静かに行動すべし
風呂に入りたい、そして刀を武器にするのはロマンだけど、素人は扱えないよね、という話です。
──刀がほしいと彼女が言う。バカじゃないかと私は思う。
「だるい」
「耐えろ」
朝にも関わらずじとじとと不愉快に暑い季節になった。萎れた青菜のようになった唐来に、水のたっぷりはいったペットボトルを手渡す。無慈悲な、とか呟いているが無視する。梅雨のくせに雨がないために水やりが欠かせないのだ。ペットボトルを詰め込んだ台車を引き引き畑に行く。
正直な所、毎日畑仕事は結構辛い。何が辛いかというと具体的には腰に来る。文明の利器を使いたいところだが、それには燃料諸々がない。仕方なしに原始的にやるしかないのだ。
畑は柵に囲まれている。ここに拠点を決めてから作ったものだ。素人作の粗末なものだが、ないよりもまし。柵の扉を開けて中に入る。
「うへえ、カラカラ」
昨日もたっぷりと水をあげたはずなのに一晩で土が乾いてしまっている。全体に行き渡るように順繰りに水をかけていく。その後は雑草の処理だ。
「お、ハーブ」
「ハーブ?」
唐来が草をまじまじと見ている。雑草の中に紛れていたのだろう。確かにハーブっぽい形をしている。
「これは残しておこう」
「なぜ?」
「ゾンビ世界といえばハーブでしょ」
「なんで?」
「いや、そういうものなんだよ」
「はあ」
唐来が意味のわからないことをいい始めるのはいつものことだ。適当に頷いていれば機嫌よく働いてくれるので、放っておくのが一番だ。軽く流されたことに気が付かずに、鼻歌さえ歌って雑草と間違われないようにかハーブもどきを畑の端に植えなおしている。そうしてぽんぽんと土を固めながら切り出した。
「あのさー工藤、この頃暑くなってきたよね」
「ああ。……いちいち言わなくても、だいぶ前から暑かったぞ」
「いつもより汗が出るよね」
「出るな、割増で」
「……もう耐えられないと思うんだよね」
「なにが」
たらり、と冷や汗が背を伝う。この雰囲気はまずい。またとんでもないことを言う。絶対言う。なぜなら唐来だから。
「だからわたし、お風呂欲しいな」
きゅるるん、と目をキラキラさせて語尾にはハートが付いている。無駄に似合っているのがこれまた鼻につく。
──風呂。風呂とな。
当然、地上を腐った死体が歩き回るようになってしばらくして、電気の類は死んだ。人類はピカピカと光る蛍光灯から、チロチロとしょぼく燃える蝋燭の時代へ退化した。つまり、スイッチを押して風呂が湧くなどというのは、遠い過去の夢だ。
「───ああ~」
工藤は空を仰いだ。言われてしまった。やはり予感は正しかった。案の定、問題発言だった。
彼女はかなり粘り強い。駄目だ無理だと繰り返してもいつもいつの間にか丸め込まれている。本当に無理なものならば工藤もNOといい続けられるのだが、今回は不味い。なぜなら風呂は彼女が言い出すずっと前から工藤も思っていたことだから。
強固な意志がなければ彼女の甘言を退けられない。唐来の熱意に負ける未来が見えた気がした。
「結論として、ドラム缶風呂が一番現実味があると思う」
リビングにて、工藤は真面目な声で言った。そんな工藤に唐来は居住まいを正す。ただし団扇で自分を扇ぎながらだが。木製の作りのおかげか、外と比べて室内は涼しいのだが、じっとしているとじわじわと湿気で汗が出てくる。
「ドラム缶風呂?」
「震災の時とかに、仮設で作られるやつ。分かるか?」
「あー、なんとなく分かる。サバイバル漫画とかで出てくるやつ」
サバイバル漫画? そういったのは良く分からないが、おそらく正しいという前提で進めよう。工藤がキョロキョロと自分の団扇を探していると、唐来が予備のものを手渡してきた。それに礼を言って、工藤も扇ぐ。風でふわりと浮き上がった髪が予想以上にベタついていて、工藤はわずかに眉をしかめた。
