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★ゾンビを発見したらまず逃げろ

今回は番外。

工藤・唐来たちとは別の人の話。

番外がこの人達で続くかは分かりませんが、続いたとしても9割9分9厘、彼らは死にます。

 ちらちらと風に吹かれて散る桜をぼんやりと眺める。朝の光が眩しい。四月も少し過ぎた頃、本来ならば入学式があったはずのこの時期、しかし桜を愛でるものはいなかった。数ヶ月前まではきれいに掃き清められていた校庭も、今は人の手が入らずに薄汚れていくばかりだ。

順平(じゅんぺい)?」

 名を呼ばれて振り返る。そこには幼馴染の黒木(くろき)麻理(まり)がいた。()()なるまでずっと疎遠だったけれど、今はまだふとした際にぎこちないながらも、かつての感覚を取り戻すようにして親しくなっていた。

 彼女は体操服に身を包んでいる。そして自分もまた同じ格好をしている。このところずっと見慣れた光景だった。「おはよう」という声に同じものを返す。

 これから朝食を貰いに行くのだと言うので、同行することにする。場所は体育館だ。他愛のないことを話す。

 と、途中、どちらともなく足が鈍った。理由は分かっている。少し行けば、外へ面するフェンスがあるのだ。以前はそれを気にしたことなぞなかったのだが、世の中が()()なってから嫌になるほどに意識するようになった。

「順平……」

「……行くぞ」

 不安げな麻理を勇気づけるように頷いてみせる。ここを通らなければ、かなり大回りをしなければ体育館には着かない。麻理は顔を引きつらせながらも、こくりと頷いた。

 足を踏み出す。()()()へ顔を向けないようにと意識するが、しかしそう思うほどに逆に気にしてしまう。無意識にフェンスの方に目線をやって、ひくりと口端が痙攣した。

 ──そこには、()()()()()()()()()()がいた。

「ひっ」

 隣で麻理が引きつったような声を上げる。立ち止まりそうになるのを、腕を掴んで進んだ。

 麻理とは、小さな頃は手を繋いで遊びに出たりもした。けれど、いつの間にか疎遠になっていた。ずっと気にはなっていたけれど、互いに互いを認識しながらも、どこか遠慮があった。()()なる前まではそれがずっと続くと思っていた。今はまたこうして親しく話すようになったけれど、それが良いのか悪いのか。心臓が早鐘のように打つ。()()を見たせいか、あるいはこうして彼女を掴んでいるからか分からかったが。

 順平たちは充分に離れて、ほっと息を吐いた。青ざめた様子の麻理と目を合わせる。なにか心の軽くなるような言葉を言いたいと思うけれど、そんなものは見つからなかった。「……行こうか」「うん」ぎこちなく頷きあって、先程の光景を忘れようと足を進めた。互いに目的地につくまでどちらも口を閉じていた。


 ──『ゾンビ』。

 そう呼ばれる者がはじめに現れたのはネット上だった。

 一月の終わりほどに、海外の投稿サイトで動画があげられた。スマホかなにかで撮ったのだろう。最初は地面に倒れ伏し、ぴくりとも動かない人間が映る。撮影者とその友人が何事か言いながら近づくと、それはぴくりと動く。そしてゆらゆらと起き上がった。撮影者が話しかけるが答えない。茫洋とどこに焦点があっているのか分からない視線を宙に投げている。さらに撮影者たちが近づく。すると突然、相手が撮影者の友人に掴みかかった。もみ合いになって、蹴り飛ばす。相手は地面に倒れる。が、ゆるゆると立ち上がる。視線は相変わらず合わない。置かれたなにか硬いものに当たったのか、頭から血を流していた。撮影者たちは口々に罵声を浴びせるが、相手はなにも返さない。言葉を発しない。そしてまた腕を伸ばして、今度は撮影者に組み付いた。そこでスマホが落ちたのか、映像が途切れる。

 『ゾンビが現実に!』なんて題名で上げられた。しかし本気にはされなかった。順平も後になってから見たが、下手な演技でもしているのかと思った。

 次に上げられたのは数日後だった。それはどういった状況で取られたものかは分からない。固定カメラで撮られたよううに見えた。映るのはふたり。再生数秒で銃声。片方の胸が血に染まり、倒れたのを見て、銃で撃ったのが分かった。だが数秒後、それは痛みも感じない様子で立ち上がる。そして相対する相手に向かって歩いてくる。更に数度の銃声。足、腕、腹と撃ち、()()は衝撃で一瞬止まるが、すぐになんでもないように歩き出す。またも銃声。頭から血が吹き出す。倒れる。動かなくなる。近づいて、本当に動かないのか確認するために蹴る──そこで映像は終わった。

