トイレに用心
なんで自分はこんな話を? と思いながら書きました。
いや、サブタイトルを縛って書いているので、それなりに関連した内容にしようとしたらこうなったんですけどね……。
そこそこ下品。どう下品なのかはサブタイトルで察してください。
「うっ、ううっ……」
唐来は腹を抑えながらナイフを握って前に構えた。ぎゅっと閉じた唇から意味のないうめき声が漏れる。ぶるりと体が震えて、熱いような冷たいような体をどうにか動かす。目の前には腐った奴ら。カチカチと歯を鳴らしてまるで威嚇をするように近づいてくる。
いつもならば蹴ったり殴ったりと、ここまで近づかれる前に倒せるのに今に限ってはそうはいかない。そんな大立ち回りはできない。
「どうしてこうなった……!」
喉奥から悲痛な叫び声が漏れた。
◆◆◆
少し前まで青々としていた木々が黄色く色を変え始め、そよぐ風も時折冷たさが混じるようになった頃。その日は久しぶりの遠出。先日調達した服に身を包んで、唐来と工藤は森の中を歩いていた。
「いやー、あそこで止まるとは思わなかったよね」
「笑い事じゃないが」
静かに青筋を立てる工藤に唐来は笑った。いらいらしたってどうしようもないのだから、無駄なことをするより楽しめばいいのに。基本的に唐来たちは文明の利器によって整えられた街を歩くことはあれど、こうも木々がそりたつ森に入ることはほとんどない。街中のそれよりも遮蔽物が多く、不意に奴らが現れるのではないかと不安になる気持ちはあることはあるが、こちらは二人いるのだ。どうにでもなるだろう。それにいつかは慣れなければならないことだ。だってここは都心か、あるいは田舎かと問われれば、断然田舎なのだ。車を走らせるための道路は舗装されているものの、田んぼや畑がそこかしこにあり、少し顔を上げてみれば森も山もある。工藤だって最近は図書館からかっぱらってきた本から得た知識で、罠でも作ってみようとしていたのに。
「くそ、まだ着かないのか……」
「ほんと、絶妙なところで止まったよねぇ」
唐来は額ににじんできた汗を拭う。はあ、と吐いた息は熱く、しかし木々で囲まれているためか吸う空気は清々しい。
こうやって唐来たちが想定外に森にいるのは理由があった。といっても大した事情ではない。水たまりより浅く、砂場のトンネルよりも低い。
「まさか車がエンストするとは……!」
そう、快適にドライブを楽しんでいたはずなのに乗っていた車が突然止まったのだ。ガソリンも充分にあったはずなのだが、まさかまさかと思ううちに速度が落ちて最終的には沈黙してしまった。唐来も工藤も世界がこうなる前までは車など乗ることはあれど、運転なぞしたことがなかった人間だ。当然のごとくメンテナンスの方法も知らない。それでも聞きかじりの知識でいじってしばらく奮闘してみたのだが、車が息を吹き返すことはなく。そこは運が悪いことに人里からは離れた場所だった。周りを見渡しても拾ってくれる親切なドライバーがいるわけもなく。いるのは「がぁ」とか「ぐおお」とか不気味なうめき声を上げるかつて人間だった存在だけ。数体、案山子のように立っていた奴らの頭をかち割って、唐来たちはしばし広々とした道路に立ち尽くした。
結局、唐来たちは次の足を探すために、周りを見渡した際に屋根が見えた森の奥を目指すことになった。
森の中は思ったよりも歩き辛かった。これならば多少遅くなっても道路沿いに歩いた方が良かったかもしれない。そう思ってすぐ、そうとも限らないなと思い直す。太陽はもう頂点を過ぎている。一度あの道は通ったことがあるが、車でも結構進まなければ建物の姿が見えなかった。道中で邪魔が入る可能性を考えると着いた頃には日が落ちている可能性もある。それは流石に勘弁してほしい。古今東西、どんな創作物を鑑みても死亡フラグの大多数は暗闇か親しみのない土地なので。うっかりと奴らに噛まれて仲間入りをしては目も当てられない。
