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小さいことを楽しめ

ちょっと題名にちょっと文字を足しました。


この話は時系列的に1話の前か、少し後くらい

「あーつーいー」

 唐来は縁側にごろんと横になって呻いた。この家で最も風が通る、猫がいたならばここで寝るだろう場所だ。が、夏の暑さには勝てない。ミーン、ミーンだとか、ジージーだとかなんという名前かは分からないが、推定セミが暑苦しく鳴いている。息をするだけで暑い。生きているだけで暑い。

 この家は木造だ。コンクリートに覆われていないせいか、あるいは周りにそれなりに緑があるせいか──家の外には小山がある──都会よりは家の中が涼しい、はずだ。暑いと思えばクーラーを入れ、寒いと思えばヒーターを入れる工藤いわくお嬢様の唐来はいまいち確信を持って言えないが。いま唐来が「人類が作り出した、最も素晴らしいものは?」と聞かれたら、ピンと指先まで綺麗に伸ばして手を上げて、「エアコン!」と答えただろう。

 太陽が殺しにかかっている。流石にこれだけ暑くては畑仕事をするわけにもいかない。やつらに殺される前に熱中症で死ぬ。土に汚れるのはこの頃は朝と夕方だけだ。

 工藤は工藤で別の場所で呻いているはずだ。トイレに行った時は奥の廊下に寝転びながら本を読んでいた。前に同じ部屋に人間が二人いるとそれだけで暑いという結論に達して、それから夏の間はなるべく別々に行動しようということになったのだ。ちなみに工藤に「お前は特に筋肉があるから暑いのではないか」と至極真面目に分析された。裏切りだ。憧れのシックスパックにそんな落とし穴があるとは聞いていない。暑さを理由にトレーニングは中断していて、今ではあの盛り上がりは鳴りを潜めているが。トレーニングの中断の理由にそれがあるかどうかは、工藤に言うつもりはない。

「うーあー」

 いま外で元気で元気に動き回っているのは、やつらとセミくらいだろう。セミも暑すぎると熱中症になって死ぬらしいから、最終的にはやつらの一人勝ちか。暑ければ暑くなるだけ腐って動かなくなってほしいのだが、残念ながらやつらは匂いがきつくなるだけで汗もかかなきゃ熱中症にもならずに動きを止めないのだ。それなのにも関わらず、ナイフを突き刺すとプシュプシュと妙な液を飛び散らせるのでたまらない。

 ついこの間、畑に迷い込んできた奴を倒して、三日ほど臭いが取れなかったことを思い出して唐来は顔をしかめた。ぱたぱたと重い腕を動かしてうちわを扇ぐ。

 この際、妥協してアイスでも食べさせてくれないだろうか。バーゲンダッツとは言わないから。ガリゴリくんにかぶりついて、頭をキーンとさせたい。

 唐来はごろりと体を転がした。床がひんやりして一瞬だが幸福な気分になる。すぐに体温を吸って消えてしまう幸福だが。

 そもそもどうしてこんなにも暑いのだろうか。地球温暖化とか言われていたからそのせいなのか? 石油由来のビニールは使わないようにしましょうとかいうムーブメントが遠い国から我が国に伝わってきたのは知っていたが、唐来は今まで対して気にしたことはなかった。特に何も考えずコンビニでビニール袋をもらい、使い終わったら捨てていた。

(……今度から気をつけよう)

 そんなことを思う。今度、といっても文明が蘇る予定は今のところなさそうなので、その機会は永遠にないかもしれないが。

 暑さのせいで思考が方々へ飛んでいく。ここにはいない工藤が「いつもお前の頭はアメリカに行ったかと思えば、中国に行ったりしているくせに」というツッコミを入れたような気がしたが、無視する。

(……なーんか、涼しくなるものないかなぁ)