 それでもまだ悪趣味な動画として扱われた。

 だがしかし、その日から同じような動画が複数挙げられるようになった。今まで動画配信などしたことのないようなアカウントでも。そしてひとつのサイトだけではなく、SNSでも。

 はじめは質の悪い冗談として、しかし日に日に同様の内容を発信する者が増え、徐々に信憑性を帯びてきた。

 それからは転がるようだった。

 国から発表があったのはそれから数日後の二月の半ば。だがもう、手遅れだった。

 主要都市のいくつかは市民をシェルターに避難させようとした。だがそのすべてを収納するだけの容量はないらしく、抽選となった。まずそれに抗議が出た。詳細は知らないが、暴動にもなったと聞く。そして抽選に漏れた者は自宅で待機するか、あるいは学校などの公共機関に身を寄せるように案内があった。

 すべては混乱の中にあった。クラスメイトの幾人かは当選した者もいたらしいが、きちんと避難できたのかは分からない。順平は抽選に外れていた。数日は自宅に籠もっていたのだが、テレビもラジオもネットも情報が錯綜し、いつの間にか繋がらなくなった。そうして一緒にいた両親も親は様子を見てくる、と言ったきり戻らなかった。麻理も、そしてもうひとりの幼馴染も同じような状況らしく、ぎりぎり最後に見たSNSの情報を頼りに、学校へと逃げてきたのだった。


 朝早いというのに、目的の体育館にはぱらぱらと人が集まっていた。

「お! 順平に麻理じゃねぇか!」

(あきら)

 にっかりと笑って順平たちを見るのは、もうひとりの幼馴染、赤星(あかほし)(あきら)だ。ひらひらと手を振る明に近づく。彼は補給係であることを表すエプロンを付けていた。

「ほらよっ!」

 ぽん、ぽんと手の上に載せられたのは、缶詰とクッキー──学校が非常時用に保存していた食料だった。朝食だとしても、量が少ない。それに順平は渋い顔をする。隣の麻理も似たいような表情だ。

「……これだけか?」

「あー……、そろそろヤバくてな……」

 内緒の話をするように口元に手をやって、ひそひそと囁いた。ここに籠城を始めてから二ヶ月あまり。いくらひと数クラス程度の人数しかいないと言っても、食料が尽きてくる。それは仕方がないことだろう。肩を下ろすふたりに、しかし明は声をひそめて笑った。過去に幾度も見た笑い方だ。共にバカをやる際に見せる悪戯っぽい表情。

「後で行く。待っててくれよ!」

 そしてウインクひとつして、前のめりだった身体を戻す。後に並んだ者の相手をははじめた。


 体育館の隅でゆっくりと缶詰を開けていると、明が小走りでやってきた。

 正面に座り込むと、コンコンッ、と自分の分の缶詰を置く。そしてその上に、さらに缶詰を載せた。コン、コン、コン。三つ。それも人気の缶詰だ。

「これ、どうしたんだ」

「んー、ちょっとなー」

 明がにこにこと笑うのに、順平はニヤリと笑い返した。おそらく持ち前の器用さでちょろまかしたのだろう。麻理も思い至ったのか呆れた顔をする。だが正直に言ってありがたかったのだろう、小さく礼を言って受け取った。

 物足りなかった腹にそれが入って、ほっと息を吐いた。まだ入れようとすれば入るが、ひとまずは満足した。

 腹が満ちたところで、口がすべらかになった。麻理がまだゆっくりと食べるのを横目で見ながら、順平と明は話をする。

「で、そんなに足りてないのか?」

「うーん、まぁな。はじめは棚いっぱいにあったやつが、今はスカスカ」

 明はため息まじりにそう言った。

 彼はその人懐っこさから、万人に広く好かれる。悪戯も良くするのだが、人柄で許されるタイプだ。ちょっとやんちゃなのも可愛いらしい、らしい。その愛嬌で彼はこの学校の配給係として、食料管理の職をちゃっかりと頂いていた。(配給係は皆に配る前に自分の分を避けておける。つまり好きなものが食べられるのだ。)

