シートベルトをしろ
「うわっ!?」
「……へー」
その日、工藤たちは久しぶりの調達に出ていた。唐来は数日前に髪を黒に染め直し、ほんの少しお嬢様らしさが戻っている。
ドライブのお供にでもとCDを流すつもりで誤って付けたラジオで久方ぶりに自分たち以外の声を聞いた。
──『こんにちは、星春学園の放送部です』
──『生存者の方に呼びかけています』
──『ここは安全です。この放送を聞いている方がいるのならば……』
あいにく工藤は『星春学園』なるものを詳しくは知らないが、確か地図に書かれていた高校がそんな名前だったような気がする。聞く限りでは声も若く、おそらく工藤たちと同じくらいの年頃の女だろう。
世の中がこうなってからまずテレビが砂嵐を移すだけのガラクタになり、ラジオは結構なところまで生き残ったが半年は持たなかった。つまみを回してもどこにも繋がらない。だがこうして今つながっているということは、彼女たちはラジオ塔に避難したらしい。僅かな緊張はあるものの、聞き取りやすい声は切々とラジオ塔の安全を説いている。
食料があります。ゾンビの姿はありません。壁に囲われています。安全です。
「うわ~、生存者だ~!」
きゃっきゃっと花を飛ばす勢いで騒ぐ唐来の横で、工藤はむっつりと口をつぐんでいた。調達の際に、自分たち以外の生存者の存在を感じることは多々あった。だが対面で出会うというのはほとんどなく、あっても後ろ姿だけ。声などほとんど聞いていない。
だから唐来がテンションが上がる理由が少しだけ分かる。自分たち以外も生きている者がいるというのは、なんとなく心強い。しかし。
「……で? なんかするの?」
「…………」
「………………」
工藤の問いに唐来は真顔に戻り、黙り込んだ。咲きかけた脳天気な花は、またたく間に消え失せる。
そう、工藤たちに他の生存者を探す気はない。理由はまあまあいくつかあるが、互いにあまり人間不信の気があるのが最も大きな理由だろう。問答無用でひとの善意を信じられないし、それはこんな世界になってからはなおさらだった。そもそも工藤はひとと一緒に過ごすことにストレスを感じる性質である。今でこそ唐来とそこそこ仲良く過ごしているが、知り合ったばかりの頃はどうやって唐来から離れるかばかりを考えていた。友達が欲しいかと聞かれたが欲しいと答えるが、その後に条件をいくつも付けてそれを満たしていないのであれば一人のほうがマシ、と答えるのが工藤である。一緒にトイレに行くのは面倒だし、放っておいて欲しい時に自分が周りに変な目で見られたくないからというだけで話しかけてくる輩も勘弁して欲しい。まあ、今は外のトイレは安全を考えて一緒に行くし、なんやかんや言いつつ唐来にだる絡みされているのだが。そして工藤がキレるまでがセットである。
話がそれた。が、つまり、自分たち以外の生存者がいようがいまいが、工藤にとってはあまり意味がないということだ。探す気はないし、合流する気もない。生きている人間によるストレスに晒されるのならば、多少リスクがあっても死人たちの闊歩する街を歩く。幸いなことに、今の工藤はそれなりに安全な拠点も持っているし。
唐来もそれは同じだろう。以前、仲間を増やす気はないのかとそれとなく彼女に聞いたところ「ゾンビものの大半はゾンビの驚異よりも人間同士のいざこざがヤバイ」とよく分からないことを言われた。ゾンビの驚異でどうにかできるのは序盤だけで、たいがい尺が足りなくなって人間関係のもつれでエピソードが発展していくのだとか。「まあ、別にゾンビものだけに限った話じゃないけどね……」とも言っていたが、あいにく工藤はそういう娯楽を見てこなかったのでよく分からない。ただ、唐来は別に仲間を増やすつもりはなさそうだということは理解した。まあ、ここまで付き合った限りだと唐来は腹芸も集団行動もできるが、積極的にやりたい人間ではないのだろうな、というのは察している。
「……しないね」
唐来はがっくりと肩を落としてラジオを切ろうと手を伸ばした。工藤もそれを眺めていた。だからだろう、その音が聞こえるまで気が付かなかった。
──ダンッ!