もちろん、毎日体は拭いていた。あと髪も可能な限り洗っていた。それでも限界はある。湿気の少ない海外などならば、風呂など入らなくともそれほどひどいことにはならないだろう。だが日本は駄目だ。湿気がありすぎる。まだ本格的な夏は到来していないというのに、ただじっとしているだけでこれだけ汗をかくのだ。これで後一月もすれば、外はサウナのようになるだろう。そんな中、風呂もなしに生きていけるか。──無理だ。肉体はともかくとして、精神的に死ぬ。心が死ぬ。
薄々どうにかしなければならないとは思っていたのだが、そうするためには大なり小なり危険を冒さねばならない。その他にも色々必要なものはあるだろう。そういったことを考えると、できるだけ先延ばしにしておきたかったのだが、残念なことに唐来に突きつけられてしまった。そうなると工藤も無視することができなくなった。
風呂が欲しいか? ──もちろん、欲しい。
それが正直な工藤の気持ちである。
「で、重要なのがどこにドラム缶があるか」
「んー、ホームセンターにない?」
「分からん。前に行った時は、そこまで見てなかった」
「あー……、言ってみて無かったっていうのは嫌だよねえ」
「そういうこと」
以前ホームセンターに物資を探しに行ったことがある。工藤のコンパウンドボウもそこで入手した。ホームセンターは結構な敷地の広さで、品揃えは豊富だったと思う。が、あそこは何度も行きたい場所ではない。なにがどうなってそうなったのか知らないが、奴らの死体が山となって積まれていたのだ。しかも火でも放ったのかアスファルトに皮膚が癒着していた。そのまま脳にダメージを与えられずにカチカチと歯を鳴らしていた奴もいた。もちろん必要があるなら行くが、積極的に行きたいと思える場所ではない。あと、地味にここから遠い。ガソリンがもったいない。
そこまで考えて、工藤ははっと顔を上げた。
「ガソリンスタンドは?」
「あー! そういえば、そんなの見たことあるかも」
ガソリンスタンドならばホームセンターへ行くよりも近い距離にある。丁度ガソリンも補給したかったから丁度いい。たしかあそこはまだガソリンが残っていたはずだ。
ならば目標は決まった。
「ガソリンスタンドに行くぞ」
きらりと工藤の眼鏡が光った。
◆◆◆
車に乗って目的地へ走らせる。車の運転なんてこんな世界になってからはじめてだが、だいぶ慣れた。今日は工藤が運転席だ。
「今日も工藤は小さいなあ」
「うるさい」
このからかいも何度も聞いた。
工藤は背が低いため、MAXまで座席を前に押し出している。運転手を変わった際に唐来に不評だが、身体的にいかんともし難い。工藤から唐来の変更が面倒ならば、その逆もしかりなので文句を言われても困る。降りる時はいざという時のために次にどちらがこの席に座ったとしても支障はない位置に席を移動させるのだから、いちいち文句を言わないで欲しい。
だいたい工藤からすれば唐来の方が伸びすぎなのだ。いちいち身長を聞いたことがないので詳細なものは分からないが、たぶん女子の平均身長は軽々と抜いているはずである。工藤の身長が少し低いのはおそらく栄養不足と睡眠不足だ。その点、唐来は特に苦労なく好きなものを食べてにょきにょき伸びたんだろうという気がする。
それにまだ工藤は成長期だ。これから背が伸びる可能性もある。
工藤は頭を撫でようとしてくる唐来の手をパシパシと叩いて落とした。同じ方向へ進む車も対向車もいないとはいえ、事故を起こすのはよろしくない。奴らに噛まれて死ぬのも嫌だが、この世界で交通事故で死ぬのは馬鹿らしい。
「工藤、止めて!」
「なに!?」
