葬儀・埋葬の必要はない
前半の方は結構昔に書いたもの。前の方が面白い文章を書いていたような気がする……。
工藤の趣味は読書だ。頁を捲り、文字を追い、広がる世界に想いを馳せる。文学から実用書、時には専門書まで手を伸ばすことがある。
それらは工藤にさまざま事を教えてくれた。心躍る冒険だったり、知らなかった世界の解法だったりと、工藤の内を育んできた。学校に通っていた頃には休み時間は大概読書の時間だったし、家に帰ってからも齧り付くように本を読んでいた。同じ年頃の少女がおしゃれを趣味にしていたと言うならば、工藤は読書が趣味だった。飽きることなく本から本へ手を伸ばし、図書館にはほとんど毎日通っていた。
どうしてそんなに本が好きなのか。その理由の最も根本は生まれた家が貧乏だった、ということだろう。つまりはお金のかかる趣味は経済的に出来なかったのだ。貧乏でもできる趣味というのは限られてくる。道具の要らないスポーツに精を出すか、それとも工藤のように公共のもと開放されている施設を活用するかだ。
バイトができればまた違っただろうが、両親が許可しなかった。彼らは元より貧しかったわけではなく、むしろ裕福だったらしい。それが何があったのか、あれよあれよという間に転落し、泥を啜ると言うほどではないが、必要最低限度の生活ぎりぎり、というところまで落ちた。それに合わせて振る舞えればいいのだが、プライドだけは高く、自分の子供がアルバイトをするのが許せないらしい。貧すれば鈍する、とはまさにあのこと。金がないことで精神的な余裕がなくなり、高尚でいたいという欲望が皮をかぶったただのプライドの塊だった。元より彼らがかつては気高い人間だったかというと甚だ怪しいが。
それでも工藤も社会勉強云々のため、なんて彼らに耳障りのいい言葉で説得を試みたのだが、なしの礫、それ以上は聞きたくないとばかりに会話のシャッターを閉められた。
そんなこんなで工藤は常に懐の寒さに喘いでいた。だから本が好きになるのは必然だったのだろう。本は買わずとも図書館で借りれば無料だ。公共施設ばんざい。元々インドア派であったし、知らない世界を知るのは楽しかった。今では立派な本の虫。活字中毒とも言い換えられる。
だがこの終末世界になってなら満足に本が読めていない。
そもそも読書の時間があるならば生存のためにしなければならないことがあったし、日々くたくたに疲れていたから夜の空いた時間に読むなんてことも出来なかった。たが今はある程度生活の基盤ができたし、体力については不本意ではあるが唐来のおかげでそこそこついた。そうなるとそぞろ顔を出すのは知識欲だ。
マズローの欲求五段階説とやらである。工藤はいつだったか授業で教えられたものを思い出した。
下から順に生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求の五つの階層があり、下の階層の欲求が満たされるとその上の階層の欲求を満たそうとする心理学的行動のことだ。少々不自由だが食事は取れているし、容易く壊されない壁に囲まれた家もある。生理的欲求と安全欲求という第一、第二階層はクリアされ、一応唐来が居るので第三の社会的欲求も問題ない。次に求めるのは高次の欲求だ。知識欲が四と五のどの階層に分類されるのかは知らないが、随分前からくすぶる欲がそろそろ限界だった。
──そうだ、図書館に行こう。
その答えがはじき出されるのは地球が回るのと同じくらい当たり前だった。
文字、文字が読みたい。知識が欲しい。物語で感情を揺らしたい。