 その彼が「やべぇ」と言うのだ。いつも笑っているような顔が、今はどこか緊張している。かなり深刻そうだ。

「それじゃ、どうすんだよ」

「うーん、外に調達しに行こう、って話は出てるけどな……」

「外、か……」

 順平は先程見た()()を思い出す。外には奴らがいるのだ。簡単には行かないだろう。

 今まで、様子を見てくると言って、学校から出ていった者は何人かいる。家の様子が気になるだとか、他に生き残っている者がいないか探すだとかの理由だ。だが、そのいずれも戻ってこなかった。

「…………」

「…………」

 どちらともなく黙り込む。

 と、突然大声が聞こえた。思わず肩が震える。ぎょっと声の方向を見ると、補給している机だ。男が女に怒鳴っている。男の方は体育教師の葛谷(くずや)、女は新米数学教師の日比野(ひびの)だった。どうやら日比野が渡した食料が少なかったらしい。葛谷は青筋を立ててこれでもかと罵倒している。対する日比野は涙目で身を縮めていて、見ているだけで可哀相だった。しかし誰も声を上げない。

 葛谷はこの学校の実質の支配者だった。ここに避難してきた人は大人もいるが、学生が多い。そして大部分が在学生だ。元々仕切りたがりの性質ではあった。今は校長も教頭もおらず、彼は我が世の春とばかりに支配していた。

 他にも大人がいるのだから、どうにかしてくれよ、とは思うものの、葛谷は仮にも体育教師だ。大柄で筋肉も多い。立っているだけで威圧感があるのだ。そこらの者には対抗できなかった。

 周りの視線も気にせず、葛谷は怒鳴るのをやめなかった。周囲を見回してみるが、みな怯えたようにして顔色を伺うばかりである。順平は口端を噛むと、ゆっくりと立ち上がった。隣の明も同じように立ち上がっていた。顔を合わせて頷く。

「……せ、先生! もうそれくらいでいいでしょ!」

「そうそう! 量が少ないのはみんな一緒ですよー! でも、ほら! 先生だけちょっと多めに!」

 順平はへらへらと笑って葛谷に話しかけた。それに援護するように明も段ボール箱の隅に入っていた缶詰を無理やり葛谷の手に押し付ける。それを振り払って葛谷は目を吊り上げた。

「なんだお前らはっ! ……補給係のお前がそうやって適当にやっているから足りなくなるんじゃないのか!?」

「いやー……、そんなつもりはないんですけどねー」

「だいたいっ……!」

 怒りの収まる様子のない葛谷は更に声を大きくして顔を赤くした。むしろ逆効果か? と順平たちが顔を引きつらせる。が、そんな噴火も、不意に聞こえた声でぴたりと止まった。

「せんせー」

 体育館の入口。もたれるようにしてそこにいたのは、学校一の不良、鮫島(さめじま)(ごう)だった。ぎらりと鋭い目で葛谷を睨んで、脅しをつけるように笑った。

「うるせぇよ。外にあいつら、集まってきてるぜ」

 ぴたりと葛谷は口と閉じた。そしてそんな自分に気づいたのか、チッと舌打ちをして「覚えてろよ」と順平たちに捨て台詞を吐いてそそくさと体育館から出て行った。それを鮫島は面白そうに片眉を上げて見送ってから順平たちに近づいてくる。

「おい、オレの分は?」

「……お、おおっ! こ、これをどうぞっ!」

 明がビクつきながら葛谷が置いていった缶詰を渡す。怯えた様子の順平たちを順繰りに見ると、ふんっと鼻を鳴らして来た道を引き返してい行った。

 彼の姿が見えなくなると、重かった空気がほどける。順平は大きく息を吐いた。

 座り込んだままの日比野を「大丈夫ですか?」と覗き込むと、彼女は眉を下げて上目遣い順平を見た。

「あ、あの、ありがとう、真野くん……」

 順平は思わず顔を赤くした。掛けている眼鏡に隠されてよくよく見なければ分からないが、彼女の容姿は優れている。それに大人でありながら、新米教師の彼女は他の者と比べて親しみやすさがあった。そんな相手に涙目で見つめられたら、心臓も騒がしくなるものだろう。

