第三章 第10話 つめあと
僅かの間に、女性の顔が白い程に青ざめていた。
尋常な様子には見えなくて、マリアンは数秒部屋の入り口で足を止め、それから急いでベッドに歩み寄った。
「レベッカさん?」
急に具合が悪くなったのだろうか。
盆を載せる場所を作るために、マリアンは手の甲で小机の上の布鞄を端に寄せた。
鞄は重かった。
じゃらり、と微かに金属音が聞こえて、あの容れ物の中には何が入っているのだろう、と思った。
沢山の宝飾品が、頭に浮かんだ。
膝の上で甘えるルイの背に手を添えながら、栗色の髪の女性が消え入りそうな声で尋ねてきた。
「皆さんは、どこかのお邸にお勤めですか?」
戸惑いながら、マリアンは頷いた。
この時自分を向いたレベッカの顔が、死人のように蒼白で、マリアンはぞっとした。
「…………あなたは、今幾つですか?」
「18です。」
「ロウジー!!」
「おかあさん?!」
一度外に戻ろうとしていたロウジーは、マリアンとルイの悲鳴を聞いて、飛び込む様にして部屋に駆け入った。
奥の窓が開いて、栗色の髪の女性がそこから身を乗り出す様にしており、ルイが、その足にしがみつく様にしていた。
マリアンが心配そうに女性の背をさすっており、ルイの母が、えずいているのだと気が付いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ロウジーは、窓の外の吐瀉物の始末を終えた。
と、言っても大したことではなかった。
レベッカは随分長い時間何も食べていなかった様で、ほとんど胃液の様な物しかなかった。
青年は土を掘り返して埋めただけで、その始末を終えた。
雨上がりで土がぬかるんでいたから、造作もなかった。
家の中に戻ると、青ざめた顔で横になったレベッカが「すみません…」と呟いた。
「気にすんな。」
あっさりとそう言って、青年は小机の上の盆を見つめた。
彼女は何か食べた方がいいと思い、そっちの方が気になった。
マリアンが心配そうに、その枕元で椅子に腰掛けていた。
彼女の顔も、少し青ざめていた。
この様子では、警察の聴取に応じるどころではないかもしれない。
「おかあさん、だいじょうぶ?」
マリアンの横で、ルイが不安げに母を見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
グラナガン家に戻った黒髪の青年は、女中頭に状況を報告した後、執事室に向かった。
執事室は、巨大な事務机で奥と手前に区切られており、事務机の向こうには机の左横の、跳ね上げ式の仕切りを上げて入る様になっていた。
仕切りの向こうに入ると、奥に大きな窓がある以外は、棚や引き出しが隙間を埋め尽くす様にぎっしりと並んでいる。鍵付きの物も多い。左の壁面は、一面が造り付けの棚だった。
幾つもの扉を持つその棚の前で、青年はしばらくの間、考え込む様にして立っていた。
どうも単純な迷子ではなかったらしい。
このまま話が済みそうに思えない。
執事見習いはこの時、彼自身がなかなかに大変な状況にあり、事件に首を突っ込むことを、少しだけ躊躇した。
だが青年はやがて思い切った様に手を伸ばし、棚の一ヵ所を開けると、中から分厚い本を取り出した。
華麗な蔦模様の装丁の、ずっしりと重量のあるその本を、執事見習いの青年は机の上で広げた。
ガーランド国中の元王家や元貴族の、家紋を網羅した本だった。
グラナガンの様に、貴族の家系でなくとも大きな家は家紋を有していることがあったが、そういう紋も、可能な限り収録されていた。
「花」とか「動物」とか、使用されている絵柄別に家紋が分類されていて、青年の探している紋は、「草木」の項と、「道具」の項の二箇所に収録されている筈だった。
「草木」の項でその紋をすぐに見つけた。
円形の枠の中に、小さな葉を沢山持つ蔓がやはり円を描いていて、中央に、天秤が描かれていた。
そこに記されていた家名を確認すると、ファゼルは棚に戻って、別の本を取り出した。
家紋の本と同じ程に分厚いその本は、各都市の王侯貴族の略歴を記した、王侯貴族の名鑑だった。
第三章 終