それなりの運動──主に腰に差していたナイフを振りかざしてどうにかする類のもの──は必要だったものの、思ったよりもスムーズに目的地に着いた。アスファルトとは言わずとも、硬く踏みしめられた地面にほっと息を吐く。目に優しい自然の遮蔽物の代わりに、灰色の人工物が迎えてくれる。
ぱっと見た限り家は三軒。田舎では珍しく隣り合って並んでいる。警戒しながらも十分程で家の周りを回って、唐来と工藤は顔を見合わせた。
「……車がない?」
「だね……」
車庫はあるものの、中は空だった。人の気配もないから、もしかしたら車でどこかに逃げ出したのかもしれない。その後無事かは知らないが。
つまり、ここには足はない。
「はー、マジか」
唐来はがっくりと肩を落とした。工藤は無言のままだが、顔色を青くして不機嫌そうだ。唐来よりも体力のない彼女のことだ、きっとこれ以上はもう歩きたくないと思っているのだろう。どうするかな、と青い空を見上げる。と、ぐぅぅぅ……という些か間抜けが音が響いた。唐来の腹の音だ。工藤の視線が痛い。粗相をする犬を見るような目で見られる。はあ、と工藤は大きなため息を吐いた。
「とりあえず…………昼にするか」
リュックに携帯食料はいくらか詰めていたが、あまり量はない。ならばどうするのか。勇者の真似事である。つまり、人家に入ってタンスの中身を漁る。
結果、それなりのものが見つかった。どうやらこの家は手つかずらしい。もう少し都心──と言っていいのか分からないが、建物が密集している場所──にある家だと高確率で別の勇者に漁られているので珍しい。やはりここまで奥まった場所にあると人が訪れることも少ないのだろう。
「おっ、缶詰が結構あるじゃん」
「こっちにはネクターがいっぱいある」
「えっ、わたしそれ好き!」
気に入りの飲料水を前に、唐来は声を弾ませた。
こういう世界になって、食糧事情はだいぶ貧相になった──なにしろ生鮮食品は軒並み全滅した──とは言え、こういった小さな楽しみがあるので生きていける。唐来はそこそこの上流家庭の出でそれに見合う程度の舌も持っているが、それはそれとしてどちらかというとチープな味が好きだ。カップラーメン万歳。カロリーバー万歳。工藤はそれらをあまり好まないようなので、その点で言えば唐来はこの世界でもそれなりにハッピーに生きていける人間だった。
ごくごくと喉を鳴らしてペットボトルを傾ける。「そんなに勢いよく飲んだら吸収されずに出るだけだぞ」と言う工藤の言葉は無視した。秋になってきたとはいえ、動けばまだまだ熱い。森の中を歩いてきたのだから喉が乾いていた。
ここまでならば少し予想外があったものの、想定の範囲内だった。しかしその後に問題があった。
昼食を終え、地図を開いてこれからの方針を話し合ったところ、このまま進んで別の道路に出ようという話になった。元の場所に戻ってもあるのは動かない自動車──つまりただの鉄の塊であるし、ならば一縷の望みを掛けて可能性のある方へ行ったほうがいい。なにしろここは都会から離れた土地。つまり車社会だ。市内ほど、とは言えないだろうが乗り捨てられた車がある可能性は高い。
よっこいしょ、とネクターで少しだけ重くなったリュックを背負って歩き出す。足裏にはここ数時間で慣れてきた柔い地面がある。人も獣もしばらく歩いていないのか、時に膝丈まで伸びた草が面倒だが、エネルギーをチャージしたのでどうにかなるだろう。その時はそう思っていた。
「おい、ふらふらするな」
目的地までもう少し。ただ歩くのもつまらなくなってきた唐来はいい感じの木の棒を拾って振り回していた。それに、後ろにいた工藤が苦言を呈する。唐来はへらへらと笑って棒を振った。
「大丈夫大丈夫。わたしは工藤ちゃんより体力あるし」
