有酸素運動
筋肉こそ正義(by 唐来)
──筋肉 is ジャスティス! 終末世界では筋肉を育てよう──
すがすがしいほどの快晴、とはこのような空をいうのだろう。
唐来は寝ぼけ眼に朝のラジオ体操をしながら、空を仰いだ。朝の涼しい空気がわずかに焼けた頬を撫でる。いち、に、さん、し、と声に出して体をほぐしながら、今日はマラソン日和だな、と思った。
こんな世界になる前から不思議に思っていたことがある。
ゾンビもの、バイオハザードものは、映画・漫画・小説・ゲーム等々さまざま媒体で展開されていた。唐来は特別詳しいわけではないが、それなりにアニメ・漫画に通じてきた人間である。
荒廃した世界を我が物顔で闊歩する死体。突然の終末を迎えたかつての文明世界で、生存者は常に死と隣り合わせである。瞬きの間に、悲惨な死を遂げる。奴らに追いかけられて捕まる、あるいはドアを押さえ続けることに耐えられなくなって、そしてあるいは思いがけなず奴らに出会って。
唐来は常々思ってきた。
それらの人々に足りないのは何か?
運? 頭脳? 武器? それとも人望か?
否! 否! 否!
唐来の答えは異なる。もちろん、それらも大事だが、それよりずっと重要なものがあるのでは?
運は自分にどうにか出来るものではないし、頭脳も突然賢くなるわけではない。武器はあって困ることはないが、いつかは壊れる。人望は……まあ、大切だが、それはひとりのときには役に立たない。ならばなにが必要なのか?
──筋肉だ。
もしくは体力。
──彼らはなぜ、鍛えない?
それが唐来の長年の疑問だった。
人間の三大欲求のうち食欲以外を心臓の停止と共に捨ててしまったゾンビにとって、人間は美味しいご飯、いいや、あるいは何を優先しても手に入れたい人生(ゾンビ生?)の目的だ。奇声を発しながら動きもしない胃を満足させようと慢心する死体たちに追われながら、如何にして逃げ切るか。それは先制して戦闘から離脱するか、圧倒的なレベルで圧倒するかだ。
もちろん機転はあった方がいいが、直接的に生死に関わるのは身体能力ではないかと唐来は思う。奴らと戦うのにそれは不可欠だ。運動能力は運や頭脳よりも身につけやすく、直接的に生存率を上げるのではないか。いざというときに己を守る武器を自分自身の身体に装備しようという話だ。そう、筋肉の鎧だ。
唐来は考える。
うっかり、どっきり、あっさりと登場人物が死んでいくゾンビ創作物だが、彼らが十分な筋力を持ち、また体力もあれば、その生存率は上昇したのではないか、と。考えてもみたまえ、ゾンビ物のゲームはたいがい男も女も筋肉がすごい。たまにない奴もいるが、そいつの傍には筋肉が大抵筋肉自慢がいる。
つまりだ。我々に必要なものは何なのか。それは奴らに対抗できる筋肉と、奴らから逃げ切るための持久力だ。そう、筋肉は世界を救うと誰かも言っていた気がするし。
ゾンビ世界は一に筋肉、二に筋肉、三、四はたぶん頭と運で、五が筋肉だ。
──そういうことで鍛えようぜっ!
唐来がそう言い放つのは当然の論理であった。
「それじゃあ、今日は隣町までね」
「うっーす」
地図を指差しながら言うと、工藤がだるそうに手を上げた。
これから行くのは日課の情報収集兼、処理兼、体力づくりのマラソンだ。雨天中止だが、今日は清々しいほどに晴れている。
日課はリュックを背負って走る。別に遠回りな自殺ではない。どちらかというと生存のための布石だ。
今の拠点の辺りでは脅威に感じるほど奴らはいない。ほかの土地に定住したことはないから確かなことは言えないけれど、定期的に処理しているというのが大きいのではないだろうか。奴らは多く集まると手に負えなくなるが、一体一体はそれほど強くない。だから唐来達は奴らが集まる前に周囲を警戒して先に処理している。もちろん、油断すればあっというまに彼らの仲間入りになるのは分かっている。それでもなにもせずに家の中で篭っていてもいつかは詰んでしまう。
奴らが集まったことに気付けずに死ぬかもしれないし、そもそも家に閉じこもっていると、恐怖だけが募って外に出る気力が湧かなくなる。そうなれば飢えて死ぬか、それを避けるために慣れない戦闘をして死ぬかだ。
なにごとも慣れが必要だ。それはメイクにも、そして奴らの戦闘にも言える。なるべく素早く完璧に、負担なくやる。唐来はパチパチと長いまつ毛を動かした。ちなみに地毛だ。唐来は地が整っているので、簡単な化粧で充分だ。
……話がそれた。つまり、日々の地道な努力が大切なのだ。
毎日コツコツ頑張りましょう。小学生の夏休みの宿題のようだが、それほど的は外していないだろう。
奴らにあったら殺られる前に、殺る。工藤が聞いたら「脳筋」と馬鹿にされそうだが、今のところそれでやっている。
