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あるまちの事件  作者: 大久 永里子
第五章 レベッカ
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第五章 第6話 逃走

 二階の子供部屋では、もう一人の女中が、ルイと一緒に息を潜めていた。



 レベッカは階段を駆け上がって二人を見つけ、ルイを隠してくれていたらしい女中に礼を述べると、「すぐにここを出ます。」と女中達に告げた。



 それからレベッカは自室に向かい、旅の荷物を開けた。

 旅支度はほとんど整えていたのだが、身軽に動ける様に、荷物を選別して詰め直そうとしたのだ。


 女中に手を繋がれたまま、ルイが大人達の異様な様子に、おびえた表情かおをしていた。



 二人の女中はレベッカの様子を声もなく見つめていたが、やがて先程まで一緒に居間にいた女中が、言い辛そうにしながら、声を掛けて来た。



「……以前にも旦那様が手を付けた女中がいて、その女性ひとには子供は出来なかったけれど、奥様の追っ手が実家にまで押し掛けたって噂を聞いたことがあるの。―――――――――――――その娘は実家にもいられなくなって、今は消息が分からないそうよ。」



 女中を見つめ返し、レベッカは凍り付いた。



 これまでずっと、レベッカとルイには夫人を警戒する警護が付けられてはいたが、そんなに現実的な危険があったのだということを、レベッカはその時初めて知った。



 夫人の怒りと気性は、ずっと昔のその頃と、変わらずに激しいのかもしれない。


 いや、子供を産み、六年をここで過ごしたレベッカに対する憎悪は、その時よりも深いのかもしれなかった。



 女中達の自分を心配そうに見る表情かおには真心が籠っていて、二人のそんな表情を、レベッカは今までに見たことがなかった。



 薄闇が落ち出した部屋の中で、少しの間、三人は顔を見合わせた。

 どこかに安全な場所はないのかと、全員が考えを巡らせた。


 だが考えたところで、実家以外に暮らしていける当てなどレベッカとルイにはなかった。





 自分の人生は、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 平凡な人生をルイに与えてあげられないことが申し訳なくて、涙が溢れた。





 考えている時間も泣いている時間もない。


 兎に角ここから出なければ。


 夫人は戻って来て、今度こそルイを連れ去って行くかもしれない。

 そう考えると、恐怖で血の気が引いた。





  お金がいる―――――――――――――――――― 




 思い付いてレベッカは、壁際の書き物机の引き出しの奥から鍵を取り出すと、自室の続き間へ急いだ。



 そこはレベッカの衣裳部屋で、扉を開けると左側は大きな窓で、細長い部屋は、右側に伸びて行く様に造られていた。扉と向かい合う壁面には、何着もの美しいドレスが掛けられたままになっていた。

 売れば金にはなるのだろうが、故郷では着る機会のなさそうな衣装の多くを、レベッカはそこに残していた。



 持って歩くには、ドレスはかさ張り過ぎる。



 レベッカは部屋の一番奥を見やった。

 

 ドレスが並ぶ壁面の右端に、後面を壁に埋め込まれた、腰高の箱がある。その箱に、象嵌ぞうがんの施された扉が付いていた。


 鍵は、その扉のものだった。


 部屋と窓外そうがい黄金こがね色に染まり行く中、レベッカはその箱の前に屈み、鍵を開けた。



 箱の中は一番上と下が引き出しになっていた。そしてその間に、棚板が何段も並んでいた。


 棚板は全て手前に引き出せるようになっており、レベッカは一番上の段に下から指を掛けて引いた。




 赤い、大きな石を中央にした、豪奢な首飾りがそこに置かれていた。太い金鎖は細やかな細工を持ち、そこに中央の石と同色の石が、幾つもあしらわれていた。




 おそらくとんでもなく高価な物なのだろう。

 そんな首飾りや指輪やブローチが、そこには幾つも仕舞われていた。

 


 上流階級の集いに顔を出す訳でもないレベッカに、豪華な宝飾品を身に着ける機会などなかったのに、男は折に触れてこんなものを贈って寄越した。

 自分の死後の、レベッカとルイの生活のためだったらしい。




 レベッカは、次に一番下の棚に手を伸ばした。

 そこに革製の容れ物が入っていた。


 これもその時のための準備だったのか、首飾りや指輪を収納する専用の仕切りが付いた象牙色のその容れ物は、男が以前にくれた物だった。




 それから棚や引き出しを全て開け、レベッカはここに置いて行くつもりだった指輪や首飾りをその容れ物に、入れられるだけ全て入れた。




 旅費も必要だったが、どこかへ逃げられたとして、逃げた先で生活の基盤を整えるには、どうしてもお金と時間が掛かる。

 自分で何かを買うことが少なかったため、レベッカは多くの現金は持たされていなかった。



 みんなここに残して、鍵も女中に頼んで、男の家族が住む邸に届けて貰うつもりだったが、もうこれに縋るしかなかった。



 容れ物を握り締めて衣裳部屋を出ると、レベッカは大きな布鞄にそれを押し込んだ。



 そして支度していた旅行鞄から中身のほとんどを一度取り出すと、二人の女中の手を借りながら、ルイと自分の最低限の衣類と身の回りの物だけを選んで、詰め直した。


 ルイがぐずることがない様に、お気に入りの玩具おもちゃと少量のお菓子は小さな鞄に入れて、ルイ自身に背負わせた。




 それが二人が邸を持って出られた全てだった。


 夫人が男達を連れて押し入って来てから、わずかの間の出来事だった。




 言葉もない様子で見送りに出てくれた女中達と、最後に邸の玄関で向かい合った。




 ずっと冷たい関係だったのに、その時には涙がこぼれた。




「気を付けて。」

 そう言って見送ってくれた、二人も泣いていた。




「今までありがとうございました。」




 彼女達の助けがなければ、暮らしていけなかった。




 深々と頭を下げて、レベッカは二人に別れを告げた。







 夕闇の中、レベッカはルイが生まれ育った、六年を暮らした邸を後にした。




 最初の行き先は、もう決めていた。






「おかあさん?今日はだれもついてこないの?」






 母に手を引かれて邸の門を出て、ルイが、警護がいないことを不思議そうにしていた。

第五章 終

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