第六章 第1話 夕暮れの心配ごと
夕暮れの街を歩くマリアンの口数は少なかった。
嵐が過ぎた後の空は茜と金に染められて、いつもより美しかった。
二日ぶりの帰邸の道だった。
あの母子は、これからどうなってしまうのだろう。
隣を歩くロウジーも、家を出てからずっと、ほとんど何も喋っていない。
いつも陽気な青年が時折見せる真剣な表情は、色々な意味でマリアンの胸に迫っていた。
レベッカはやはり宿を取っていて、「馬車代くらいの現金はある」と言って、辻馬車を使って宿に帰って行った。
衰弱している様子が心配だったが、マリアンもいつまでも仕事を休めず、ロウジーがレベッカと一緒に自宅に泊まるのも、まずいと思えた。
結局それが、最善の選択肢だったのだと思う。
近所の夫人が洗ってくれた服も夕方には乾いて、レベッカは再度服を着替えると、ロウジーが呼んで来た馬車に乗って、ルイと共に去って行った。
四人の男は警察に引き渡したので、今日明日にもう一度襲われるということはないとは思う。
ルイが、「マリアンお姉ちゃんたちともっとあそぶ」と言って、別れ際に泣いたのが、辛かった。
宿の場所は聞いたし、もう数日はそこにいると言う母子を近い内に訪ねてはみるつもりだが、自分達がこれ以上、二人のために出来ることは、ないかもしれなかった。
「おい。」
ロウジーの声が聞こえたのと同時にマリアンは転び掛け、腰を抱えられる様にして、彼に摑まえられていた。
ぼんやりとして彼女は、歩道の端を歩いていて、片足が車道の側に落ち掛けたのだった。
せっかく左足がよくなっていたのに、今度は右足を痛める所だった。
ロウジーの腕の中で動揺していると、青年は子供を持ち上げる様に軽々とマリアンを立て抱きにして、自分の右側から、車道から遠い左側へマリアンを移動させると、そこに彼女を降ろした。
まるで水が上から下に流れる様な何気なさでそうすると、なにごともなかったかの様に、ロウジーはそのまま歩いて行った。
そんななんでもない様に持ち上げられて、こっちは割と恥ずかしいんだけど―――――――――――
―――――――――――異性への遠慮とか恥じらいとか、この人は乏しすぎるんじゃないかしら。
置いて行かれそうになって、自分の荷物も持ってくれている青年の背中を、内心穏やかでないまま慌てて追って、マリアンは礼を告げた。
「ありがとう。」
「うん?」
彼にとっては礼を言われる程のことではなかったのか、それともまさか無意識だったのか。
青年は、マリアンの言葉に不思議そうな表情をした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ファゼルから、「母親は見つかったが、何か事情があるようだ」と報告を受けていたジゼルは、その日の内にマリアンとロウジーが二人揃って帰って来たのを、やや意外な思いで迎えた。
グラナガン家に戻って来た二人は、真っ直ぐに女中頭の部屋へ報告にやって来て、ジゼルの書斎机の前に並んで立っていた。
新人の二人の使用人が沈んだ表情で話す若い母親の話を、時折質問を差し挟みながら、ジゼルは聴いた。
話を聴き終えると、ジゼルは苦い顔をした。
「………その『家』の名前は聞きましたか?」
少しの間の後、女中頭は厳かな声で尋ねた。
「いえ。」
ロウジーが応え、マリアンも横で首を振っていたが、思わぬ質問に二人とも、自分達はしくじったのだろうか、と少しだけ動揺した。
レベッカは最後まで、その家の名を語らなかった。
尋ねれば答えたのかもしれないが、マリアンもロウジーも、レベッカが自分から話そうとしないことを、訊き出そうとはしなかった。
家の名を知った所で、何かの役に立つとは思えなかった。
自分達が太刀打ちできない様な、巨大な金の力を持っているのだろうことは、想像が付くことだった。
「――――――――――相手の家によっては、力になれることがあるかもしれません。」グラナガンの女中頭はそう告げた。だがすぐに、「あまり期待させてもいけませんが。」と付け加え、一瞬瞳を明るくした二人に釘を刺した。
「一度母子の宿を訪ねてみる」と話し、マリアンとロウジーは女中頭の部屋を辞した。
部屋を出ると、廊下の窓越しに見える外には星が瞬き始めていて、邸内にはもう明かりが灯されていた。
女中頭の部屋の前から二人は歩き出したが、数歩を歩いた所でどちらからともなく立ち止まり、そこで二人はなんとなくぐずぐずした。
使用人部屋は男女で区画が分かれて一階にあるのだが、互いの行き来は禁じられていたから、部屋に戻ってしまうと、二人はもう、話すことが出来なくなってしまうのだ。
ロウジーにはこの時、もう一つ心配ごとがあった。
うっかりレベッカの「謝礼」を代行する役目に就いてしまったが、そもそも宝石をどうお金に換えればいいのか、青年は知らなかった。
宝石など、売ったことなんてもちろんなかったし、買ったことすらなかったのである。
「……なあ、宝石ってどこで売ればいいんだ?」
「………わたしも知らないわ。」
「……………………」
二人は顔を見合わせた。
もう面倒になってきてしまい、ロウジーはポケットに剥き出しで入れていた金色の環を取り出すと、マリアンに差し出した。
「……このまま貰っとくか?」
「そういう訳にいかないでしょ。」
飴色の瞳は、軽く青年を睨んだ。
「………あいつ、知ってるかな…」
ぼやく様に言ってロウジーは、もう一人、訪ねて行くことにした。
そもそも「マリアンのために受け取っておくべきだ」という様なことを言ったのはあの男だし、多少協力を求めてもいいだろう。
あの後の出来事も、話さなければならないだろうし。