体が揺れる。ボンネットの上をなにかが跳ねていった。衝撃でハンドルが狂ったのか、唐来が歯を食いしばってどうにか制御しようと奮闘しているのが横目に見えた。正面には数体の“奴ら”。
しかし一体では終わらずに、ボーリングのように数体跳ね飛ばした後、やっと止まった。
「っ──……」
「いてて……」
シートベルトのおかげで、車から飛び出すことはなく、またエアバッグのおかげでどこかに強く当たることもなかった。ちなみに工藤はこの世界になってもシートベルトはしっかりする。一見交通事故で死ぬよりシートベルトをすることで奴らに噛まれる確率の方が高いように思えるが、道の所々に障害物があるので、交通事故の確率もそれなりに上がっているのだ。
くらくらとする頭を振る。
「うわっ……」
唐来の引きつった声を聞いて、工藤も顔を上げた。そして同じように苦味を噛み潰したような顔をする。
軽く数えただけで十数体。不健康な肌にどろりと溶けかけの目で奴らはいた。生きていないくせに、生き物を食べようとさまよう奴ら。
「逃げれる?」
「やってみる。……いや、なんか、タイヤがから回っている。なんか嵌っちゃったかも」
唐来がバックしようとハンドルを握るが、きゅるきゅると音が出るばかり。なにかを踏んでから回っているらしい。
そうしている間にも奴らは近づいてくる。
「ちっ」
工藤は舌打ちをすると素早く車から降りた。コンパウンドボウを掴むのも忘れない。このまま車の周りに集られて、にっちもさっちも行かなくなるほうが怖い。
手始めに目の前のモノの頭を射って、周囲に目を走らせる。少し後方に跳ね飛ばしたのだろう奴がいて、足でも折ったのかもがいて立とうとしている。前方には手を伸ばして掴もうとする数体。まだ距離はあるがすぐに彼らの射程範囲に入る。
「ッ!」
唐来も車から出て掴んだバッドで近づいてきた奴を殴る。工藤はうまく手を躱して車の上に登った。また一射。──そして、目を見開いた。
「唐来……」
「なにっ!? 工藤も動いてよっ!」
「いや……『渡り』、だ」
「なっ……!」
さっと唐来は顔を青くした。一瞬手が止まるが、伸びてきた腕に反応してバッドで相手を付く。一瞬工藤に目をよこしてきて、工藤は頷いた。
「逃げるぞ」
ふたりで走り出す。その後方の──さらに後方。そこにはおびただしい数の“歩く死者”がいた。
工藤たちは運良く見つけた納屋に逃げ込んだ。数体に姿を見られたが、ポケットから取り出したタイマーを遠くに放り投げる。一分も経てば甲高い音が聞こえる。ドンドンとドアを叩いていた音は消えた。
そうして数分後。今度は空の割れるような音がした。同時に雨粒が地面を叩く音も聞こえる。通り雨か、あるいは嵐か。残念なことに天気予報は聞けなくなって長い。工藤たちには空が完全に陰る前に納屋の中を見回る程度しかできなかった。
どうやら安全らしいと分かってから、四角く圧縮された藁をクッションにして座る。
しばらくもすると、扉になにかがぶつかる音が聞こえ始めた。ドンドンという、なにか大きな──人間ほどの大きさのものがぶつかる音。しかし先程のように扉の中に隠れた餌をどうにか掴もうとするそれではなく、進行方向にある障害物に当たるような音だ。
──『渡り』。
数ヶ月に一度の頻度で、それに出会う。奴ら──ゾンビたちの大移動だ。
視界いっぱいを覆い尽くすほどの奴らが一斉に進行する行列。まるで群れのように一方向に向かって進んでいく。原理は分かっていないが、工藤はかつてそれを見て想起したものがある。鳥の群れだ。一羽の鳥が飛び立てば、それに続いて次々と飛び立つ鳥の群れ。理屈などなく、ただ愚直に瞳に映す者の行動を模倣する。
『渡り』に抗うすべはない。巻き込まれる前に逃げ込む場所を見つけなければ、圧倒的な数で踏み潰されるしかない。
ここはトタンで覆われた納屋。隙間風はひどいが、壊れるほどではないと信じたい。
「工藤、来る?」