唐突に叫んだ唐来に、慌ててブレーキを踏む。彼女はじっと前を見ていた。その視線を追って工藤もそれを見つける。
「うわあ、マジか」
遠くに見えるのは揺れる人影。なぜか工藤たちの家の近くではそれほど数を見ないが、こうして少し遠出をすると塊でいるのを見る。それもそこそこな数。安全が確保された上ならば──フェンスを隔てた先とか──無力化しておきたいところだが、あいにくここにはそんなものはない。ゆっくりと近づいてくるそれらに工藤は舌打ちをしたくなった。
潜めた声で工藤が聞いてくる。
「どうする?」
「……通り過ぎるのを待つ」
おそらく奴らは工藤たちに気付いていない。ならば通り過ぎるのを待つほうがいい。
工藤たちは無言で頷くと、カーテンを閉めた。こういった時のために取り付けてあるのだ。隙間を開けて、外を見れるようにしておくことを忘れない。
しばらくすると、ドン、ドン、と車に体当たりをするようにして奴らが現れる。肌の色は灰色で、日光に焼かれたのか爛れている。目がある場所は白濁しているが、奴らはなぜか目が見えるような素振りを見せる。ただ、生きていた頃ほどということはないようで、こうやって小さな隙間から覗いているくらいでは気が付かない。
工藤と唐来はきつく唇を閉じて、奴らが通り過ぎるのを待った。ドキドキと心臓が脈打つ。音さえ立てなければ、この死の行列は去っていくと分かっていながら、けれど緊張はしてしまう。これに慣れることはあるのだろうか。
奴らの最後尾が通り過ぎる。やっと息をつくことができる、と思った瞬間に、予想外のことが起こった。カーテンの隙間から奴らの後ろ姿を見送っていた唐来が大声を上げたのだ。
「あ──っ!」
はあっ!?、と驚愕に目を見開いて唐来を見る。が、彼女は別のことに気を取られているようだった。
そして更に予想外の行動を起こす。
バッドを持って車の扉を素早く開けると、最後尾の“奴”の頭に振り下ろし、他の奴らが唐来に気付いて襲ってくる前に何かをむしり取って帰ってきた。相手が奴らでなければ、立派な追い剥ぎだ。そして唐来が焦って叫ぶ。
「工藤、出して! GO! GO! GO!」
「はあっ!?」
怒りのにじむ疑問符を吐き出しならば、工藤は車を発進させた。車にすがりつこうとしていた奴らを辛うじて躱す。次第にスピードを上げた車が奴らを引き離し、そして豆粒のようになって視界から消えた。
ようやく一息付いた、というところで工藤は唐来を睨む。こめかみには青筋が浮かんでいた。
「で? どいうつもりだ?」
「いやー、ごめん! いや! でも! これ!!」
「…………刀?」
ちらり、と見て、思わず困惑の声をあげる。唐来が突き出していたのは日本刀だった。
「ロマン装備! ロマン装備&最強武器だよっ!」
唐来は「っべー!」とか、「うっひょー」とかハイテンションで叫んでいる。頬を赤くして、玩具を与えられた赤子のようだ。工藤は無言で車を停めると、唐来の頭を思いっきり叩いた。
「アホか────!!!!!」
狭い車内に工藤の怒号がビリビリと反響した。一度叩くだけでは怒りが収まらず、工藤は更にベシベシと唐来の頭に手のひらを当てる。
「今回は! 運良く逃げられたがっ! お前の! うかつな行動で! 死ぬかもしれないんだぞ!」
ベシ、ベシ、ベシ、ベシ、ベシ、と息継ぎの度に手を振り下ろす。
普通に考えて先程の唐来の行動はありえないものだ。肉親の形見を見つけたとかだったらともかくとして、刀! ただの刀だ。なんで“奴”が刀なんて持っていたんだ、という疑問もあるが、それを見て後先考えずに飛び出す唐来も唐来である。
「うう、ごめん……。でも刀、刀が欲しかったんだよ……」
わたしなら行けると思ったんだよ、と唐来は涙目で工藤を見つめた。こういうとき無駄に顔がいいのがムカつく。
