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あるまちの事件  作者: 大久 永里子
第七章 もう一つの物語
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もう一つの物語 第3話

 そのあとのことは、彼はよく思い出せない。


 だがその日のいつ頃かには、女中部屋のレベッカの部屋にいた。



 レベッカは半狂乱で、ジャンは茫然としたまま、暴れる彼女が怪我をしない様に、抱き締める様にして彼女の体を抑え付けていた。



 横で同室の女中が泣き続けていた。




 何日かそんなことが続いた気がする。




 そして「あいつを殺す」と、青年は騒いだ気がする。



 だがレベッカは、泣き叫ぶ様にして青年を止めた。




 なぜ止めるのか、と思った。




 レベッカをこんな目に遭わせた人間だ。


 どんなに償わせても、許すことは出来なかった。




 レベッカは、だが縋りつく様にして必死でジャンを止めた。




 気持ちのやり場がなかった。




 自室に戻ったジャンは、それから浴びる様に酒を飲んだ。


 正体不明のまま、自分がどれくらい過ごしていたのか分からない。



 ようやくぼんやりと意識が戻った時、同室の男に「レベッカが邸を追い出された」と聞かされた。



 驚愕した。



 「なぜ教えてくれなかったんだ」と相手をなじった。


 相手は怒った様に、「何度も起こしたが、起きなかったんだ!」とジャンをなじり返した。




 割れる様に痛む頭で、必死に考えた。



 レベッカはどこに行ったのだろう―――――――――――――――――実家しか考えられない。自分は彼女の実家を訪ねて行けばいいのだろうか。





 ――――――――――――――――――いや、彼女はそれを、望んでいるのだろうか。



 そしてこんな出来事のあとに、自分は彼女と、一生を共にする覚悟があるのだろうか。



 どちらもきっと、今までと同じ気持ちではいられない。




 ジャンはレベッカを、すぐに追えなかった。





 しばらくを茫然として過ごした。




 その時点で、ジャンは何日も仕事を休んでいた。


 自分達が交際していることはごく限られた使用人仲間にしか話していなかったが、誰かから女中頭と執事頭の耳に入った様で、ジャンは、咎められなかった。


 あるじ一家は下っ端の使用人の誰が勤務日で、誰が休日かなど気にも留めていなかったから、執事と女中頭が口をつぐんでいれば、問題視されることはなかったのだ。




 食堂の新聞で、あの芝居が再開したという記事を見た時、気が狂いそうだった。




 自分達のことをこれからどうするべきなのか、決意が付けられないでいる内に、ある噂が邸内に広まった。


 主人がレベッカを、どこかの邸に住まわせているらしい、と言うのだった。



 その噂を聞いた時、驚いたが、それ以外の何かの激しい感情はその時のジャンの中には湧かなかった。


 レベッカはどう思っているのだろう、とぼんやりと思った。



 自分達の将来のことを、今彼女はどう考えているのだろう。


 その邸から、彼女は出たいと思っているのだろうか。


 それとも、留まりたいと思っているのだろうか。



 数日考えて、やはりレベッカに会いに行くべきだと思い、ジャンは執事の一人にその邸の場所を尋ねた。


 躊躇ためらいながらも、その執事は邸の場所は教えてくれた。

 だが「奥様を警戒して、その邸には警護が付いている。レベッカは自由に外に出ることが出来ない。」と、ジャンの軽挙を戒める様に付け加えた。




 その時ジャンは、レベッカが手の届かない、遠い存在になったと感じた。





 程なくして、ジャンは女中頭に退職を申し出た。





 あの時自分は、何を考えていたのだろう。




 ジャンがその頃を振り返れるようになったのは、ずっと時間が過ぎてからだ。




 受け止めきれない苦しさから、自分は、逃げたのだと思う。





 女中頭は暗く沈んだ表情で頷くと、「推薦状は要りますか?」と尋ねてきた。

 女中頭の紹介状と推薦状があれば、どこかほかの邸で勤め口を見つけやすかったが、断った。





 もう二度と、邸で勤めるのはご免だった。






◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 邸を辞めたジャンは、フロウラング市にやって来た。


 知る人もいない都市まちだったが、大きく豊かな港街には、選びさえしなければ、幾らでも仕事があった。



 工事現場の仕事を見つけて、気の抜けた様になりながら、ジャンは漫然と日々を過ごした。



 数度だけ、使用人仲間や、邸の外で出来た友人達と手紙をやり取りした。



 その手紙の一通に、「レベッカが身籠っているらしい」と書かれているのを見た時、ジャンは、息も出来ずに立ち尽くした。







 もしかして、と思った。

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