ぽん、と唐来が自分の座る横を叩いた。その視線が「いつかのようだ」と言っている。言葉にされずとも、工藤も同じことを考えていた。
まるで弱い子供のように、誰かに寄りかかるなどしたくはない。だが今はもう冬に一歩入りかけている。外で数時間過ごしても問題ない格好をしているが、雨が降って拠点を出てきた時よりも気温が下がっている。『渡り』が終わるのは一晩かかるだろう。もしかしたらそれ以上かかるかも。つまりその間、ずっとここにいなくてはならない。
「……風邪を引くといけないからな」
工藤はぶっきらぼうに言った。唐来は「素直じゃないなあ」と言いたげなムカつく表情をしていたが、努めて彼女の顔を見ないようにした。でなければ殴りたくなる。わざわざ工藤が配慮したというのに、しかしそれに逆らうのが唐来だ。
「今日は震えてない」
「うるさい」
「あの時はかわいかったのになー」
工藤は唐来の脇腹を強めに叩いた。唐来は「あうちっ!」とわざとらしい声を上げて痛がるふりをする。
携帯食は車の中に置いてきた。あるのはポケットに入れていた飴玉だけ。納屋の隅に放置されていた毛布にふたりしてくるまれながら、なにも言わずにコロコロとそれを口の中で転がした。
甘いそれの最後の欠片が消えて、十数分。嵐と、そして『渡り』が奏でる音を聞く。震えない理由はいくつかあるがそのひとつは隣の存在のせいだ。「お前がいるからだよ」なんて口にすることなく、工藤はうとうとと目を閉じて、いつかのように唐来と寄り添い合って眠りに落ちた。
◆◆◆
周囲に気を配りながら音を立てないように素早く進む。空は曇天。目の前には乗り捨てられた車たち。“奴ら”と人間たちが闘争を繰り広げる首都から脱出して数日経った。首都で拾ってしまった「唐来」と名乗る女も一緒だ。
きれいに伸ばされた髪、白い肌。手入れができずに今は荒れているが、かつては丁寧に世話をしていたのだろう。タレ目で一見優しそうに見えるが、性格は見たとおりではないらしい。教室の中でお前は私よりも下だと猿山のボスらしく振る舞い、煩わしいことは下々の人間がやるべきことだというような彼らに似ているのに、意外に彼女は不平不満を口にしない。まったく考えないわけではないようだが、少なくとも工藤の前では表さなかった。おかげでなにか瑕疵があればさっさと置いていこうと思っていたのに、今の今までその機会がない。
「これからどうするの?」
「…………」
「前よりマシな場所があると思う?」
「……さあ分かりません。でも人口で見れば、田舎の方がいいと思います」
唐来からの質問に淡々と返す。少しでも居心地に悪さを感じてくれれば、そしてできることなら去ってくれればという願いを込めてそっけなく応じているが、残念ながら唐来は気にした様子がない。彼女は工藤が考えていたよりもずっと神経が図太かった。
「敬語じゃなくていいよ。わたしたち、同い年でしょ」
「…………」
敬語じゃなくていい、とは何度も言われた。が、工藤は唐来に敬語を取りはなって話すほど、彼女に親しみを感じていなかった。
「ねえ──」
「しっ」
道路の先を見て、工藤は唇に人差し指を当てた。さっとしゃがんで車の影に隠れる。戸惑いながらも唐来も同じようにする。
「どうしたの」
「……あそこ」
工藤はナイフの柄を握りながら、空いている手で指差した。その先には明らかに死んでいる様子の元人間が立っている。玉突き事故でも起こしたのか、斜めに停められたトラックが邪魔だが、その奥にも数体いるのが見える。
「……どうする?」
「……倒します」
「…………わかった」
ほとんど日は落ちかけている。戻るにも時間がない。どうにか一掃して、今日の寝床を探したい。
工藤は点々と停められている車の影に身を潜めながら、中腰でゆっくりと奴に近づいていく。工藤の後ろを唐来が続いた。