確かに唐来は運動神経がいい。ああいった行動をして無事に済むことができるだけの力はある。が、それとこれは別だ。上手くいったのは結果論であって、上手く行かなかった可能性だってあったのだ。工藤は思い切り舌打ちをした。
「おい、反省してねぇのか? また同じことがあったら、私はお前を置いて逃げるぞ」
低い声が出る。言葉遣いがいつにもまして荒くなった。それに工藤の本気を感じ取ったのか、唐来はブンブンと頭を振った。
「も、もうやりません……!」
最後に一発思いっきり叩く。「うぅ~」と呻く唐来を横目に、ちらりと刀を見る。工藤はそういった類に造詣が深いわけではないが、なんとなく芸術品というよりも実用品のような雰囲気を感じる。
そう言うと、唐来は叩かれた場所を押さえながらも、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「たぶんこれ軍刀だと思うよ」
「知ってるのか?」
「いやー、詳しいわけじゃないから多分だけど」
日本刀はおじいちゃんちにあったから持たせてもらったことがある、と唐来は軽い調子で答えた。鞘から半分ほど出してニコニコしている。
「それでさ……」
先程まで怒られていたことを忘れたように見てくる彼女に、工藤は嫌な予感を覚えた。また厄介ごとの匂いがする。
「それじゃあ、行ってみよ~」
刀を構えて道路の真ん中に立つのは唐来だ。彼女の前にピンッと張る糸がある。両端のガードレールに手頃な縄を結びつけたものだ。簡単なものだが、奴ら数体程度ならばこれで躓いた隙きにトドメを刺せる。
そして工藤は車の屋根にいた。麦わら帽子を被って、照り返しが熱いために下にタオルを敷いている。そして手にはコンパウンドボウ。
ふたりが睨みつける先にゆらゆらと揺れる影が現れた。少し前に工藤たちが遭遇した“奴ら”だ。
数十分前、唐来は刀をぎゅっと握りしめながら工藤に言った。
『ね、このままガソリンスタンドに行ってもさ、帰りにまた奴らに会うと思うんだよね』
確かに一本道で、別の道を通ろうとすればかなりの遠回りをしなければならなくなる。『だから、さ』唐来はにっこりと笑った。
『今のうちに倒していかない?』
……そしてうっかり工藤は頷いてしまった。まだまだ日は高いし、工藤は厄介事は早めに対応しておく質だ。しっかりと数えたわけではないが、奴らの数は十と少し。準備さえすればどうにかできない数ではない。車の中で息を潜めているよりも、明確に脅威を排除できた方が安心できる。
唐来によると刀は「最強武器」で「ロマン武器」らしい。切れ味がよく、リーチも長く、奴らを音を立てずに倒すことができる。なによりカッコイイ! というのが彼女の言い分だ。
そして奴らが足を引きずるようにして近づいてくる。あと二十メートル、十五メートル、十メートル。
──パシュッ。
奴らの影が唐来のそれに重なる前に、軽い音を立てて矢が放たれた。それは過たず一体の頭に吸い込まれる。一拍置いてぐらりと倒れる。二射、三射とやる内に、紐の前にたどり着いた一体が体勢を崩す。その隙きを逃さず、構えた唐来が刀を振り下ろした。
「おらぁ!」
が、頭に食い込んだものの、途中で止まる。両断ができずに刃が食い込んだまま奴が倒れるにしたがって、唐来はたたらを踏んだ。急所である頭は上手いこと損ねられたのか、そいつの動きが止まっていることだけは良かった。
「あれぇ!?」
──パシュッ。
体勢を崩した唐来の後ろに迫っていた一体を工藤が射抜く。
「早く抜け! 無理なら後退しろ!」
「分かってる、よっ!」
唐来は足を使って無理矢理に刀を引き抜いた。そして紐に躓いて地面に倒れ込んだ一体を突き刺す。今度はすんなりと行ったようだ。