 湯立ちそうな頭を動かして、またごろりと体を回転させる。そこで思い出したことがあった。

「そうだ、あれがあった!」

 唐来は俊敏に起き上がった。以前、それなりに苦労して作ったものがあった。涼しさを感じられるかと言われれば微妙なところかもしれないが、きっと今よりもマシになるはずだ。あの時のことを思い出しながら、唐来はキッチンに急いだ。


 ◆◆◆


 あれは数ヶ月前。日が出ると暖かなのだが、日陰は薄手であれど長袖の服が必要だった時期だ。家の裏手でものを燃やすために荷物を運んでいる時のことだった。

 人類の大半が心臓が止まって体を腐らせたまま徘徊するようになったために、残念ながら決まった曜日にゴミ回収の車が来ることはなくなった。だが生きている限りゴミは出る。自給自足の大昔ならばいざしらず、現代っ子の唐来たちにはゴミを出さずに生きる術は教えられていなかった。つまりどうなるかというと、定期的にゴミを燃やさねばならなくなるのだ。プラスチックや金属など燃やせない、あるいは燃えないものは別に()けておくとして、それ以外のものは燃やさなければ家がいつの間にかゴミ屋敷に変わってしまう。それで唐来と工藤は定期的にゴミを燃やすようにしていた。

 家から燃やすものを持ち出して、家の裏手に回る途中、蹴飛ばしたものがあった。緑色の丸いそれ。工藤が手で握ってちょうど隠れるくらいの程よい大きさの果実だった。

「ああ、梅の実だな」

 唐来の手のひらに載せられたそれを見て工藤が言った。そしてきょろきょろと周囲を見回すと、すっと一つの方向を指差した。

「あれだ」

 指の方向にはおどろおどろしい系の昔話の挿絵に出てきそうな木が数本あった。枝がガクガクと折れ曲がり、しかし松とか庭園に使われているののような可愛らしさはない。だが確かにその木の根本にはぽつぽつと、いま唐来の手のひらにあるものと同じものが落ちているようだった。

「梅?」

「ああ」

「梅干しの元?」

「元……。まあ、そうだな」

「青いじゃん……」

「熟してないからな」

 どうやら青梅というものらしい。こんなものがあの皺々で真っ赤な梅干しになるとは不思議だ。唐来が手のひらの上で梅の実をころころと転がしていると、工藤が「たしか氷砂糖があったよな……」とぶつぶつと呟くと、顔を上げた。

「それ、拾って集めておいてくれたら、いいもん作ってやるよ」

「え、梅干しはいらない」

 唐来は祖母に何度か食べさせられた思い出があるが、正直に言ってあれを美味しそうに食べる人間の気が知れない。唐来はむぐむぐと口元をすぼませた。酸っぱくてしょっぱい。それが梅干しの印象だった。

 しかし工藤は首を振る。どうやらそうではないらしい。じゃあなんだんだ、という顔をした唐来に、しかし彼女は薄く笑って答えなかった。


 特別急ぐ用事もないので、火の番の合間に梅の実を拾うことにした。はじめはポケットで足りるかと思ったのだが、意外と多く工藤に籠を投げ渡されたのでそれに入れることにした。少しずつ増えていくそれが意外と楽しい。工藤がゲームではコインをちまちまためてカジノなどでガッツリ使う派だ。つまり後に楽しみがあると知っていれば、地道な作業はそれほど苦ではない。

 それからしばらく。

「うーん、もうないかな~」

 地面に落ちている青いコロコロしたものがもうないか、目を皿のようにして探す。いつの間にか籠はいっぱいで、両手で抱えなければ持てないくらいになっていた。唐来はうつむきながら梅の樹の下をウロウロと歩き回った。と、

「あ、あった!」

 雑草に隠れるようにして転がっているものを見つけた。機嫌よく手を伸ばして、しかし拾う前にその手は止まった。実の近くに、なにやらボロボロの布切れが直立していた。そう、数ヶ月前からずっと着替えていないような。そして唐来がほとんど毎日相手をしている“奴ら”のような……。