目標から数メートル離れた場所で工藤は足を止める。そのまま近づくのも手だが、奥にいる奴らも対応するとなると、もう少し広い場所に出てきて欲しい。なにか手頃なものを、と地面に目を向けるが、のっぺりとしたアスファルトが続くだけ。手頃なものがない。
工藤は息を一つ吐くと、リュックサックを漁る。出てきたのは飴の缶。軽くなったそれの蓋を開けて逆さまにすると、ころりと二粒飴が出てきた。ひとつを口に含み、もうひとつを少し迷った末に唐来に渡す。嬉しそうに彼女が受け取るのを、なるべく見ないようにした。
そうして空になった缶を少し離れた地面に放る。
カラコロ、と工藤が望んでいたよりも小さいが、確かに音を立てた。
奴がぴくりと反応する。左右に首を振る。ゆらゆらと小さく体を揺する。しかし近づいては来ない。もしや失敗したかと唇の端を噛んだ。しかし次の策に頭を巡らせ始めた時、奴は一歩踏み出した。そして歩いてくる。
奴まであと数歩となった時、工藤は立ち上がった。奴の足を蹴る。ナイフを握る。頭に突き刺す。動かなくなったのを確認して、前を見た。
工藤の姿を認めると、奥から足を引きずるようにして奴らが近づいてくる。できるだけ車と車の間が狭くなっているところがいい。前だけ相手にしていればよくなる。丁度人ひとりが通れるくらいに車が隣り合った場所に移動して、さあ、と構えた時だった。
「工藤!」
「なんだ!」
邪魔をするな、と唐来を睨みつける。しかし彼女は工藤を見ていなかった。真っ青な顔でそれよりも先を見ている。
「あれ……!」
「なに、……」
指差した先、トラックで遮られたさらに奥を見て、工藤は顔を引きつらせた。
大群。
そう評すしかないような人の塊。それが見渡す限り奥にずっと続いている。
あんなもの、どうにかできるわけがない。ざっと全身から血の気が引いた。ぶるりと体が震える。
「工藤!」
呆然としていたのは一瞬だった。しかしこの世界ではその一瞬が命取りになる。
いつの間にか近づいてきていた奴に腕を掴まれる。反射的に振り払おうとするが、大柄な男で簡単には手を離さなかった。ナイフを振りかぶるよりも早く開いた口が近づいてくる。間に合わない。
「っ、たぁ!」
しかし噛みつかれることはなかった。唐来が横からそいつの頭にナイフを突き刺したのだ。糸が切れたように掴んだ手に力がなくなる。振り払ってたたらを踏んだ工藤の手を、唐来が掴んだ。
「逃げるよ!」
「……いや、車に籠城しよう」
もつれる足をどうにかして動かす。当然ながら敬語なんて吹っ飛んだ。唐来に急き立てられて走りながら、工藤は素早く思考を回した。このまま逃げてもあの大群だ。どうやっても完璧には逃げ切れない。ならばやり過ごすしかない。
車は放置されて一、ニヶ月ほど。汚れてはいるが、まだ内部が全く見えないほどではない。
工藤はひとつの車に目をつけた。ファミリーサイズの自動車。カーテンが付いていて、少なくとも今は中が空のように見える。そして少し扉が空いている。鍵はかかっていない。
「あれ!」
唐来は工藤の意図をしっかりと汲んだ。跳ねるようにして車に近寄ると、扉を開ける。工藤が飛び込んで、そして唐来が中に入ると素早く扉を閉じた。ロックをかける。
工藤は素早く車内を見回した。ぱっと見は奴らの姿がなかったが、本当にいないかどうかはしっかりと確認しないと分からない。車中というこんな狭い密室で完璧な安全が確保されていないというのに無防備になるなんて無理だ。
工藤たちが入り込んだのは後部座席。後ろの荷物を置くスペースと、前の運転席に目を走らせる。物陰に潜んでいる可能性もあるので、しっかりと隙間も見た。
結果、クリア。しかしほっと息をつく間もなく車が揺れ始める。奴らがバンバンと外側を叩いているのだ。
そう簡単にガラスを突き破られるとは思わないが、このままだと一生ここから出れなくなる。
とりあえずカーテンを閉めてこちらを見られないようにしてみる。が、揺れは変わらない。唇を噛んで考える。ふと腐臭を感じて顔を上げる。目を剥いた。
「な、なにしてるんだ!」