それに気を良くしたのか、他の数体も同じように倒す。しばらくすると刀の扱いが分かってきたのか、力任せながらも両断もできているようだ。工藤も後方から唐来の支援をする。矢の数はまだある。車の屋根から降りて対峙する必要はなさそうだ。
このまま問題なく進むかに思われた。唐来の無謀な行いは、多少は報われる武器を得られたかと。が、最後の数体になった時、またしても唐来が情けない声を上げた。
「あの……」
「なんだ」
「き、切れなくなってきたんだけど……」
「…………」
「…………」
刀を持って途方にくれたように眉を下げる。迫ってきた一体の頭に刀を突き出す。額に刺さったが、骨で止まったらしい。奴は腐りかけた口から覗く歯をカチカチと鳴らした。
その後ろに迫る二体に工藤は矢を当てる。そして額に刺さった刀の柄を握ってどうにか距離を保とうと腕を突っ張っている唐来に冷ややかな目を向ける。そして舌打ち。パシュッ、と軽い音を立てて最後のそいつの頭を射抜いた。
道路に広がる奴らの死体から矢を回収し、邪魔にならないように脇に寄せてしばらく。唐来が刀が切れなくなった理由を突き止めた。──といっても、大したことではないが。
「骨と油?」
「う、うん、硬い骨に当たって曲がって、その上、血脂で滑ったみたい……」
──あと、そもそも素人が使いやすい武器じゃなかったよ……。
消沈した様子の唐来が肩を丸めて言った。『最強武器』だとか『これさえあれば!』なんて興奮気味に言っていたほどではなかったようだ。
確かにナイフも切り続けると刃が滑る。それと同じことが刀でも起こったらしい。
つまりは危険を冒したほどの成果は得られなかったらしい。冷え冷えとした目で唐来を見れば、彼女は冷や汗を流して情けない声を上げた。
「す、すみませんでした~……」
ムカついたので、背中のあたりを思いっきり叩く。できることならば頭を叩いてやりたかったのだが、身長の関係でそれは難しかった。
そんなこんなで無駄な時間を使いながらも工藤たちはガソリンスタンドへ行くために、再び車に乗り込んだ。
「……ミショーンはできたのに」
「誰だよ、ミショーン」
◆◆◆
その後はこれといって大したことはなかった。
目的のガソリンスタンドにも数体いたものの、特に苦労なく倒すことができ、帰りは特に異常なく終わった。行きであった(主に唐来による)ドタバタは何だったのかと思うほどのスムーズさだった。行って帰るの数時間。想定よりも早く、昼前には帰ってこれた。
昼ごはんを簡単に食べた後は風呂作りだ。
といっても大したことをするわけではない。ドラム缶をきれいに洗って、レンガ──家になぜかあった──で基礎を作る。レンガは敷き詰めるのではなく、真ん中を開けておく。薪を入れる部分だ。そしてその上にドラム缶を乗っけて、終了だ。
あとは水を入れて湯を沸かすだけ。が、水を井戸から少し離れたここまで──さすがに井戸のすぐ横というわけにはいかなかった──何度も汲み上げて運ぶのは面倒だ。……ということで、わざわざもう一つ持ってきたドラム缶を使う。これを井戸の横、そして風呂用のドラム缶よりも高い位置に置く。高くするためにはレンガを使った。そうしてこちらのドラム缶に水をパンパンになるまで汲む(これは迷惑をかけた罰として工藤にやってもらった)。
そして長いホースを水の張ったドラム缶に入れて中を水で満たし、一方は水の中、もう一方はホースに指で栓をして風呂用のドラム缶まで運ぶ。ホースは水平になるのはあまり良くないような気がしたので、竿上げの先端がY時になっている部分にホースを引っ掛けてある。そして指を外せば──。
「おお! 水が出てきた!」
多少離れた距離でも簡単に水を運ぶことができる。井戸のそばのドラム缶から水がなくなっていく代わりに、風呂用の方には水が溜まっていく。