 ドギマギとしていると、麻理が心配そうに駆けてくるのが見えた。ぱっと日比野から離れる。明にも礼を言う日比野を横目に、ごまかすように彼女の方へ顔を向けた。


 コンコンと伏せていた机を叩かれて、順平は自分が寝ていたことを知った。だいぶ寝ていたのか、身体の節々が痛む。まだぼんやりとする頭を覚まそうと、目をこすった。

「麻理?」

 目の前には麻理がいた。どうやら彼女が起こしたらしい。

 ここは使われていない教室だ。共同生活をするにあたって校舎の階で男女に分けているのだが、使わない階は開放されている。といっても机と椅子と黒板がある、ただの教室だ。物置代わりに使われるほかは、こうやって順平のような暇人がぼんやりとするために使われていた。

 窓からは西日が差していた。昼のそれとは異なる眩しさに順平は目を細めた。だが彼女の顔を覗き込んで、ぎょっとする。麻理の顔色は悪かった。この夕陽の海の中でも分かるほどに。そしてわざわざ順平を探したのだろう、切迫したような空気があった。

「どうした?」

「その……、ちょっと一緒に来てほしくて……」

 起こしてごめん、と謝られた後、眉を寄せて言われる。ちらちらとドアの方を見て、なにかに怯えるように青ざめていた。

 口の重い麻理に促されて教室を出る。困惑しながらも、ぐいぐいと引っ張られて進む。服の袖を掴むその仕草は可愛らしかったが、彼女の気迫が浮ついた気分にさせなかった。

 そして進む内に、順平の眉に皺ができていく。

「……なんだ、これ」

 なんと言い表せばよいのだろうか。カチカチと硬いものを打ち合わせて鳴らすような、不規則に足踏みをするような音が聞こえた。それもひとりではない。異様な空気に、進むにつれて順平の顔は険しくなっていった。

 麻理は朝に通ったあのフェンスが見える手前で足を止めた。ひとつこの角を覗き込めば、あるだろう光景が脳裏にありありと描ける。無言のまま順平を見上げるが、彼女が言いたいことは聞かずとも分かった。

「たまたま音が聞こえて……。で、なんとなく探してみたんだけど……」

 順平はそろりと角を覗き込んだ。そして息を呑んだ。

 ──そこにはひしめき合う奴ら──“ゾンビ”がいた。

 奴らはカチカチと歯を鳴らし、フェンスを掴んで揺すっていた。それが二重三重になって張り付いている。今はまだフェンスは保ちそうだが、奴らの重さで傾いてきている。倒れるのも時間の問題だろうと思えた。

「どうしよう……」

「ど、どうしようってったって……」

 そんなこと言われても順平だって分からない。とっさに明の顔が思い浮かぶが、彼はたしか補給係として倉庫を漁るとかで今はいないのだった。大人に言うにしても、対処できそうな者がいるようには思えない。あんな大群を見たのは初めてだった。順平たちはずっとこの学校の中で暮らしていたのだ。“外”で彼らから逃げてきた者はいれど、対処した者の話は聞かなかった。

 だがここでじっとしているわけにもいかない。どうしたって順平と麻理のふたりではどうにもできないのだから、意味はなくとも他の者も呼ばなくては。そう思って踵を返そうとした。が。

「うおっ!」

「順平!」

 なにかに当たって順平は尻もちをついた。

「いてて……」

「おめぇ……」

 順平は顔を上げて凍りついた。そこには無表情な鮫島がいた。肩には鉄の棒を載せている。

 なにも言えずにいると、しかし鮫島は愉快そうに笑った。そして肩をすくめた。

「なんだぁ、お前らも彼奴らと遊びに来たのか?」

「えっ」

「んだよ、ちげぇのか?」

 驚く順平に鮫島はつまらそうに鼻を鳴らした。「だったら邪魔すんなよ」と言って、なにやら手にしているものをいじり始める。どうやらそれはタイマーのようだった。ピ、ピ、ピ、とボタンを押して時間をセットすると、角から腕を出して思いっきり飛ばした。

「なにを……」

「少し待ってろ」

 順平の言葉を遮って、鮫島はニヤリと笑った。麻理と顔を見合わせるが、彼女もわからないようだ。

 と、遠くでタイマーが鳴るのが聞こえた。同時に、ぴたりと奴らが奏でていた音が止まる。次いで、足を引きずるような音が聞こえた。

 順平と麻理は角を覗き込む。そこに見えたのは、先程まで執心していたフェンスから背を向ける奴らの姿だった。

「どうして……」

「ん? あいつら、音に反応するんだよ」

 いつの間にか火の着いた煙草を口に咥えた鮫島がなんでもない風に教えてくれた。煙草なぞ、いったいどこから調達したのか。彼はひょい、と首だけ角から出すと、残念そうに首をすくめた。