実際、夏の間に夢のシックスパックはしぼんで消えたが、服の上からでも程よい筋肉が付いているのが見て取れる。工藤はそもそも筋肉が付きづらい体質なのか、横に並ぶと頭半分以上違う身長差もあって彼女の方が貧相に見える。振り返って後ろ向きに歩きながら、ぷぷぷ、と笑う。てっきり工藤は小馬鹿ににしたことを怒るかと思ったが、しかし予想に反して顔色を青くした。
「バカッ!」
シンプルな罵倒に反応する暇はなかった。それ以上に驚くことが起こったからだ。
「は?」
ぐい、と肩に担ぐようにしていたエクスカリバーが掴まれる。生き物の気配はふたつ──唐来と工藤のものしかない。そして唐来と工藤は向かい合っている。つまり後ろにいるのはそれ以外のなにか。そしてこの世界では幽霊の可能性を考えるよりも先に思い浮かぶものがある。
つまり、“奴”だ。
首だけで振り向く。目に入ったのは腐りかけの皮膚。腐臭が鼻をくすぐる。
「おい、唐来!」
「は??」
掴まれている棒を取り返そうとしたのがいけなかった。気づけば棒を掴むそれとは別のものが近づいてきていた。一瞬意識が手から逸れる。それもまた失点だった。
「は???」
「唐来ー!」
バランスが崩れて足が宙を蹴る。生い茂る草に隠れて見えなかったが、どうやら段差があったらしい。体が浮く。工藤の悲鳴のような声を聞きながら、唐来は地面を転がり落ちた。
「痛てててて……」
やっと止まった。呻きながら体を起こす。節々が痛い。が、かすり傷はあるものの、目立った怪我はないようだ。日々体を鍛えているおかげだろう。どこも折れていないし、ひねっていない。これが工藤だったらこうはいかなかった。彼女はコンパクトさでは工藤に勝つが、それ以外の身体能力は比べ物にならないのだ。だから、まあ、転がり落ちたのが自分で良かった。唐来はそう思おうと、こぼれ落ちそうなため息を飲み込んだ。深刻に考えても事態が好転するわけではない。
唐来は自分が転がり落ちてきた斜面を見上げた。生い茂る木々が邪魔で上がよく見えない。
「おーい!」
口元に手を当てて呼びかける。が、返答はない。
「おーい、工藤! くーどーうー!」
しばらく待ってみたが、聞こえるのは風が葉を揺らす音だけ。どうやら工藤とは離れてしまったようだ。
ぺろりと舌で舐めて唇を湿らす。背負っていたはずのリュックはどこかに行ってしまった。服もところどころ破けている。腰に差していたナイフが消えていないことだけが幸いだろうか。
木の葉の隙間から覗く太陽を睨む。次に方位磁石付きの腕時計を見る。タイムリミットは日が沈むまで。それまでに工藤と合流するか、夜をしのげる場所を探さねばならない。
「はー、やっちまったなぁ」
焦りだしそうになる気持ちを意識して深く呼吸することで防ぐ。工藤とこの土地に逃げてきてから、久しぶりの意図をしない単独行動だった。
リュックを失って軽くなった体で歩き出す。斜面を登るには視界が悪すぎる。頭の中に先程眺めた地図を思い浮かべて、とりあえずは目的地だろう方向に進むことにした。
歩くうちに思考が動き始める。耳を澄まして周囲を警戒しながら、考える。
工藤の性格からいって、無理にこちらを探すことはないだろう。なにしろ彼女には体力がない。そしてどちらかというと慎重派だ。勝率の低い賭けはしない。どこに転がり落ちたか分からないのに、むやみに行動はしまい。ならばどうするかと考えれば、元来た道──昼食を食べた家へ戻るか、先に進むか。工藤のことだから堅実に元の場所に戻りそうな気もするが、唐来の記憶が確かならば戻るよりも進んだ方が早いくらいまでは目的地に近づいていた。行くのも、戻るのも同じリスクならば、彼女ならば行くことを選ぶ。はぐれた唐来もそう考えることは分かっているだろう。それが理解できる程度には一緒に時間を過ごした。
息を一つ吐く。自分の行動は間違っていないはずだ。