体の奥から突き上げてくる活字中毒とでも称されるだろうこの欲望をどうやって唐来に悟らせることなく伝えようか。そのまま素直に言うのは駄目だ。彼女がこれまで訴えてきた現状に合わない要望の数々──かき氷が食べたいだとか、プールに行きたいだとか──を工藤は毎度毎度首を横に振ってきたのだ。それも蛆虫を見るような目で。
──活字中毒が禁断症状を訴えるから、危険を承知で図書館に行きたい。
駄目だ。もしも工藤が唐来ならば、廊下の隅に重ねられているかび臭い新聞紙を、それでも読んでろと投げ渡す。それはすでに読み終えている。じっとりと指に染み込むようなかび臭さは最悪で、その上書かれているのは過去の時事──オリンピックだとか、隕石が落ちただとか、どこぞの国の情勢だとか──だ。なにもないよりはましだが、楽しく読めたかと言うと首を傾けざるをえない。そんなものを酒が欲しいと震える末期患者に、消毒用エタノールを差し出すような目で渡されてみろ……。
唐来にそんな目で見られた日には、工藤は屈辱のあまり憤死するかもしれない。工藤が唐来を道にぶち撒けられた吐瀉物を見る目で見るのは許されるが、その逆は神が許しても工藤が許さない。
これはしっかりとプランを練る必要がある。さて、どうしよう。
しかしそんな工藤の悩みは思わぬ形で解消されることとなった。
「火が付かない」
カチカチと何度もコンロのスイッチを入れるが、見慣れたあの青い火はいっこうに点かない。
唐来が横で眉をハの字にしてヤカンを持っている。さしずめおやつとしてカップラーメンか何かを食べようとしてお湯を沸かしたかったのだろう。そして火が付かなくて工藤を呼んだ。
「たぶん、ガスが底をついたんだろ」
節制は心がけていたが、毎日三食使っているのだ。工藤たちがここに住み始める前にどれくらい残っていたかは不明だが、正直ついに来たかといった感じだ。──だが。
工藤はぱしりと少し高いところにある唐来の頭を叩いた。
「ガスは貴重だから考えて使えって言っただろ」
「だってぇー」
頭を押さえながら不貞腐れた顔をする唐来を一瞥して、さてどうしようかと考える。
こういう時のためにカセットコンロはあらかじめ確保してある。だがそれも永続的に使い続けられるわけではない。工藤の脳裏にこの間見たソーラーパネルが屋根にある家が過ぎったが、あれは唐来が拒否感を示した。「いい家は売れている。そうでなければ罠」だったか。一理あるし、面倒ごとは御免だ。工藤たちは女。どうしたって力では男に負ける。
かと言って別の家に移るというのもまた面倒だ。三ヶ月ほどここを拠点にやってきたし、畑を作ったり、柵を作ったりとなんだかんだ投資をしてきた。それが無に帰るというのはいただけない。
「……となると作るしかないけど」
そこで工藤はピンときた。
「唐来、図書館に行こう」
「はえ?」
心配そうにこちらを見つめていた唐来が気の抜ける声を出す。それに真剣な顔を返しながら、工藤は心の中でニヤリとした。
「かまどの作り方とか知らないし。それにいろいろ不便なことがあるだろ。それ以外の知識も仕入れたいし」
そういうことで、図書館に遠征に行くことになった。
◆◆◆
確保していた地図を片手に図書館に車を乗り付ける。灰色のコンクリートが静かに鎮座していた。周囲の樹や花は奔放に伸びているが、どっしりとした建物は沈黙している。植物の鮮やかさに対してそれが妙な存在感を放っていた。
目に見えるところには奴らがいないようだった。音を立てないように入り口に進む。ガラスの二重扉はどちらも閉まっていた。そのどちらにも鍵穴があるのを見て、裏口に回る。
