もう一つの物語 第6話
邸に連れて来られた時にレベッカが持っていた数枚の衣類や、細々とした物はいつしか始末してしまい、六年が過ぎて、残っていたのは布鞄と、その他僅かな物だった。
かぶせ蓋の一隅にささやかな花模様の刺繍があるだけのその鞄を、レベッカは郷里を出る時に買って提げて来た。
店に並んでいた同じ大きさの鞄の中で、一番安かったその鞄しか買うことが出来なくて、特に気に入っていた訳でもない。
いつか余裕が出来た時に新しい鞄を買おうと期待しながら、ジャンと出掛けた時も、いつもこの鞄を使っていた。
この鞄だけは、捨てることが出来なかった。
何の飾りもない粗末な生成りの鞄は、あの頃の自分だった。
時を戻して、事件が起こる前に戻りたい。
現実には、決して叶うことのない願い。
全てが変わってしまった。
意味もなく、役にも立たないことだったけれど、郷里を出た時のまま姿の変わらないその鞄だけは、手放すことが出来なかった。
邸を去る準備を始めた時、六年の間使うことのなかったその鞄を、レベッカはもう一度取り出した。
その鞄を提げて郷里に帰るつもりだった。
実家にも戻れないと知った時は、持ち物の多くを諦めたが、肩に提げる鞄はこれを選んだ。
行く当てはなかった。
だが最初の行き先だけは決めた。
あの手紙から既に五年が経っていて、ジャンが今でもそこにいるのかは、分からなかった。
五年を経て、彼にはもう、家族がいるかもしれなかった。
姿を現しても、自分とルイの存在は、彼には迷惑なだけかもしれない。
たとえ言葉を交わすことが叶わないとしても、遠くからでいい。
ルイに、彼の本当の父親の顔を見せておきたかった。
大きくなったルイは、その時のことを覚えていないかもしれない。
だからこれは、自分の自己満足にしかならないのかもしれない。
それでも、一度でいい。
ルイに、彼の父親の顔を見ておいてほしかった。
フロウラングは港街だから、 それからどこに行くにしても、 最初の目的地には 相応しい。