そうして踏み出した先で、しかし唐来は予想外のものを見た。
「えっ?」
少し開けた森の中。素っ頓狂な声を上げた唐来に、体を揺らして振り返るものがいた。それもすぐには数えられないほど大量に。腐臭が鼻を突く。
──そこには大量のゾンビがいた。
基本的に奴らには一対一──あるいは多対一で対応すべきものであって、一対多で相対すべきものではない。奴らは鈍足とはいえ、脳のリミッターがないのか想像以上に力がある。比較的フレッシュな状態だとさらに力は強い。土に還りかけている状態だとそれはそれで臭いし不衛生なので嫌なのだが、今回の相手は前者だった。つまり、見た目以上に強靭で掴みかかられたら即ジ・エンドとなりかねない。
となれば当然のごとく逃げの一択なのだが、そうしようにも気づいたときには遅かった。奴の接近を許し、逃げるにも退路がない。
「くっそ!」
唐来はナイフを握りしめた。
今の唐来は、以前の唐来と違うのだ。空元気でも自分を励まそうを唐来はそれなりに慣れ親しんできた構えを取った。実際に合っているかどうかは確信はないが、少なくとも以前よりは負担なく腕を動かせる構えだ。
もちろん、誰かに教えを仰いだわけではない。相変わらず唐来は工藤と二人暮らしだ。そして工藤は弓術を除いて唐来に教えられるだけの運動能力はない。が、最近、唐来は暇にまかせて新たな知識を得た。通信で合気道、ならぬ書籍でサバイバル術、というやつだ。つまり図書館からちょろまかしてきた本で学んだ。
「やってやんよぉ!」
唐来はそれなりに負けん気は強かった。
危ういところもあったが、どうにか噛まれずにすんでいる。木の隙間を利用したり、すり抜けづらい道を選んでいるのだが、しかし奴らは唐来を追うのを諦めなかった。しかも逃げた先にも奴らはいて、振り切った以上に数を増やしていく。
「くそっ」
ナイフは油でてらてらと光っている。それだけの数を倒したが、まだまだ終わりは見えそうになった。
ここまで追い詰められたのは久しぶりだ。都心にいた頃はこんなことがよくあったが、この田舎では稀だった。全体的に人口が少ないというのもあるが、それ以上に唐来たちが定住の場所を見つけたことが大きいだろう。都心では奴らに加えて生きている人間だって時には脅威になった。一時の宿はみつけても、女二人で生きていけるとは思えなかった。
運が良かったのだ、と思う。ここまで唐来が奴らの仲間にならなかったのは。相棒が工藤であったことも良かった。彼女は慎重すぎるほど慎重だ。安全マージンを大きく取る。気分で動きがちな唐来の手綱をよく引いていた。その代わり工藤は体力がなかったので、その部分では唐来が支えていたが。
脳裏に最後に見た工藤の顔がちらつく。転げ落ちる唐来に驚愕していた。
「ふふっ」
状況を思い返してみると間抜けだ。お調子者が油断していたところを急に現れたゾンビに強襲され、斜面から転落。まるでゾンビ映画の端役のような。これが映画だったら、斜面の下でゾンビが咀嚼しているところを映してフレームアウトか。あるいは終盤で「実は生きていました」となるかだ。もちろん唐来の希望は後者である。
心は折れていない。気持ちで状況が変わると思えるほど素直な性格ではないが、気力がないよりずっといい。足を動かしながら周囲に目を配る。どうにかして彼らを撒かなければならない。ぐっと気合を入れ直したところで、唐来はふと気づいてしまった。
(あ……)
腹に手を当てる。気づく前までは大したことのなかったそれが急激に浮上してきた。
(ああっ……!)
顔を歪める。唇を噛む。走る衝撃が体に響く。
唐来は数時間前の自分を恨んだ。やめておけ、と言われたにも関わらず、がばがばと飲んだ自分を。大したことはないと、機嫌よく水分を腹におさめた愚かな行動を。
──つまり。
(……ト、トイレにッ、行きたぁいっ!)