 唐来は油の切れたロボットのように、ギギギ……と首を軋ませながら顔を上げた。そして視界いっぱいに広がったものに、思いっきり顔を引きつらせた。

 “奴”だ。

「唐来!」

 どうやら工藤も気付いたらしい。声の方角から、たぶん新しい燃やすものを運んできたところだったのだろう。ぎょっとしたような様子で足音が聞こえてくる。

 その間にも、奴は待ってくれることはなく、欲望のままに手を伸ばしてきた。それを辛うじて躱す。勢い余って地面に激突した。が、痛がっている暇はない。唐来は弾かれるようにゴロゴロと転がった。腐った指が自分の服をかすめたが、捕まることはなかった。

 勢いのままになんとか立ち上がって、しかしガクンと停止した。掴まれた。奴に。

「唐来!」

 工藤の声が少し遠くに聞こえる。間に合いそうにはなかった。無我夢中で振りほどこうとするが、奴の力は強かった。奴らは動きが鈍いくせに、力だけは強かった。眠ることをやめ、呼吸することをやめ、生きることをやたというのに、食欲だけは旺盛だ。捕まえた獲物は()()()で離さない。

 もみ合って倒れる。見にくく腐りかけの顔が覆いかぶさる。カチカチと歯を鳴らして、虚ろな目を唐来に向けた。

 と、工藤が直ぐ側まで来た。奴の肩越しにナイフを構える工藤が見える。ほっと息を吐きかけて、しかし自分の横にあるものに気付いて唐来は顔を青くした。

「唐来、そのまま抑えてろ!」

「──待って、待って、待って!」

 工藤が叫ぶのに、慌ててストップを掛ける。ナイフを掲げたまま、「はあっ!?」と意味がわからないというように止まる工藤に視線だけで()()の方向を指す。──梅の実の籠だ。唐来の直ぐ側には集めた実の籠があった。このまま工藤が奴にナイフをぶっさせば、腐った血肉がこれにかかることになる。つまり、せっかく集めたものが無駄になる。

 そんなことは許されない。唐来は今までの努力の結晶が他人の無邪気な善意で消された時、周りが引くほどキレる人間だ。数年やったゲームデータを消された日にゃ、手だけではなく足も頭も出る。発狂したように暴れまわり、しかも数年、場合によっては一生許さない。

 今回はそこまでのものではないが、しかしそれなりに時間を掛けて集めたのだ。やはりできれば避けたい。

「せぇいっ!」

 唐来は火事場の馬鹿力的なものを発揮して、自分の上に覆いかぶさる奴を蹴り飛ばした。服を強く掴まれていたが、パーカーだったのか幸いした。するりと脱いで逃げてやる。そしてそのまま素早く立ち上がった。

「ほらっ! こっち! こっち!」

 パンパンと手を叩く。髪を振り乱して()から離そうとする唐来を見て、工藤は緊迫していた表情を呆れたものに変えた。唐来に蹴り飛ばされた“奴”は、コマ送りのアニメのようにギクシャクしながら起き上がった。そして唐来の鳴らす音に反応してか、籠から離れて唐来の方に歩き始める。

「あんよが上手! あんよが上手!」

 唐来の掛け声に、工藤が顔をしかめた。倫理的によろしくないと思っているのだろう。だが突っ込むのも面倒に思ったのか呆れながら腰に手を当てて傍観する姿勢になった。「私、帰っていいか?」と聞かれない分だけ優しい。

 そして十分に籠から離れたところで、拾った木の枝でフルスイング。

「おうらぁっ!」

 体重を掛けてやったおかげか、奴は地面に倒れ込んだ。起き上がられる前に素早く胸元を足で踏んで、動けなくする。そして腰に挿していたナイフを目の隙間から入れて……。

「はあ、大変な目にあった……」

 ふうう、と大きく息を吐き額の汗を拭う唐来に、しかし工藤は冷ややかだった。「私はもう行くぞ」と言ってさっさと別の仕事へ行ってしまった。


 あの後、残った死体をさすがに一人で運ぶのは無理だったので結局工藤に手伝ってもらうことになったが、なんのかんの燃やすべきものは燃やして火の番も終わり、それではお楽しみのものを作ろう、ということになった。