唐来が車の窓を数センチ開けていた。奴らの指がうごめいてカーテンを揺らす。工藤が立ち上がって止めようとするが、唐来は先程の工藤のように唇の前に指を当てて「静かに」とポーズを取った。
そうしてリュックからなにかを取り出す。外はもう薄暗闇だ。そしてカーテンを閉めているため、いっそう車内は暗い。それがなにかはよく分からなかった。だが次に唐来が取った行動で正体が分かる。──花火だ。それも、打ち上げるタイプ。
唐来は導火線に火を付けると、数秒待った。そして後少しで打ち上がるという時に、窓の隙間からぐっとそれを押し出した。次の瞬間、パシュ、と軽い音がして光の筋が出来たのがカーテン越しに見えた。
数十秒、あるいはもっとだろうか。しばらくすると車の揺れは落ち着いた。どうやら奴らはうまい具合に花火につられてくれたらしい。
しかし息をつけたのも少しの間だけだった。ドンッドンッとなにかがぶつかる音と同時に、車が小さく揺れる。工藤はカーテンの隙間から外の様子を窺う。
もうほとんど闇に落ちた外から見えたのは、奴らが途切れることなく横切る姿だった。一心に、茫洋と宙を見つめて、工藤が来た方向とは逆向き──つまり都心に向けて。
ナイフを掴むが一向にこちらに関心を示さない。もちろん、カーテンで中を窺えないようにしているというのもあるだろうが、それにしてもおかしい。
奴らは基本的に音に反応する。嗅覚も多少は残っている様子があるが、それはまだ確証を持てるほど検証を重ねていない。視覚もあるものの、生存者にとって最も驚異になるのは聴覚だ。先程見たとおり、奴らは音に反応する。
周囲にまったくなんの獲物がない時はただ立ったままじっとしているが、一度音が聞こえればそれに向かって進み出す。彼らの目に獲物の姿がまだ見えなくとも。
そして知能は子供以下。後から刺激を加えれば前のことは忘れる傾向にある。先程工藤たちが車に乗り込んだのを見たというのに、カーテンで視界を遮って姿を隠し次の刺激たる花火を打ち上げれば工藤たちのことを忘れてそれを追ったのがいい例だ。
工藤は後でもっと彼らの習性を調べなければ、と思いながら思考を回した。手を握りしめて考える。
だが今の奴らの行動はなんだ。いつもならば刺激が消えると奴らは立ち止まる。ふらふらと歩く奴もいないわけではないが、彼らはただ聞こえた音に反応しているだけだ。遠くから耳に入った音を頼りに進む。しかし音の正体を掴めなくなると足は鈍っていつかは止まる。
しかし今、奴らはなにかに向かって進んでいる。工藤は後部座席のカーテンを少しだけ開けて、奴らの進む方向になにかがあるのではと見てみた。だが目立ったなにかは見つからない。工藤たちが格闘している間になにか大きな音を聞き逃した可能性はなきにしもあらずだが、しかしふたりしてそうなるだろうか。それなのに、奴らはどこか目的地があるかのように工藤たちの乗り込んだ車に体当たりをしながら進む。
先程見た光景を思い出してぞっとする。道の奥の奥まで奴らだった。それが今、大移動をしている。
いったい何体いるのだろう。たった二ヶ月で世界はまったく別のものになった。今は生きている人間の方が少ない。避難施設があるという話だったが、それも今はどうなっているか。自衛隊や米軍がどうにかしてくれるという噂もあったが、今やこのざまだ。そして奴らは今もなお生き残った人間たちを自分たちの仲間に変えている。首都の人口は国のそれの三十%。現時点でも負けている。そして新たに奴らが追加されようとしている。生き残れるものは少ないだろう。
そうして首都の生き残りを噛み尽くした後は、奴らは新たな獲物を探しに移動する。いつかは工藤の前にも来るだろう。
ぶるぶると体が震える。未来を考えるのが恐ろしい。工藤の将来は“奴ら”に変わることは九割九分九厘決まっている。いつかはあの姿になるだろう。残った一厘は、その前に死ぬことだ。それが遅いか早いかならば、今、決断するべきなのでは?