唐来は急激な尿意に泣きそうになりながら唇を噛み締めた。
◆◆◆
工藤は無人の村の入り口にいた。目的地として設定していた村だ。
唐来とはぐれてからもう随分と時間が経った。陽はまだ高いところにあるが、この時期はあっという間に暗くなる。そうなる前に逃げ出す算段だけは立てておかねばならない。唐来について心配する気持ちはあるものの、彼女はなんだかんだ図太い。工藤は彼女が斜面から滑り落ちた後、気絶して死体に群がられている場面を想像してみるが、なんだかしっくりと来ない。なんというか、唐来はそういった場合は間一髪で目を覚ましてなんだかんだ危機を乗り越える気がする。いや、そんなことなく残酷に死んでいくのがこの終末世界ではあるのだけれど。
だがかといって心配だからと工藤も斜面を下る気にはなれなかった。どう考えても見つけられそうにないし、迷子をひとり増やすだけのような気がしたからだ。たぶん唐来も工藤がそう行動することは分かっているだろう。たぶん、きっと、目的地であるここに来るはずだ。
くるくると頭を働かせながら、工藤は抜け目なく周囲に目を走らせた。ぱっと顔を明るくさせる。視線の先には鉄の乗り物──車があった。
近づいてドアを引く。開かない。リュックを下ろすとドライバーを取り出す。ちょいちょいと手を動かせば、かちりと鍵が外れる。悲しいかな、ここ数ヶ月で手慣れてしまった。
乗り込む前に一度周囲を見回して、奴らがいないことを確かめる。車内も安全なことを確かめると、テキパキと動かすための準備を始めた。
──空はまだ青い。
◆◆◆
「ううぅ……」
足がガクガクとする。自分の後ろを付かず離れずで追ってくる死体たちへの恐怖は当然のようにあるが、しかしそれ以上に自身の下半身が気になって仕方がない。さすがの唐来も、人間としての尊厳を失いたくない。この場には生きている人間が誰もいないとしても。
集中力に欠く。下半身に意識が行くと、途端にそれしか考えられなくなるので唐来は思考を方々にやりながら逃げていた。
後ろの死体たちも気になるが、逃げる方向も気になる。このまま行ってちゃんと目的地に付けるだろうか。唐来の体感であるが、結構蛇行して進んでいる気がする。太陽を確認しようとして顔を上げて、筋が伸びたためか刺激されて背筋に冷たいものが走る。
「……ゔゔんっ!」
ダムが決壊しそうになるのをなんとか宥めて、唐来は涙目になった。残念なことに木々に隠れて太陽は見えなかった。方位磁石付きの腕時計をちらりと見て、大まかには間違っていないことを理解する。
「っ!」
一瞬気を抜いたのがいけなかったのか、服を掴まれた。
(くっそ、後ろになにも付いていないやつにしとけばよかった!)
今日の服は先日服屋に行った際に調達したものだ。流行を取り入れ、Tシャツとは違って不要な布を適度に取り入れた華美なヤツ。肩の後ろにも布があって、それが引っかかった。
ぐらりと体が傾いで地面に倒れ込んだ。
「ゔっ!」
ちゃぷん、と体の中でなにかが鳴った気がした。唇を噛んでそれを無視して、素早く身を捻って状況を確認する。白濁とした目が、しかししっかりと獲物の姿を写している。覆いかぶさるようにして腰を曲げてくるそれにナイフを突き立てる。
「チッ」
焦りすぎた。糸が切れたようにただのモノと成り果てたそれが、足元に崩れ落ちて立ち上がることを防ぐ。そうしているうちに前から別の奴がやってくる。それも腕を伸ばして同じように倒す。が、すぐにまた次が。足元には死体が重なり合って、体勢を立て直さなければ起きることができない。だがそんな暇はない。
唐来はどうにかこうにか片足だけ這い出させ、重なるように身を乗り出してきた次の敵がこれ以上近づかないように相手の胴に足を当てる。
「ひぃんんん」
情けない声が漏れた。動くたびに得も言われぬ悪寒が背筋を震わす。色んな意味でここで終わるかもしれない恐怖がぐるぐると体の中を回った。