「で、なにを作るの?」

「梅ジュースのモト」

「梅ジュース?」

「梅シロップって呼ぶ方が多いらしいね」

 梅ジュース? なんだろうか、実を絞るのか? でも酸っぱいのでは? 唐来は梅干しが粉砕されて水で溶かれた飲み物を想像して顔をしかめた。だが工藤はそれを否定する。

「あはは、そんな顔しなくても。甘酸っぱいジュースだ」

 唐来もきっと嫌いな味ではないと思うなあ、と工藤はどこか柔らかな表情で目を細めた。

 いったいどんな風に作るのか、と身構えていたのだが、彼女は「簡単だよ」と言って説明してくれた。ざっくりと言うと、梅の実を洗って、乾かして、砂糖と瓶詰めにして放置すればいいらしい。

 そして実際にやってみる。確かに簡単だと言うだけあって、作業はあっという間に終わってしまった。はじめのヘタ取りが面倒だっただけで、あとは乾くまで待って、そこら辺に転がっていた漬物用の大瓶に氷砂糖と交互に入れていくだけ。氷砂糖なんてどこにあったのか聞くと、結構前の調達で手に入れておいた、らしい。いつか使うかもと思ったとかなんとか。用意周到な工藤をじっとりと見つめていたら、なにを勘違いしたのか氷砂糖を口の中に放り込まれた。

「あまい」

「そりゃあそうだ。砂糖の塊だからな」

 突然の甘味に一瞬口の中が乾いたかと思ったら、次の瞬間じゅわりと唾液が湧いてきた。口いっぱいに砂糖の味が広がる。飴とは違う、ただただ砂糖の甘さだ。ころろと口の中で転がす。

「子供ころはこれが好きだったなあ」

 自分の口にも氷砂糖を放り込んで、工藤が懐かしそうに遠い目をした。唐来は無意識に息を詰めた。自分たちはあまり昔の話をしない。別に取り決めたわけでもないが、自然とそうなっていた。唐来が工藤について知っていることと言えば、同じ年頃の人間で、都内の高校に通っていたらしいということ。そして結構貧乏だった、というくらいだろうか。下の名前も知らなかった。これから知るときが来るのかも分からない。

「ね、これがどうやってジュースになるの。どういう原理?」

 正確にはできたものを水で溶いて飲むらしいが。

 から、ころ、と口の中で砂糖の氷を転がす。甘さのせいか喉が渇いた。砂糖味の唾液をごくりと飲み込んだ。

 唐来の突然の話題変更に気がついた様子がなく、工藤は空に視線を彷徨わせる。どう説明しようかと考えているのだろう。

「……ナメクジっているだろ」

「うん」

「あれって塩をかけると水分を出して縮むだろ」

「うん」

「それと同じことを、梅に砂糖でやってる」

「うん?」

 微妙な顔で工藤を見ると、彼女もまた微妙な顔をしていた。あまり食欲をそそるような説明でないことは自覚しているのだろう。元々工藤は唐来よりもそういうところはしっかりしている。それでもそんな説明をするなんて、何かあるのだろうか。

 逡巡するように口をもごもごとさせて、結局、「私に、作り方を教えてくれたひとが言ってた」と少しだけ小さくした声で呟いた。

 「うん、そっか」唐来の声も釣られて小さくなった。ざらざらとしたものが胸を擦った気がした。


 次の日、覗き込むと氷砂糖が涙を流すように溶けかけていた。瓶の底に申し訳程度の水溜りが出来ている。集めても御猪口一杯分になるかどうか。こんな速度できちんと出来るのだろうか。不安に駆られて丁度良く通りかかった工藤を呼び止めた。