朝食を食べた後、唐来と工藤は今で地図を見つつ今日の道のりを確認していた。工藤はあまり体を動かすことが得意ではないので、いつも嫌そうにしている。だが、必要性はわかっているのだろう、文句は言わない。
外に出て、明るさに目を細めた。日に日に太陽の光が強くなっている気がする。きっとそう遠くない内に全てを溶かすような熱い季節が到来するだろう。
出る前に手渡された帽子を被る。白のそれはブランド物のロゴが書かれている。例に漏れず拾い物だ。後ろでひとつに縛った髪を、帽子の穴に通して固定する。工藤も同じような帽子をかぶった。
出発前の屈伸も欠かさず行う。工藤は真面目な顔をして足を伸ばした。唐来としては面倒だが、いざという時に足がつって噛まれました、では間抜け過ぎる。
「それじゃあ、行きますか」
前を走るのは工藤だ。彼女は唐来よりも体力がないから、唐来が先に行くと気がついたら遠くはなれた所に置いていってしまっていたなんてことが起こりうる。唐来よりも頭一つ以上小さな体が上下する。背負われたリュックも合わせて動く。リュックには予備のナイフとペットボトルが括り付けられていた。
少し走ったところで、一体目に出会った。道路の先からふらふらと体をゆすって歩いてくる。近づくと、獲物の存在に気がついたのか小走りなった。そう、奴らは早足から小走り程度の速さにはなれる。そして彼らにはスタミナという概念がないのか、同じ速度でずっと動くことができた。走りまではできないのが救いだ。全速疾走でかつ息切れしないパワフルさを持っている、なんて、ぞっとしない話だ。そんなゾンビが闊歩していたら、唐来はともかくとして、工藤はあっという間に食べられてしまっていただろう。こうやって体力づくりをする前の彼女は、素早さはあるものの、唐来が呆れるほど体力がなかったので。
「私が」
「分かった」
前の工藤がそう言って、ズボンに括り付けてあったナイフに手を伸ばす。刃渡りは二〇センチほどはあるだろう。工藤の小さな手には不釣り合いな大きさだが、もはや見慣れたものだ。一直線に工藤に向かってきたものを、さっと避けて、背中を蹴った。勢い良く奴は地面に倒れ込む。間を置かずに工藤はその背を踏みつけると、頭にナイフを突き刺す。奴はそれで動きを止めた。茫洋と開かれた目が白く濁っている。
この世界の奴らは“生きている”感染者ではなく、“死んだ”感染者だ。死んでいる以上、彼らの飢餓死は望めない。そのくせ生きているように動くのだから、まったく狂っている。
ナイフを引き抜くのに思いのほか力が必要だったようで、工藤は反動でたたらを踏んだ。必要以上に深く刺してしまったらしい。腕の筋肉も増やすメニューも組むべきかもしれない。工藤は抜いたらナイフに付いた血を所有者自身の服で拭き取って、ケースに戻した。
もう動かない奴も道路に放りっぱなしというわけには行かないので、引きずって端に寄せる。専用のゴム手袋をしているが、腐った腕を握るとぷしぷしと気味の悪い液体が滲んでくるのには顔をしかめる。臭いは言わずもがな。いつまでたってもこの臭いは慣れない。身体にべっとりと染み付くような酷い臭いだ。こんな風になってもまだ彼らは動く。筋肉とか、神経はどうなっているのだろう。心臓はもちろん動いていない。だが弱点は脳と来た。呼吸が止まり脈が止まってから、腐り続けているはずの脳に一体なにがあるというのか。まったくもってファンタジーだ。
二人がかりで死体をコンクリートに舗装されていない土の上に運ぶ。ここは地面も見えているので、分解されるのも少しは早いだろう。たぶん。
一呼吸置いて、また走り始める。
それから三体に出会った。交代で倒して進む。目的地に着いたのは一時間後だった。
「着いた」
「着いたね」
ハアハアと工藤の息は荒れているが、唐来はそれほどではない。けろりとした様子を恨めしそうに睨んでくる工藤を無視した。
ふたりが今いるのは一軒の家の前だ。この情報収集兼、処理兼、体力づくりのマラソンの折り返し地点はいつも未捜査の家と決めている。拠点から渦巻き形に近くの家の捜索に当たっていた。はじめは捜査も合わせて三〇分もせずに帰ってこれたが、今では三時間はかかる。なにしろ田舎の隣家は遠い。おかげで確かに体力はついた。
家の中に入る前に周囲の捜索は忘れない。耳を澄まして、家の周りを回る。安全が確認できたら、ガラス戸を引く。鍵がかけられているのか、開かない。
仕方がない。唐来は工藤から渡されたガムテープを手早く鍵の近くに貼り付けた。鍵を囲むようにテープを貼り付けて、その円の中心にナイフの柄を思いっきりぶつける。グラスが床に落ちるよりもちいさな音で鍵周りのガラスのみが割れた。鍵を開けて準備完了だ。
次にガラス戸の近くの壁へテニスボールを何度も投げる。どん、どん、どん。音が家の中で回る。そうしてしばらく待つ。
はたして奴はやって来た。
ばんっ!