「んー、少し残ってるな」

 大半は消えたが、フェンスに数体残っている。

「あっ!」

 鮫島は気負った様子のない足取りで角から出た。そしてフェンスに近づくと、持っている鉄の棒──花壇の周りにあるような先端が尖っているもの──を張り付いている奴の顔面に突き刺した。金網にしがみついていた奴は、糸が切れたように地面に倒れた。

 順平たちはそれを突っ立って見ていた。離れた場所からタイマーの音が虚しく響いている。

「おい、お前もやってみろ」

 そして鮫島は呆然とする順平に何を思ったのか、ぐいと持っていた鉄の棒を押し付けた。そして残った一体の前に引きずる。

「えっ!?」

「あ? 世の中こんなんなんだ、やれなきゃ生きていけないぜ?」

「ほら、アンタにはコレを貸してやるよ」

 そう言って鮫島は麻理も引きずって順平の隣に立たせると、腰に差していたナイフを渡した。

 ごくりとつばを飲み込む。断ろうと頭では考えているのだが、それを言わせないような空気があった。麻理は顔を真っ青にして小さく震えている。とても動ける様子には見えなかった。順平は改めてフェンスにへばりつく“奴”を見た。

 フェンスを掴む指先は黒ずんでいる。目を閉じて棺に入れられるのがふさわしい紙のような顔色。見開いた目は白濁していて、ぎょろぎょろと獲物を探すように動いている。それは人間の形をしていた。死んだ人間だった。

 こうやって正面から対峙するのははじめてだった。ここへ逃げてきた時にも見かけたけれど、ずっと隠れるようにして移動したから、こんな風に真正面から見たことはなかった。

 だが、いずれそうする必要がある、とは薄々感じていた。

 ()()なった後もずっと、怠惰な日常の延長だとごまかして過ごしてきたけれど、そんなはずなどないのだと分かっていた。ただ認めるのが恐ろしく、そちらの方が楽だっただけで。

 順平は鉄の棒を握りしめた。覚悟を決めて()()を睨む。四肢に力を込めた。

 鉄の棒がそいつの目に入り込み、骨をかすり、肉を選り分ける感覚がする。ぶにぶにとした水袋に突き立てるような。そうして引き抜く。これには突き入れるよりも力が必要だった。

 ──ドサリ。

 数秒前までカチカチと歯を鳴らしていた()()は、ただの()()に戻ったように乾いた音を立てて地面に倒れた。持っている鉄の棒の先端からなにものか分からない液体が滴っている。顔半分を潰した()()は白濁とした宙を見上げて沈黙している。

「ひゅう」

「う、げぇ」

「順平!」

 鮫島が口笛を鳴らすのを聞きながら、順平は吐いた。それが()()へと変わったそれに対してなのか、自分の行いに対してなのかは分からなかった。麻理に背中を撫でられながら、喉奥がつんとするのに涙目になった。


 その後、順平は鮫島に吐いたことを「だらしねぇな」と呆れられながらフェンスの補強をして別れた。このことは鮫島の方から葛谷に話しておくと言うので一抹の不安があるものの任せることにした。鮫島と葛谷の関係はいまいちよく分からないのだが、たまに一緒にいるところを見る。

 餞別などと言われて鉄の棒をもらったのだが、どうすればよいのか分からずに寝床の横の壁に立て掛けてある。麻理もナイフをもらっていたが、微妙な顔をしていた。

 それらの一連のことを明には話した。順平が()()にしたことの下りでは顔をしかめていたが、否定されることもなく、むしろその逆の目を向けられて心の中でほっとした。きっと明も今のままではいけないと分かっているのだろう。

 いつにも増して少ない夕食を取った後、順平たちは就寝用の部屋に戻った。机などを運び出した床に体育館から運んできたマットが敷かれ、その上に寝袋が置かれている。学校に常備されていたものと、部活で使われていたものだ。