「これが飲めるようになるのはいつ?」

「三週間後くらいかな」

 なんの感慨もなく工藤は言ってのけた。そしてそのまま唐来の衝撃に気づくことなく去る。

 ──三週間。

 形容しがたいため息が漏れた。こんな世界ではそれは三年と同じだ。あまりにも遠い。自分たちははたしてこの恐ろしく贅沢なものを口にすることはできるのだろうか。唐来はもやもやとした不安を飲み込んだ。工藤が呼ぶ声が聞こえる。

 去り際に瓶を指で弾く。爪が固い硝子に当たると、想像していたよりもずっと軽やかな音を奏でた。


 唐来がなにに心を揺らそうが、日々は勝手に進む。

 瓶の中で梅ははじめの鮮やかさはどこへやら、鈍く薄い黄に色を変えていた。腐ったのかと慌てたが、工藤いわくそういうものらしい。氷砂糖に触れたところを中心に色を変えていく。数日の内にすべての梅の色が変わった。そのころには瓶の底には小さなコップ一杯分ほどの液体が溜まっていた。


 日に何度も確認する唐来に、工藤は呆れたように笑った。

「水分が溜まってきたら揺らすんだ。そうすると中の砂糖の濃度が均一になって水分が出やすいから」

 梅の半分くらいが浸った時、そう言われた。そうして彼女は続ける。

「私も、はじめの頃はそうやって毎日確認してたな」

「はじめの頃?」

「うん、これの作り方を教わった時」

 工藤は小さな頃、近所のお姉さんに飲ませてもらって作り方も教えてもらったらしい。それから毎年作っているのだとか。「私の家計には結構割高なものだったけど、梅ジュースを飲むと『ああ、夏だな……』って思うんだよなあ」と笑った。工藤いわく貧乏暮らしだったそうで、飲み物は水道水が当たり前だった、らしい。

 そしてぽつりと言った。

「あのひと、どうしてるかな……」

 声に心配をにじませて、遠くを見る。それに唐来は胸が小さく傷んだ。泣くほどではないけれど、誰かの無事を願うような工藤が羨ましかった。

 なんだか工藤の横顔を見ていられなくて、思わず口を開いた。

「東京って今どうなってると思う?」

 工藤が訝しげに眉を潜めた。今までそういった話題をしてこなかったからだろう。こちらに逃げてきて数ヶ月、互いに意識して避けていた部分がある。だがとっさに思いついたのがそれだったのだ。工藤は数秒してから答えた。

「当然、私達が出てきたときよりひどくなってるんじゃないか」

「シェルターは無事かな」

「どうだろう。ここに来る前からシェルター内で感染者が出たって噂があったらしいけど。なんだ、誰か心配な人でもいるのか?」

 避けたはずの話題が戻ってきて、唐来は内心で舌を打った。というより先程よりも悪化している。

「……いや、そういうわけじゃないけど」

 口端を小さく噛む。

 ぎこちなく答えると、工藤はなにを勘違いしたのか、唐来の背中をぽんぽんと叩いた。

 それに、不意に泣きたくなる。たぶん工藤は思い違いをしている。東京に工藤と同じく唐来の心配する相手がいると思っているのだろう。だが、そんな相手はいない。──そう、そんな相手はいないのだ。

 唐来には、工藤のように心配したい相手がいない。あの家で唐来はひとりぼっちだったし、学校でもつるむ相手はいたが、こうして離れた後で工藤を思い出してくれるひとはいるだろうか? いや、その望みはきっと薄い。唐来がそういう相手を望まなかった。だから誰からも望まれなかったのだ。それだけのはずで、それについて大して思うこともなかったはずだ。そして唐来は、おそらく工藤も同じようなものだろうと、勝手に思っていた。けれど彼女は違った。そのことに、苦い気持ちがこみ上げる。