「うわぁ……」
そこには鎖が巻きつけられたドアがあった。自転車に巻きつけるような粗末な鍵付きの鎖だった。ドアにも鎖にも血のあとがあり、どうやら熱心に扉を開けようとした者がいるらしい。
黒ずんだドアノブを引くと隙間ができる。ドア本体には鍵はかかっていないようだ。ちらりと見える内側にも血の跡がある。ということは中に奴らがいるのだろうか。
だがそれよりも先にこの鍵をどうにかしなければならない。ちらりと唐来を見ると、彼女は不遜に笑みを浮かべて胸を張った。
「そんなときは、てってっれー、ピッキングー」
唐来が国民的に有名な青い未来ロボットの真似をしながら手早く鍵を開ける。毎度毎度鮮やかなものだ。
鼻歌交じりに鍵を開けるこいつは一体どこの犯罪者なのか。唐来いわく「ピッキングは淑女の嗜み」らしいが。いったいどこの世界の淑女なんだか。
鍵もそう時間をかけず開いて、中に滑り込む。香ってきた懐かしい紙の香りに、工藤は思わず息を詰めた。
つんと鼻の奥が痛くなった。かつての日常が雨のように工藤を打つ。その香りは工藤の一等平穏な日々の香りだった。そう、学校帰りに毎日のように図書館に寄って──。
「工藤?」
かつてに思いを馳せていた工藤を唐来が不思議そうに覗き込む。わずかに滲み始めていた視界を不自然にならない程度の瞬きで誤魔化して彼女に目を合わせた。郷愁の念は未だあるが、それに浸っている暇はない。
ぐるりと周囲を見回す。聞こえてくるのは工藤と唐来の息遣いのみで、しんと時が止まったように沈黙していた。
「奴らは?」
「いない、っぽい?」
少なくとも気配はない。しかしドアに続く道には血の跡が点々とついていた。足跡だ。だが規則正しいそれではない。まるでもみ合ったような乱れようだった。だが奴らはふらふらと歩く。そこまで変なものでもない。
首を伸ばしてみるが、しんと微睡むような静けさがあるだけだった。
「とりあえず……」
工藤はすばやくドア近くに空き缶で作った鳴子を仕掛けた。逃げられるようにドアは開けっ放しにしておく。ここからもしも奴らが入ってきたらこれで分かる。
そうしている間に唐来が台車を持ってきた。それをころころと転がしながら、中を歩き回ってみる。もしも突然襲いかかられてもそれで牽制できるという寸法だ。が、奴らの気配はない。
ならば、と最後に残った職員用の準備室の前に立つ。扉の前には黒く変色した血が落ちていた。棍棒をすぐに振り下ろせるように手に持った唐来と目を合わせ、頷く。一息に扉を開けた。唐来が素早く踏み込むが、たたらを踏んだ。
「いない……」
工藤も中を覗く。がらんと寂しいばかりの空間が広がっているだけだった。一歩踏み込んで、足裏になにかを踏んだ。慌てて下を向いて、それを拾い上げる。
「職員証?」
カードホルダーだ。ストラップが壊れてしまったらしい。力いっぱい握りしめたような跡がある。プラスチック板に反射される中には、生真面目そうな顔の職員の写真が収まっていた。裏口の鍵と思われるものも付いていて、後で役立つかもしれないと工藤はそれを懐に入れる。
息を吐いて隣を見る。彼女も気の抜けたような顔をしていた。
「奴らは居ないみたいだな」
「うん」
少し拍子抜けだった。なんとなく腑に落ちない気もするが、いるよりはいない方がいい。窓から差し込む光が、キラキラと埃を反射して輝いていた。
互いに肩をすくめる。二手に別れて必要そうなものを集めてくることになった。