 決して寝やすいとは言えないそこに潜り込む。「おやすみ」「ああ、おやすみ」ぽつぽつと就寝の挨拶を交わして目を閉じる。

 眠りはすぐにやってきた。


 ◆◆◆


「せんせー。約束のもんだ」

 ひょい、と投げられたものを取ろうしたが、指先で弾かれて地面に落ちた。それを舌打ちして拾う。

「あ、そうそう、ちょっと前に体育館のそばのフェンスんとこで、奴ら、集会してたぜ」

 もうちょっと、音に気を使ったほうがいいぜ、という不良の忠告は、しかし男はその前の事柄に集中して聞き逃した。

「……! それでどうしたっ!?」

「ははっ、オレが追い払ってやった。感謝しろよ?」

 そうやって傲慢に笑う不良を、男は顔を歪めて睨みつけた。しかし不良はそれを歯牙にもかけず、馬鹿にしたように笑うと「じゃぁな」と後ろ手に手を振って去っていった。

 男はその後姿を憎々しげに見送り、舌打ちをすると先程渡されたもの──男の愛用の煙草──を箱から出して口に咥えた。慣れた様子で火を付ける。イライラと煙を吸った。

 まったく、教師に対してあの態度はどうなのか。これがいつもだったならば、不良を退学まで追い込むことは容易い。だが今は“いつも”ではない。

 男はこの非常時に、この学校の“王”として君臨している。目の上のたんこぶ──事なかれ主義の校長や、日和見の教頭──がいない今、男にとって最高の環境だった。少し怒鳴りつけ、脅しつければ、大概の者はへいこらとこちらに頭を下げる。

 だがあの不良だけは違った。以前からこちらを小馬鹿にするような態度を取る奴であったが、世の中が()()なってからは更に態度が大きくなった。奴のせいで、自分の王国が脅かされるのが気に食わない。しかしあの不良がいなくては、こうやって煙草を吸うこともできないのだから、多少は我慢しなくてはならないのは分かっていた。──あの不良が“外”で、男の望むものを調達してくる代わりに、男は奴の様々なことを見逃してやっていた。

 ──だが。

 しかし最近、こちらに反抗的な者が増えてきた気がする。あの新米女教師はともかくとして、アレを庇った男子生徒たち。あの場で屈服させたかったが、不良に邪魔をされてこちらの無残を晒すことになった。思い出すと頭の芯が熱くなる。

「くそっ! くそっ! くそっ!」

 ガンガンガンッ、と足元に転がっていた空の一斗缶を蹴った。そして最後に大きく足を引くと、ひときわ大きな音を立てて蹴り飛ばす。弧を描いて飛んでいった先、フェンスを隔てた場所に“奴”がいたことなど、男は気づきもしなかった。


 ◆◆◆


 なにか音が聞こえて、順平は目を覚ました。視界は暗く、まだ夜が明けていないことが分かった。緩慢に瞬きをする。まだ眠り足りなかった。気の所為だったのだろうか。また眠ろうと目を閉じようとしたときだった。誰かが叫ぶような声が聞こえた。

 眉根を寄せる。耳を澄ます。また同じ声──悲鳴だ。

「明!」

 順平はばっと身体を起こすと、隣の明を揺さぶった。「なんだぁ」と寝ぼけ眼で目を開けた明も、悲鳴を聞いてさっと目が覚めたらしい。明が部屋の他の者たちを起こすのを横目で見ながら、教室のドアを開けた。手には一応鮫島にもらった鉄の棒を持つ。声の反響から、どうやら下の階で聞こえているらしい。この下は女性の階だ。

「いくぞっ!」

 懐中電灯を手にした明が隣に立つ。順平は自分の分も受け取って、走り出した。

 一体何が起こっているのか。それはそう進まない内に分かった。

「おい! なにが起こっている!?」

 階段の踊り場に立っていた、おそらく年下だろう、順平よりも背の低い人影に怒鳴る。だが人影はぼんやりとするばかりで返答はなかった。明が懐中電灯の光で相手を照らす。

「おい! ……ひっ!」

 浮かび上がったものに、ふたりは息を呑んだ。血に染まった口元。青ざめた顔。死んだように白い肌。白く濁って焦点の合わない目。──“外”の奴ら。ゾンビだった。

 順平は一瞬怯んだものの、手にした鉄の棒を頭に刺す。ゾンビ相手には頭を狙わなければ動きを止めないというのは、鮫島に教わったことだった。ずしゃりと水袋が落ちるような音をさせて崩れ落ちた()()を跨いで階段を数段飛ばしで降りる。幼馴染──麻理が心配だった。