「えっ、えっ、これどうして?」
「サイフォンの原理だ。授業でやらなかったか?」
「ええっ、やったっけ?」
知らん。唐来は工藤と違ってお嬢様学校に通っていたらしいので、そちらでどういう授業をされていたのかは知らない。
サイフォンの原理を簡単に説明してやるが、唐来は「へー」と笑顔で頷いた。それを見て彼女が理解できていないことを知る。これは『分からないが頷いておけ』という時の顔だ。
工藤はひとつため息を吐いて、しごく簡素にまとめた。
「簡単に言うと『水は低きに流れる』あるいは『重力ってすごい』というやつだ。高低差を利用して水を移動させることができる」
「へー!」
今度は原理は良く分からないが、高低差を付ければ水が運べるらしいと理解した顔だ。まあ使えれば問題ないので、今回はそれでいい。
目的のドラム缶に水が溜まったら、後は湯を作るだけだ。薪を空洞に突っ込んで火を付ける。そして──。
二時間後、ほかほかと湯気を立てるドラム缶の前に工藤はいた。
なんだかんだ水の温度が上がるのがゆっくりで時間がかかったが、念願の風呂である。入る前に簡単に体も髪も洗った。
衝立もなにもないだだっ広い場所で全裸の一歩手前──タオルは身につけている──になるのは恥ずかしかったが、それらを作っている時間はなかった。おいおい完備すればいい。
唐来は工藤が見えるように家の屋根に登って警戒だ。彼女は風呂の順番を決めるのにじゃんけんを強固に主張したが、持って帰った刀──もったいなくて捨てられなかったらしい──を手に取って「先に入りたいの?」と聞いてみたところ、快く順番を譲ってくれた。
工藤はゆっくりと足でまたいで湯の中に入れた。少し熱めの湯を感じる。ぶるりと震えて、少しずつ身体を沈ませていく。じわじわと顔に喜色が浮かんで──……。
「あ~、いいゆ…………あっつ、あっついぞ!?」
極楽の顔で唸り声をあげようと思ったが、その前に足裏の熱さに悲鳴を上げた。走るようにして交互に足踏みをする。考えてみれば、ドラム缶の底は火で直接熱せられている。熱くないはずがない。工藤は涙目で唐来を呼んだ。
「あ~、極楽~」
ちょっとした予想外があったものの、工藤は全身を湯につけて目を細めた。
久しぶりの、本当に久しぶりの風呂だ。火傷防止に踏んでいるのがキッチンから持ってこられた麺棒なところが間抜けだが、それ以外はほとんど完璧と言っていい。
じんわりとここ数ヶ月の疲れが湯に溶けていく。色々なことがあった数ヶ月だった。世界がああなってから、自分がこんなふうになるとは思っていなかった。死ぬつもりはなかったが、生きられるともあまり思っていなかった。
──だが今、工藤は唐来と一緒になんだかんだ生きている。
「はあ~…………」
長く長くため息を吐いた。自分の中に沈殿していた重く凝ったものが、ほんの少しだが出ていくような気がする。
ぱちぱちと瞬きをする。眼鏡がないせいで、視界はおぼろげだ。おそらく唐来がいるだろう方向を見る。ぼんやりとした人型がどうやら手を振っているようだった。
──きっと自分と唐来は、明日もなんだかんだ生きるのだろう。
唐来に手を振り返して、工藤は小さく笑った。
◆◆◆
ちなみに、できる限り体を拭いていたとはいえ数カ月分の垢が出た風呂の水は変える必要があり、もう一度風呂を湧かすにも日が陰ってきたため、入れるのが翌日以降となった唐来は死ぬほどふてくされた。
だがピカピカになった工藤は、唐来を「獣臭い」と言ってその日は彼女に近づかなかった。
工藤は考えてから行動する派ですが、唐来は考えるときもあるものの、割と脳直で行動します。そしてロマンを愛します。
かなり好き勝手に書いているのですが、よければ感想をいただけると嬉しいです。