ここの住人だろうか、ピンク色の趣味の悪いセーターを着たそいつは閉められたガラス戸に激突して怒ったように歯を鳴らした。音につられて奴が釣れたのだ。いやはや先人の知恵は素晴らしい。観ててよかった『歩く死体』(直訳)。このテニスボール作戦はかなり役立った。家の中で不意をつかれて奴らに見つかるよりも、自分から出てきてくれたほうが対処は簡単だ。
工藤は唐来に頷くと、ガラス戸をナイフが通るほど僅かに開けた。その隙間の正面に唐来が陣取るのに合わせて、奴は移動してくる。後は簡単だ。タイミングを合わせて、頭にナイフを刺してやればいい。
「ぐぁ」
奴の喉から意味をなさない濁音が漏れて、それきり動きを止めた。工藤がからからと戸を開けると、重力に従って飛び出してくる。
家の中に入ると、どんよりと空気が篭っていた。先程の奴の格好からして、冬の間からずっと締め切っていたのかもしれない。ものが腐る臭いが充満している。バンダナで気休めのマスクをする。
空き家に彼らが居る確率はそう高くない。なにも居ない確率が半分。あと半分のうち、ただの死体の可能性がさらにその半分。つまり奴らに行き当たるのは四分の一ほどだ。これを多いと見るか少ないと見るかは人によるだろう。今回はその四分の一を引き当てたらしい。
幾つかの部屋があった。テニスボールで中を確認してから入る。結果として、この家に居たのは一体だけだったようだ。家にいる短い間だけだが、二階と奴らが入ってこれないほど小さな窓を開ける。それで染み付いた腐臭が消えるとは思えなかったが、気休めでもましだろう。
そうして台所を漁る。冷蔵庫はきっと暗黒空間なので無視する。流し台の下からはカップ麺や缶詰など結構な量の食料が見つかった。その中から麺類など加工が必要なものをより分けてリュックに詰める。それ以外のものは見つけた風呂敷に包んで押入れの奥に押し込んだ。そして幾つかのみ、流し台の下に戻す。
今はまだ探せば店に食料がある。だが、唐来達は会っていないとはいえきっと生存者は他にも居るだろう。供給がないのだから、今あるものを奪い合うことになる。そう時が経たない内に店から食料は姿を消すだろう。そうなった時にどうするのか。畑だけでは生きていくには足りない。きっと家に侵入して探し出すことになるだろう。それにいつまであの拠点が安全なのか分からない。もしも逃げ出さなければならなくなった時に、食料は必要になる。これはそういった時のための保険だ。
この日課は、周りの危険を排除して、いざという時に土地勘を付け、そして体力も付く。一石二鳥ならぬ、一石三鳥だ。リスクは確かにあるが、今のところ上手くいっている。
一通り作業を終えて、よく外が見える位置に座り込む。夏につま先を入れたとはいえ、家の中はまだ涼しかった。
持ってきたスポーツ飲料を傾ける。乾いた身体に染みた。喉が潤うと、口も回るようになる。唐来はぼんやりと空を見上げた。青色に、薄く伸ばされた泡のような雲が広がっている。
「……夏になって、奴ら、骨だけにならないかな」
「いや、それは無理じゃないか?」
直ぐ側から工藤の声が聞こえた。彼女は本棚を覗き込んで、時折取り出してぱらぱらと中身を検めていた。
「どして」
「だって死体って、たしか白骨化するのに外に安静に放置で3-6ヶ月掛かったと思う。でも奴ら、安静どころじゃないだろ」
「あー、たしかに。なぜか元気に歩き回ってるね」
唐来は遠い目をした。奴らが唐来たちの前に現れたのが年明けからしばらくして。まだまだこたつが恋しい時期だった。そして、はじめのニュースから二週間もしない内に全てが崩れたのだ。
思い返す度に、あれは夢だったのではないかと思う。それほど現実味がなかった。生き返る死体。襲われる人々。混乱。怒号のように日々が過ぎて、気がついたら今だ。まったく遠くに来たもんだ。ぼんやりと日々を消費していたあの頃が懐かしい。
「夏かー、やだなー」
「……」
冬も冬で辛いが、夏は夏で苦しいだろうことは容易に想像できる。工藤も嫌そうに顔を歪めて黙り込んだ。
「何事もなければさ、あと一ヶ月もすれば夏休みだー! ってワクワクしてたはずなんだよね」