しんと眠りに落ちたような空間に、工藤の息遣いと、足音だけが聞こえる。唐来もそう遠くにいないはずだが、図書館という消音に優れた場所で、他者の気配はひどく曖昧になる。在りし日に戻ったような気がして工藤の心は弾んだ。によによと口元に笑みが湧いてくるのを頬の筋肉を引き締めてどうにか耐えようとする。
図書館に住みたいと言うのが工藤の幼少からの夢だった。将来の夢というテーマの小学校の作文には『ししょ』と書いたのが懐かしい。大きくなるにつれて司書は思ったほど優しい仕事ではないと知って、ならば自由時間が取れるようなサラリーマンになりたいと夢は変わっていったが、それでも本に囲まれて暮らしたいと思う気持ちは変わっていなかった。
こんな世界だ。拠点を図書館にしても……と思わなくもないが、しかし生活を考えると難しいだろう。備蓄はほとんどないだろうし、キッチンも職員用にある程度。周囲も特別守りやすいフェンスなどが張り巡らされているわけではない。自分一人ならばあるいは考えたかもしれないが、ふたりならば無理だ。自分の欲心のために相手を危険に晒すことはできない。
一瞬浮かんだ考えに心の中で首を振って、切り替えるように本の森に目を移した。すぐに口元に笑みが浮かぶ。目元も柔らかく弧を描いた。先程まで考えていたものは彼方に消えた。
本棚と本棚の間を歩きながら関係のない本に手を伸ばそうとする自分を律する。ここで欲望のままにうっかり本を開いてしまったらあっという間に動けなくなる、というよりも動かなくなるという確固たる確信がある。けれど読みたい。ああだが、ここで読んだら止まれなくなる。いやいやでも……。
胸中での天使と悪魔の攻防は悪魔に軍配が上がった。
すっすっすっ、と通り際になめらかな動きで気になる本を抜き取る。数冊くらい関係ない本を持っていっても良いじゃない? どうせ唐来は気が付かない。気が付かないといいなあ。
抜き取った本はここで開かず、背負ったリュックに詰める。ようやっと目的の棚につく頃には背中はだいぶ重くなっていた。幸せの重みだ。
サバイバル。保存食。そのほか生活の知恵。
工藤が求めたものだ。少なくともコンロの代わりになるものについての知識は持って帰らねばならない。目次をざっと眺めて当たりをつける。考えていたよりも持ち帰りたい本の数があった。リュックの中は個人的なものでぱんぱんだ。工藤は顎に手を当ててしばし考えた後、来た道を戻って台車とそこらに畳まれていたダンボールを持ってきた。そしてそこに詰め込んでいく。さり気なく自分の興味のものを入れるのも忘れなかった。
せっかくだからと目的以外の本も持って帰ることにする。食事のレパートリーも増やしたいし、知識はあって無駄にはならない。知らないことで降りかかる不利益があるだろう、という人もいるだろう。だが工藤は知っていることで回避できる危険の方が多いと思っている。
工藤の脳裏にいつか読んだ本の内容が浮かぶ。
──知識さえあれば、彼女は助かった。
こういう話だ。
自分以外何日も人を見ていないような砂漠の道で強盗に襲われ、金品を奪われた後に自身の車のトランクに詰められた。トランクの中にはこじ開けられるような道具はなく、己の手足だけが武器である。叫んでも暴れても助けは来ない。さて、彼女はどうなったか? ──数週間後、車はたまたま近くを通りかかったドライバーに発見され、彼女はトランクの中で腐っていた。トランクの内側は血だらけの引っかき傷で赤く染まっていたという。
彼女に必要なものはなんだっただろうか?
──強盗に対抗できるだけの力? それともトランクから脱出できるだけの道具を持っておくべき? あるいは助けがやってくる運だろうか?