 黙り込んだ唐来に、工藤は背中をさすった。唐来よりも小さな手がじんわりと熱を伝えてくる。それに本当に少しだけ、救われた気がした。


 その日の夜はいつもよりも寒かった。初夏ではあるが、田舎だからなのか日が落ちるとぐっと寒くなる。毛布が必需品だった。

 ふたつ布団を並べて、ふたりして天井を見上げた。いつもならばさっさと眠る唐来だが、その日は目が冴えていた。そして工藤も、どうやら眠れないようだった。きっと昼間の会話が糸を引いているのだろう。東京の話をするのは本当に久しぶりだった。

 チッチッチッチッチッ……と振り子時計の音が暗闇に響く。海の底にいるようだった。息をするのが重い。

 何度目かの工藤の寝返りの音を聞いて、唐来は口を開いた。

「……こっちくる?」

 唐来は掛け布団を腕で上げた。努めて明るい声を出す。言葉の端に笑いさえ込めてみせた。

 暗闇の中で、工藤がじっとこちらを見ているのが分かる。彼女の性格だ、ここまで言ってもやはり断られるだろうと半ば諦めていた。もう腕を下ろしてしまおうかとそう思ったときだった。

「て、かしてくれるか?」

 彼女にしては、こどものような声だった。空気が揺れるのを感じる。差し出された手を反射的に握る。それは温かな手で、自分の冷たいそれと比べて申し訳なくなった。工藤は一瞬筋肉を緊張させたが、すぐに力はとけた。そしてそのまま片手を繋いで目を瞑る。

 しばらくすると、すうすうと工藤の寝息が聞こえてきた。唐来もとろりと眠気が滲んできたのが分かった。

 繋がった手から、工藤の熱が流れ込んでくる。いつの間にか、唐来のそれも同じ温度になっていた。


 ◆◆◆


「あ、こういう感じなんだ……。普通に美味しい」

 台所の下から取り出した瓶には作った梅シロップが入っている。それを水で薄めて飲んでみた。工藤があまり甘くないものが好きだからと氷砂糖の量を少なくしたから、けっこう酸っぱさを感じるが、それはそれでスッキリとしていい。

 むしむしとした暑さが、一瞬だけだがマシになった気がした。

 せっかくだからと工藤の分を作って持っていってやる。廊下に打ち上がったイルカのように倒れている工藤に渡してやると、訝しげに受け取ってから口を付けた。そしてほんの少し目を丸くする。ただの水だと思っていたらしい。「梅ジュース……。忘れてた……」とつぶやく彼女にニヤリと笑う。

「『夏って感じ』、する?」

「……ああ」

 工藤は淡く笑んだ。唐来も自分のものに口を付けて笑う。

「なるほどこれが、『夏って感じ』か」


 夜。この時間でも蒸し暑いため、いつかと違って布団が部屋の両端に置かれている。近くにいるとそれだけ暑いからだ。可能であれば部屋も分かれたいところだったが、それは安全の観点からやめている。

 が、あの日を思い出した唐来は軽い口調で「手、繋いで寝ない?」と言ってみた。しかし工藤は「は?」と心底理解できないというような声を出した後、「暑いからヤダ」ときっぱりと断ってさっさと寝てしまった。

 唐来はあまりの潔い断りに数秒あっけにとられた後、くすくすと笑った。そして自分も布団に入る。断られたのはちょっと寂しいが、暑いことは確かだった。互いに特別寝相が悪いわけではないが、暑いからと蹴り合って起こされるのは御免である。

それに、唐来の手は、あの日と違って冷たくはない。

 そう時間も経たないうちに、部屋にはふたりの寝息が密やかに響いた。


 ちなみに工藤が手繋ぎを断る際、あの日を思い出した彼女の耳はほんのりと赤くなっていたのだが、暗闇で、しかも部屋の対角線上で寝ている唐来は気付くことはなかった。

なぜこの時期に春とか夏の話なんだ……という気はするけれど、たぶん今後も現実と作中の時期はずれたままです。

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