死んでいるくせに道理に合わないほどの力強さでゾンビは体重を掛けて唐来の方に体を寄せようとしてくる。カチカチと鳴らす歯の音が耳障りだった。一層足に力を入れて、しかしそれが間違いだったのか、
「ひいっ!」
ずるり。足が滑る。少し前までの灼熱地獄で腐った肌が剥がれたのだ。踏ん張りが想定外に消えて、足を起点にして体が跳ねる。予期していない衝撃が襲った。目に入る情報がコマ送りのように見える。ゾンビがゆっくりとこちらに倒れ込んでくる。このままいけば、最悪の事態になる。本能が生き残るための行動以外を放棄する。そして──。
「あっ」
◆◆◆
暮れなずみの空の下、工藤は車内で睨むようにして外を見つめていた。この頃の日の落ちる時間から逆算して、あと十分もすれば太陽が空にあるうちに拠点に帰れなくなる。夜間の移動は自殺行為だった。ならばどこかで一日過ごさねばならないが、見知らぬ土地でそれはしたくない。それに工藤はともかくとして、相棒である唐来がどこにいるのかわからないのだ。もしもまだ森の中ならば、次の朝日が拝めない可能性もある。
指先がコツコツとハンドルを叩く。焦りで奥歯を噛みしめる。あと十分。その間に彼女が現れなければ、ここで夜を過ごす準備をしよう。幸いにして自動車は直った。車庫を漁ってガソリンも見つけたので、もしも寒かったとしても暖房はつけられる。
脳裏に去来する考えを努めて無視して、意識して息をする。「もしも」のことなど、考えたくなかった。それでも自分のくるくると回る頭はそれを止めることはできないのだけれど。
──こつん。
窓を叩く音がして、工藤はびくりと肩を震わせた。弾かれるようにそちらを向く。
「唐来!」
小さく悲鳴のような声が漏れる。窓の外には疲れたように佇む唐来がいた。無意識に入っていた肩から力が抜けた。
車のロックを外して、中に入るように促す。助手席に座った唐来は椅子に背中を預けて、大きなため息を吐いた。
「怪我は?」
「ない」
「噛まれても?」
「いない」
いつものやり取りをする。嘘を付いている様子はないが、疲労困憊の様子だった。色々と言いたいことはあるが、今でなくていいかと思う。そこで気づく。
「……あれ、着替えたの?」
唐来の服が変わっていた。散策に出かけるには不向きなビラビラとしたものだったはずなのに、今はシンプルなパーカーにズボンだ。サイズが合わなかったのか、裾が余っていて、それはゴムで止めている。
「あー、その、血とかで汚れちゃって」
「そうなんだ……」
やはり死体たちに遭遇したらしい。灼熱の夏を越えて、より土に近づいた──つまり腐った──彼らの肉片は、ひどく悪臭を放つ。しかしこの時間だ。気持ちは分かるが我慢して帰ってきてほしかった。夜の怖さは唐来だってしっているだろうに。
文句が口の中でむずむずとしたが、なんだか相手の様子がおかしい気がして工藤はそれを外に出すことはなかった。いつもならば大変な目にあったら、いくら疲れていたとしてもテンション高くこちらに報告してくるのが彼女だというのに、それがない。口を動かすのさえ億劫なのか、あるいはよほどショックなことでもあったのか、まるでなにか大切なものを失ったかのような目をしている。
工藤は唐来の顔を覗き込むようにして、あれ? と口を開いた。目の下が腫れている。
「……泣いた?」
「泣いてない……」
疲労がべっとりと滲んだふてくされた声だった。これは泣いたな。
唐来は目を逸らして「出さないの?」と機嫌が悪そうに言う。工藤にはあまり精度の高くないものの搭載はされている空気を読む能力を発揮して、なにも言わないことにした。エンジンを掛けて車を発進させる。
おつかれ、というように肩を叩くと、唐来は小さく頷くように顎を引いた。
夕焼けに赤く染まる道を、車が緩やかに走り出した。