だがこの話の教訓はそうではない。彼女はただひとつ、たとえ閉じ込められたとしても内側から開けることはできるのだという知識があれば、生きて朝日を眺めることができたのだ。
彼女の車のトランクには脱出用のハンドルが付いていた。犯罪への対抗として近年の車に見られるもので、彼女はそれを引くだけで外へ出ることができたのだった。
工藤はこの話を読んだとき、そこまで深くは考えなかった。ただ「ふーん」とそれだけだ。だがこんな世界になってから度々思い起こす。
知識は力だ。生きるための力になる。
台車の上の最後のダンボールの隙間が後少しになった頃、唐来が合流してきた。
「なにかいいものはあったか?」
「うーん、まあねえ」
へらへらと笑いながら指差す。「田舎だからか、置いてある漫画が古臭かったけど」
どうやら彼女は漫画コーナーで暇をつぶしていたらしい。オタクを自称する人間なのでなんとなくそんな気はしていた。ちらりと見た唐来の背負うリュックが先程の工藤のそれのようにぱんぱんに膨らんでいる。それも許容範囲だ。はじめから唐来にこういった面の期待はしていない。
唐来はダンボールの中を覗き込むと、リュックに入り切らなかったのか手に持っていた数冊をおもむろに放り込んだ。
「ちょ、おまっ!」
「え? ダメ?」
「……ダメで……ないけど…………」
工藤も関係のないものを入れているので、あまり強く出れない。が、眉を寄せて不服だけは表しておいた。こういったことろで甘い顔をすると、唐来は際限なくずるずると甘えてくる。『1日でできる! 自由研究』『猿でもわかる護身術!』『人間は考える葦ではない』等々。いずれもあまり実用性はありそうにない。
ため息を吐いて、残りの隙間に本を入れていく。もうほとんど必要そうなものは入れたが、ありすぎて困るということはない。
──カランッ。
不意に金属が鳴る音がした。裏口に仕掛けておいた鳴子だ。弾かれたようにそちらに視線を移し、唐来と顔を見合わせる。
唐来は目を鋭くすると走り出した。その後ろに続こうとして、たたらを踏む。せっかく集めた本を置いていくのはよろしくない。工藤はひとつ舌打ちをすると、台車の取っ手を掴んだ。
「唐来!」
工藤が到着したとき、中に六体が入り込んでいた。唐来が倒したのか一体は床に倒れ、残りの五体がゆらゆらと揺れている。素早く扉の奥を確認するが、後続はいないようだ。つんと腐った臭いが鼻を突く。
こちらが取れる方法は大まかにふたつある。ひとつは、ひとりが囮になって引き寄せるかなにかして中に閉じ込める。もうひとつは、ここで倒すことだ。五体。正直骨が折れる。だが。
「唐来、倒すよ」
「えっ、めんど……。…………分かった、いいよ」
嫌そうに顔をしかめた唐来だったが、工藤の目を見ると仕方なさそうに笑った。
図書館は工藤の聖域だった。こんな世界でも、こんな世界だからこそ、奇跡のようにかつてのままで残っているこの場所が侵されるのは許しがたかった。
図書館の中までコンパウンドボウは持ってきていないので、工藤はナイフでの対抗となる。唐来は棍棒だ。このまま奴らが横に広がれる場所にいると、対処を間違えば奴らの仲間入りをしかねない。
あまり良い気分ではないが、ゆっくりと後ずさって棚と棚の間に誘導する。こうすれば一対一。身長差があって伸び上がらなければ頭にナイフを刺せないが、唐来のブートキャンプのおかげで多少の脚力はできていた。掴まれる前に素早く突き刺して、抜き取る。カーペットに腐った血が染み込むのに顔をしかめる。できるならばきれいなままで帰りたかった。
二体を倒して唐来の方に行く。けろりとして工藤を見た彼女の足元には二体倒れていた。
「あれ、あとひとりは?」
「ん? 工藤のところに行ったんじゃないの?」
「来てないけど……」
互いに首を傾げた。
残りの一体は貸し出しカウンターにいた。あー、うーと唸りながら、カウンターの内側に佇んでいる。工藤たちが近づいても大した反応はしなかった。ただ白く濁った瞳を虚空に投げている。それがまるで職員のようだと思って、脳裏に光が走った。
