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あるまちの事件  作者: 大久 永里子
第五章 レベッカ
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第五章 第1話 レベッカ

✣ ✣ ✣ ✣ ✣ ✣ ✣



 記憶は途切れ途切れで、その日のことは自分でもよく思い出せない。



 起きた出来事を隠そうとする意識すらなく、乱れた姿で主人の部屋の前の廊下をふらふらと歩き出した所をほかの女中に見つかり、事件はたちまち邸中に知れ渡った。



 それからしばらくの間のこともよく思い出せない。


 女中部屋に一日籠り、時折発狂した様に泣き叫び、何日も過ごした。



 さすがに働けとは言われなかった。



 段々と悲鳴を上げなくなり、涙も出なくなり、ただベッドの上で壁際にうずくまって、じっとしている様になった頃。


 女中頭が部屋にやって来た。



 白髪が目立つようになってきた茶髪の女中頭は、言いにくそうに、「あなたを解雇することになった。」と言った。



 驚くよりも、ただ混乱した。

 突然の話に、どうしていいのか分からなかった。

 解雇されれば、邸を出なければならない。



 どこへ行けばいいのか。



 実家ぐらいしか行く当てはないが、事前に家族に何も知らせず、いきなり帰るなんて。

 実家とやり取りする猶予が与えられるのかもよく分からなかった。



 「明日あすには出て行ってほしい。」と言われた時には、言葉もなかった。


 「手伝う」、と言われたが、レベッカ本人に荷造りをする様な気力がなかった。



 ほとんど身の回りの物だけを鞄に詰めて、翌日、茫然として部屋を出た。



 あまりの仕打ちに、邸中の使用人達が主夫妻への憤りを抱きながら、通用口へと歩いて行くレベッカに同情の眼差しを向けていた。



 レベッカを許さなかったのは、当主夫人だった。



 夫人は起きた出来事を知ると、怒り狂った。


 当主の手癖の悪さは今に始まったことではなく、女中に手を付けたのも、それが初めてではなかった。

 夫の女癖に散々苦しめられてきた夫人だったが、夫も年を取り、今や七十に近い年齢で、ここ十年は乱倫も影を潜め、ようやく夫婦二人、穏やかな日々を過ごしていた。

 そんな日々を粉々に砕く夫の再びの過ちに、夫人の怒りは夫自身に対してはもちろん、それ以上に激しく、若い娘に向いた。


 女中頭や執事頭の執り成しも空しく、夫人は「娘を追い出しなさい」、と言って聞かなかった。




 通用口を出たレベッカは、ふらふらと門に向かった。



 あの邸はなだらかな傾斜地に建っていて、緩やかな下りの石段が門まで続いていた。


 あの時見た小さな花があちこちに咲いた、半ば緑に侵食された階段は、なぜか鮮明に記憶に残っている。




  門を出てどこに向かおうか。




 考えても、実家に向かうしかなかった。


  帰郷の旅費は足りるだろうか。


 所持金もしっかり確認していなかったことに、その時気付いた。

 ただ邸に引き返す気には、到底なれなかった。



 門に辿り着くと、目の前に豪華な馬車が停まっていた。


 装飾がふんだんに施されたその馬車は、主一家のものだった。


 なぜ使用人の通用口に、とただぼんやり思った。


 馬車の前に見知らぬ男がいて、「旦那様からの伝言で、あなたを案内する」と言われたが、何を言われたのかよく分からなかった。


 世界の全てがぼんやりとしていた。


 18歳の娘は茫然としたまま、ただ促されて馬車に乗った。






 女中に手を付けて知らぬふりを決め込む男も多い中、レベッカの生活の面倒を見ようとしただけ、主はまだましな部類だったのかもしれない。



 レベッカは、同じ市内の小さな邸に連れて行かれた。




 レベッカが、「囲われ者」になった瞬間だった。

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