 女性の階は血塗れだった。廊下に首を噛み切られて倒れる見知った顔を見て、悲鳴を噛み殺す。それのそばにしゃがんでいたゾンビの頭を殴りつける。緩慢な動きで順平の方を振り向く頭に、鉄の棒を串刺す。

 と、背後に気配を感じた。殴りつけようとして、「ひぃぃぃ!」という悲鳴を聞いて寸前に手を止める。

「……日比野先生?」

 それは新米教師の日比野だった。寝間着だったのだろう、学校のジャージを来た彼女は頭に手をやってしゃがみこんでいる。順平と明を認めると、涙目でひくひく喉を鳴らした。涙をこらえる真っ赤な目は常ならば可愛らしいと思ったのだろうが、この非常事態ではかまっている暇はなかった。

「真野くん……? 赤星くん……?」

「せ、先生! 麻理を見なかったかっ!? 黒木麻理!」

「えっ、黒木さん……? ご、ごめんなさい、わ、わからない」

 日比野は混乱しながらも順平の質問に首を振った。

「くそっ、どこに!?」

 と、また悲鳴が響いた。麻理の声だ。順平と明は弾かれたように走り出した。

 廊下の角を曲がって、すぐ。麻理は椅子を手に持って床に尻を付けていた。どうやら椅子で牽制していて、バランスを崩したらしい。服を掴まれて今にも噛みつかれそうだった。

 ぶん、と明がいつの間にやら手にしていたモップでゾンビの頭を殴った。のけぞって麻理から離れたのを見て、順平が蹴り倒す。そして振りかぶった鉄の棒を頭に突き刺した。抵抗がなくなったのを確認して引き抜く。

「じゅ、順平……! 明……!」

 半泣きで突撃するように抱きついてきた麻理をどうにか二人がかりで抱きとめた。


 麻理も日比野もなにが起こっているのか分からないと言う。ただ分かっているのは、いつの間にか校舎の中にゾンビが入り込んでいるという事実だけだった。廊下の至るところは血に濡れていた。点々と人が倒れていて、それを貪るようにしてゾンビが膝を付いている。順平たちは奴らがこちらに反応する前に、その横を駆け抜けていった。悲鳴が校舎の中に響いていた。

 命からがら外に出る。そしてそこでも、絶望を目にした。

「な……、んだよ……」

 そこには無数のゾンビがいた。ゆらゆらと身体を揺らしながら、新たな生贄を求めるように歩き回っている。

 呆然と体の力が抜けそうになるのを、しかし日比野の声が遮った。

「車! 車を取りに行こう! 私のが駐車場にある……!」

 日比野は目に涙をたたえながら、しかし強い視線で教え子たちを見ていた。それにはっとして、順平は自分に発破をかけるようにして「ああ!」と大きく答えた。

 順平たちはゾンビたちをすり抜けるようにして走り出した。近づいてくる者も、順平と明が武器を使って押し返す。

「あった!」

 駐車場の周りは奴らの姿が少なかった。日比野がキーのボタンを押すと、車のヘッドライトがピカピカと光る。

「入ってっ!」

 いつものおどおどとした態度がなんだったというほど、日比野は鬼気迫った様子で指示をした。順平たちは飛びつくようしてドアを開けると、中に身を滑り込ませた。横に駐車された車にドアが当たって嫌な音を立てるが、そんなことは気にしていられなかった。

 順平は勢いよく扉を閉めようとする。だがそれを掴む手があった。警戒に武器を握るが、しかし見えたのは奴らではなかった。

「よぉ、オレも入れさせてくれよ」

 ぐい、と閉じかけたドアを無理矢理に開けたのは鮫島だった。服を血でところどころ濡らして、いつもの不敵な笑みを浮かべている。鮫島は順平の返答を聞くよりも前に、ぐいと押して順平を奥に押すと、どっかりと座ってドアを閉めた。

「行きますっ!」

 それを見て、日比野が声を上げる。勢いよく車が発進した。ゾンビにかすりながら、しかし速度を落とすことなく車は走る。校門は閉じられているだろう。どこから出るのかと順平たちが疑問に思っていると、車はどんどんと速度を上げて、適当なフェンスに突っ込んだ。衝撃で引っこ抜かれたフェンスがボンネットの上を跳ねて、後方に飛んでいく。しかし車は止まることはなかった。

 順平たちは学校の“外”へ出た。空は白み始めていた。

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