「今は毎日が夏休みだけどな」
「まあね。でも勉強しない代わりに、生存競争をしなくっちゃじゃん」
ぼんやりと生きてきた。今はスリルを感じながら、やはりどこか現実感を薄く生きている気がする。誰かがぱん、と手を打ち合わせたら、はっと目が覚めるような気がしている。「ああ、なんだ、夢だったんじゃん」なんて笑いながら、つまらない日常に戻れるような気がしていた。けれど頬をつねっても、泣いても、暴れても夢から醒めることは出来ない。
はああ、と大きなため息を吐いて、立ち上がる。ぱんぱんと尻を叩いた。
座ったままの工藤に手を差し出すと、彼女はそれに自分の手を重ねる。ぐい、と引いて立ち上がらせた。手に引き攣れた感覚と、温かい熱を感じる。
「帰ろうか」
「うん」
見上げた空に太陽が輝いている。まだしばらくは沈みそうになかった。
日課を終えて、その他の雑用も終えて、暗くなる前に家に入る。工藤から渡された湯にタオルを浸して、全身を拭いていく。
季節が季節だけあって、汗は多い。ああ、お風呂が懐かしい。シャワーを浴びたい。暖かい湯船でのんきに鼻歌でも歌いたい。工藤いわく今は梅雨の真っ最中らしいが、あまり雨はない。雨ならば外に出て体が洗えるのに。唐来はつんと唇を尖らせた。
ごしごしと頭から拭きはじめ、Tシャツを脱ぐ。
「おおお? こ、これはっ!?」
目に入ったものに、思わず声を上げた。あぐらから跳ねるように体を起こし、工藤の元へ急ぐ。ぜひともこの感動を彼女に伝えなくては。
駆ける。駆ける。駆ける。すぱんと扉を開けた先、キッチンに彼女は居た。
「工藤、見て見てっ!」
「なに?」
何気なく振り返った彼女はぴきりと固まった。壊れたロボットのようにギギギギと唐来の顔を見る。面白い顔だな。口端を釣り上げる。キラリ。無駄に綺麗に生えそろった唐来の歯が輝いた。
「ち、痴女?」
工藤が引きつった表情で見るのは、ボディビルダーのようにポーズを取った唐来だった。下は短パン。上はスポーツブラを付けている。小憎たらしくまた歯が輝く。なにを思ったのか知らないが、突然キッチンに乱入してきて半裸でポーズを取る女を痴女と言わずに何と言う、とでもいうような表情をしている。
あっけに取られた様子の彼女だったが、次の瞬間青ざめ、うつむき肩が震えたかと思えば覚悟を決めた顔で手を振り上げた。しかしその手は振り下ろされることは無かった。
「いやいや、腹筋見てよ」
「腹筋?」
工藤はぽかんとして言われるままに腹を見る。上げていた手は力を失っている。唐来は密かにほっとした。彼女の手刀は結構痛い。
改めてまじまじと見る彼女に、唐来はポーズを決めた。主に見てほしい場所──腹がよく見えるように。
ごくり、と工藤が唾を飲む。
「わ、割れてる」
「そう! ついに手に入れたのだ、あこがれのシックスパックをっ!」
「お、おう」
唐来の腹筋は見事に割れていた。
ひゃっほう、と唐来は両手を上げて喜んだ。力こぶも作ってみせる。健全な精神は健全な肉体に宿る。歩く死体が跋扈するこの世界で、健全な肉体とは最低限これくらいだろう。調達の度に苦労して良質な蛋白質も確保していたのが役立った。
「工藤も早くこれくらいになるといいね」
「いや、私はそこまではいいや、遠慮しておく……」
「なんでや工藤!」
唐来としては出来るのならばぜひとも夏の砂浜でビキニを着てこの素晴らしい筋肉を披露したいくらいなのだが、なぜか工藤は引き気味だ。こつこつと固く引き締まった腹を叩く。今度筋育用のダンベルをもうひとつ探そうかな。にまり、とだらしなく口端が緩む。その内、片手腕立て伏せも夢ではないかもしれない。
唐来、彼女は本来の体力づくりとは別の方向に趣味を開花していた。目指せ、リンゴの握りつぶし。鋼の肉体。
ギー、ギーと唐来は名前もしらない虫の声が響く。しばらく、家の中では唐来のはしゃいだ声が響いていた。
さすがに唐来もボディビルダーになれるくらいには鍛えないはず。魅せる筋肉ではなく、生きるための筋肉が目的なので。途中で体をいじめるのが楽しくなってしまわない限り。たぶん、きっと。