いて真顔になり、それから、青くなっていた。
広い港を走り回ってはしゃぐルイに、マリアンとロウジーはずっと付き合っていたが、もう乗船という時間になって、執事服の青年と話す若い夫婦の許へ、少年を連れて戻った。
ルイは一緒に船に乗るらしいジャンの存在に困惑している様で、不思議そうにジャンを見上げた。
「おじさんは、一緒にくるの?」
全員が見守る中、レベッカが緊張した表情で、我が子の前に膝を折った。
「ジャンお父さんよ。」
「おとうさんは死んだんじゃないの?」
母の言葉に、ルイは更に困惑した様子だった。
少し青い顔で、レベッカはゆっくりと言った。
「ルイには、ジャンお父さんもいるの。」
一体ルイになんと説明すればよいのだろう。
ジャンの家に集まった時、苦悩していたレベッカとジャンに、「人は6歳より前のことはあまり覚えていません。」と言ったのは、ファゼルだった。
ジャンを父と呼ばせている内に、いつしかルイは、生まれた時からジャンが一緒であった様に思うのではないか。
青年はそう助言して、「ここに来る前のことは、断片的な記憶しか残らないと思います。」と、付け加えた。
「ふ~ん。」
数秒母を見つめてから、ルイは戸惑いながらもそう応え、ジャンを見上げた。
人の道に外れる行いをしている様に思えて、レベッカは、身が竦んだ。
今でも許すことが出来ない男だが、あの男がルイを溺愛に近い程可愛がり、ルイが男を「父」と呼んでいたのも、また事実だった。
固い表情を浮かべる夫婦を力付ける様に、グラナガンの三人が一家を見守っていた。
レベッカを苦しめる過去を、彼らは消してやることは出来ないが、新しいまちに発つ家族の、未来を願うことは出来るのだ。
ルイは、質問を繰り返すことはしなかった。
乗船が始まり、マリアンはルイと手を繋いで歩き出した。
ロウジーが一家の荷物を運ぶのを手伝った。
荷物は僅かで、ロウジーとジャンが荷物を持つと、ファゼルが手伝う分は残っていなかった。
人々の騒めきを、春風が搔き乱して過ぎて行った。
別れを察したのか、ルイがマリアンを見上げた。
「ぼく大きくなったら、マリアンお姉ちゃんみたいなひととけっこんするね!」
「あら!」
「まあ。」
マリアンとレベッカが、笑った。
「おい坊主…。」
荷物を持ったまま、ロウジーが乾いた声で言って、振り返った。
少年は胸を反らす様にして、マリアンの方を見て強気に訴えた。
「僕の方がいいよ。だってロウジーお兄ちゃん、おかたづけ下手だもん!」
ロウジーは反論できず、ファゼルは吹き出した。
船に乗る階段の前は、乗船券の確認を受ける人々で混雑していた。
レベッカとジャンは三人に深々と頭を下げてから、船員に三人分の乗船券を提示して、ルイと共に階段を登って行った。
乗客の荷運びを手伝う男達がいて、親子の荷物は、階段からは彼らが引き受けてくれた。
それから親子は甲板に姿を現した。
手を振る親子に、マリアンは大きく手を振り返した。
「またね!」とルイが言う。
空は何か胸を騒がせる、光に満ちた春空だった。
一家が向かうのはガーランド東岸の港街で、船はガーランドの北端を廻って、そこに向かうことになっていた。
西岸のフロウラング同様豊かな都市で、仕事には事欠かないという話だった。
いつか大きくなったルイが、元気にしている姿を見てみたい。
だが彼は、自分のことも忘れてしまうのかもしれない。
船が岸を離れる。
幸せに。
ゆっくりと遠ざかる一家を、手を振りながらマリアンは見つめた。
やがて甲板の上の親子の姿は見えなくなった。
だがマリアンは、小さくなって行く船をまだ見つめて、海辺に立ち続けた。
一家の幸せを願いたい分だけ、彼女は海を見つめ続けていた。
「じゃあ俺は帰る。」
「もうか?」
小声で告げたファゼルを、ロウジーは見やった。
「………まだいた方がいいって言うんなら、そうするが………。」
「――――――――――――――――――――――――――――」
自分が気遣われているのだということに、ロウジーはなんとか気が付いた。
遥か遠くなった船をもう一度見てから、ようやく気持ちに区切りをつけて、マリアンは後ろを振り返った。
そして飴色の瞳の娘は、少し戸惑う表情をした。
「―――――――――――――――――――ファゼは?」
「――――――――――――――――――――帰った。」
一人だけ立っていた金髪の青年は、そう応えた。
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本番外編は、あと2話で完結の予定です。
最後までお付き合い頂けると幸いです。