そもそも元の世界から特別目的を持って生きていたわけではなかった。いつも金の心配をして、死ぬほどではないから生きてきた。唯一本を読むことが救いだった。書物は工藤の知識を増やし、物語は別の世界に連れて行ってくれる。おかげで輝かしいなにかがなくとも息をすることはできた。生きてこれた。
だがもう、世界は変わった。これからどうなる? 始まりからずっとただがむしゃらに生きてきたけれど、この世界はずっと続くのだ。夢のように覚めることはない。それを唐突に理解した。
「震えてる。怖いの?」
不意にささやき声が聞こえた。隣に座る女からだ。暗闇の中でよくは見えないけれど、たぶんこちらを向いている。
「……君は怖くないのか?」
奴らが当たる音と共に車が揺れる。外は腐敗を始めた歩く死体たち。工藤が一歩外に出れば、嬉々として奴らの仲間にしようと襲ってくるだろう。
工藤は膝を抱える。体の震えが止まらない。目が望んでいないのに潤んだ。たった数週間前に会ったばかりの奴なんかに自分が泣くのを見せたくなくて、ぎゅっと拳を握って耐える。
ふう、と隣の女が息を吐くのが聞こえた。カーテンの隙間から月明かりが漏れる。──彼女は笑っていた。
「正直なところ、今はまったく」
あはは、と彼女は小さく笑った。
「だって学校もないし、親もいないし、面倒な友達付き合いもないし」
自由だよ、と満面の笑みで。
人間は好きな人を見ると目が輝くという。興奮で瞳孔が開き、目が大きく見えるからだ。そして今、工藤の目の前にいる彼女も、“目が輝いていた”。まるでとっておきのゲームをクリアでもしたように。
工藤は目を見開いた。胸の奥になにか熱いものが生まれたのが分かった。いや、元々工藤はそれを持っていた。ただ、必要ないからと奥の奥に押し込めていただけで。
気づけば工藤は笑っていた。ふ、ふ、ふ、と笑いの息が漏れる。
そうだ、自由だ。もう救いようもない親に頭を悩ませることも、なんだか場違いに感じる教室で授業を受けることも、大人の都合で窮屈な箱に押し込められるような気分を味わうこともない。自分ですべて決められる。どうやって生きるのか。そして、どうやって死ぬのか。
この世界を歓迎できるなんて狂っている。でもまあ、この世界で生き残るのはたぶん唐来のような者たちなのだろう。まともな人間は早々に死ぬか、奴らに変わる。工藤は自分自身をまともだと思っていたけれど、実際のところはどうなのだろう。そう考えると笑えてくる。
もう震えはない。死体たちの地獄の行進の音も、今はただの背景だった。
「──そうだね」
唐来に笑い返す。彼女と一緒にいるのもいいかもしれない、とその時初めて思った。
◆◆◆
死者の行進は朝に起きてもまだ終わらず、結局後ろ姿さえ見えなくなるのには丸一日かかった。
納屋の周りは激突されたのだろう奴らの血で汚れ、放置したままだった車も同じだった。タイヤが空回りした原因だったのだろう死者の死体も、踏み潰されて肉片へと変わっていた。
車に乗り込み、くうくう鳴る腹の機嫌をとって。ふと思い立ってラジオをつまみを回した。あの生存者たちの声が聞こえた局。音量を上げて、そして。
聞こえたのは、砂嵐の音。
ふう、と息を吐く。ラジオの電源を切ると、シートベルトをした。唐来も同じように。
車は滑らかに動き出した。
あっという間に時間が過ぎて困る。
たぶん来月は更新しません。