「あっ」
その横顔に見覚えがあった。懐から先程職員用の準備室から拝借したものを取り出す。裏口の鍵付きの職員証。そこに真面目そうに映る生真面目そうな顔。崩れて腐ってはいるが、それと同じ顔がそこにはいた。
裏口の鎖で押さえつけられた血だらけの扉。奴らを閉じ込めているかと思えば、中にはなにもいなかった。準備室に落とされていた鍵付きの職員証。血の落ちた床。
バラバラだったそれらが、脳裏で光の速さで像を結んでいく。導き出された答えに、工藤は唇を噛んだ。
呆けたように突っ立っている間に、唐来が後ろから助走をつけて転ばせた。そして脳天にナイフを突き刺さす。相手が糸が切れた人形のように動きを止めるのを、工藤はどこか遠いところのように眺めていた。
「工藤?」
ぼんやりと立ちすくんでいると、唐来に声を掛けられた。びくりと震えて瞬く。気付かずに詰めていた息を吐いた。唐来の足元にはかつて生きていたのだろうそのひとが腐りきって虚空に目を見開いていた。
胸中にやるせない気持ちが湧く。だからといってどうしようもないのだけれど。
工藤と唐来は図書館の目の前。青々と葉を伸ばす大きな樹の下で手を合わせていた。
目の前には白いシーツに包まれた遺体がひとつ。その上に近くで伸び伸びと咲いていた名も知らぬ青の花が添えてある。シーツは職員用の部屋の奥のベッドから拝借した。できるならば穴を掘りたかったのだが、そんな道具はないし、人をひとり埋められるような穴を掘るには時間がかかりすぎる。
今まで“奴ら”を倒したとしても、こんなふうに扱ったことはない。そんな余裕はなかったし、必要性も感じていなかった。だってこの世界で、奴らよりも生きている人間の方が少ないのだ。ここでは人が死ぬことは、そう特別なことではない。歩く死が溢れていた。
だからこのひとは特別だった。
工藤は分かってしまったのだ。このひとが何をして“奴ら”になってしまったのか。
いや、その言葉は正しくない。正確には、何を思って奴らに噛まれた後に行動したか、だ。
裏口の床に落ちた血の跡。中に奴らはいないのに、外側から無理矢理に閉じられた扉。取り残されていた鍵付きの職員証。
おそらくこのひとは準備室で奴らに襲われたのだ。その時、職員証を落とした。そして噛まれた。──遺体の肩口に噛み跡があった。
噛まれたということは、つまりは数時間もすれば奴らに変わるということだ。そこで考えたのだろう。
──ここに、奴らを残していってはならない。
裏口の近くの床にあった血の足跡。きっと侵入した奴らともみ合ったのだ。そして外へ連れ出した。自分も一緒に外へ出て、次に何を考えたか。
──ここに、奴らを入れてはならない。
そしてそれはいずれ奴らに変わる『自分』も含んでいて。
鍵は中に落としてしまっていて、取りに戻る時間が無かったのだろう。だから近場で使えるもの──裏口の近くには職員用の駐輪場があった──を使って入り口を塞いだ。ドアに付いていた血の跡は、きっと“変わって”しまった後のこのひとのものだ。
工藤はその気持ちがなんとなく分かった。このひとにとっては図書館はとても大切な場所だったのだろう。工藤にとってそうであるように。多少の危険を冒しても図書館の中に入ってきた奴らを閉じ込めるのではなく、倒そうと思うように。
このひとの他に入り込んでいた奴らは、みな建物の中から出した。残して置きたくなかったのだ。図書館は人類の英知の宝庫だ。そこを汚したくなかった。裏口のドアも、拝借した鍵できちんと閉めた。
他の者は敷地の隅、土の見える影の場所に運んだ。このひとも同じようにしようとして、けれど工藤たちは別の場所──ここに運んだ。図書館がよく見える場所だ。これが工藤からの彼の人への“敬意”の形だった。唐来に頼んで手伝ってもらった。
「……工藤、行こう」
「うん」
最後に一度その白に包まれるひとを目に収めて、工藤は小走りに唐来の後を追った。
次回は工藤・唐来以外の話になります。