金品よりも食料確保
「ハンバーグが食べたい!」
唐来がそう言い放った時、空は高く、世界は相変わらずクソッタレだった。
畑に蔓延る雑草たちを殲滅せんと奮闘しているときだった。刈っても刈っても刈っても刈っても刈っても出てくる雑草に根負けして、鎌で刈るのを諦めて工藤と唐来は十把一絡げで棚の奥に転がっていた手袋をはめて草を毟っていた。悪は根本から排除しなければならない。つまりは根っこから取り除かなければ、いたちごっこだと気づいたのだ。
終わりの見えない作業に心を折られつつ、機械的に手を動かす。
額に浮かんだ汗が滑り落ち、地面に吸い込まれた。汗でずれた眼鏡を直す。わずかに色が変わったそこを見ながら、首に掛けたタオルで汗を拭った。髪はついこの間面倒臭さに負けて短く切った。日差しは麦わら帽子で遮っているが、それでも浮かぶ汗に辟易する。これでまだ6月なのだから、これから来る夏はいったいどんな地獄になるのだろうか。
傍らでは唐来が同じく草を抜いている。彼女の髪は肩甲骨辺りまであるから、襟足ほどの工藤以上に熱いだろう。横で縛って流しているが、首筋に玉のような汗が浮かんでいる。目に見えて動きが遅いのを見かねて、工藤はペットボトルを手渡した。中はスポーツドリンクだ。お買い得セットの粉を水に溶かしたものである。粉っぽいから、と唐来ははじめ嫌がったが、ならば代わりにすでに出来上がったものを入手してこいと言うと押し黙った。今では気にせず飲んでいる。
こくこくと喉を上下させる。ゆっくり飲めと注意したくなるが、先日まるで小姑みたいと言われたのを思い出して開けかけていた口を閉じた。ついでに取り出そうとしていた飴も引っ込めた。彼女には飴ひとつで調子づく単純なところがある。
だが甘い味の付いた清涼飲料水でも効果があったらしい。自分のほうが背が高い癖に覗き込むようにして工藤を上目遣いで見つめてきた。
「あのさあ~」
「なに」
甘くおねだりするような声色に自然と警戒する。出来ることならば返事などしたくないが、無視するわけにもいかず渋々口を開いた。
「工藤はさ、このごろのわたし達の食事事情をどう思う?」
「どうって、特に何も」
「今日の朝ごはんはなんだったっけ?」
「味噌乗せうどん。野菜ジュース付き」
「昨日の晩御飯は?」
「ナポリタンとニラ炒め」
「昼は?」
「ええと、そば?」
「一週間前は?」
「え、分からない」
「わたしも知らない。でも麺類だったことは間違いない! 来る日も来る日も麺! 麺! 麺! 麺! もう別のものが食べたい!」
唐来は拳を振り上げた。工藤はそれを冷静な目で見つめる。
「とは言ってもさ、麺が一番簡単なんだよ」
「それは分かってる! 分かっているけど、違うんじゃない!」
「なにが?」
「そこを諦めるのは違うんじゃない!?」
鼻息荒く唐来が叫んだ。正直この時点でもう暑苦しい。面倒に思いながら、工藤はとりあえず口元に人差し指を立てた。静かに。それは伝わったようで、次の言葉は少し小さくなる。
「わたしは! 肉が! 食べたい!」
唐来はうぎゃあ、と両拳を天に掲げた。それを冷めた目で見る。諦める、諦めないの問題ではない。そもそも論として肉が手にはいらないのだ。動物性蛋白質が絶えて久しい。最後に新鮮な肉を使った料理を食べたのはいつだったか。こんなことになる前から工藤の家庭は金に飢えていたから、だいぶ前からだ。
「うどんにツナも乗ってたじゃん。ツナは肉だし」
ツナ缶も立派なごちそうだ。マヨネーズを絡めればもうそれは豪華と言っても過言ではない。それにあのときはこの季節だし一度缶を開けると次の日まで持ち越すのが心配だからと、豪勢に一食に半分ずつにした。
「確かに美味しかった! でも違うんだよ~」
ぶうぶうと唐来の文句は続く。それを聞き流しながら心の中で嘆息した。亀のように口を閉じる工藤の横で、延々と唐来は話し続ける。暑さでくらくらとしてきたときには、話はツナと肉の根源的な違いから、ついには海と陸のありもしない戦争秘話まで発展した。口八丁。手の方はまあまあだが、よくもそんなに口が回るものだと毎度感心する。
「工藤だってさあ、肉、食べたくない?」
──そりゃあ、食べたい。
だがそう言うと唐来が調子に乗り始める。むっつりと口をつぐんだままそろそろ手を動かせと手を振ると、唐来はなにを勘違いしたのか、がしりとその手を取った。汗ばんだ手だ。かっかっとまるで熱があるかのように熱い。彼女らしいなと思う。子供体温とは違うだろうが、いつでもテンションが高い彼女らしい体温だ。高血圧だろうか。暑苦しい。手を引いたが、しっかりと掴まれているため引き抜けない。嫌がる工藤を物ともせず、ひたりと目線を合わせてくる。そうして言った。
「ハンバーグが食べたい」
恐ろしいことに彼女は真顔だった。
あっけに取られる工藤をそのままに、あろうことか念を押すように二度言った。
「ハンバーグが、食べたい!」
落ち着こう。繋がれていない方の手を額に当てる。言う言葉は決まっている。
「無理だ。なに言ってんだ、こんなご時世に」
工藤は哀れな者を見る目で首を振った。駄目、無理、不可能。出来ない理由は万のように湧いてくる。それでも唐来は微塵も引く気を見せない。面倒なことになったと心のなかで嘆息した。そんな工藤の目を唐来が嫌に澄んだ目で見つめる。勘弁してくれ、と彼女の目を覆いたくなる。
「ねえ、三日後は調達の日だよね」
無言のままの工藤になにを思ったのか、更に言い募る。
「もうそろそろ別の所に行こうって話てたよね?」
「……まあ」
「だったら、わたし行きたいところがあるんだけど!」
唐来が告げたのは市街の外れにあるそこそこ大きなスーパーマーケットだった。確かにあそこならば規模が大きいから商品数も多い。大規模な分、すでに荒らされている可能性はあるが、行く価値はある。だがそれと同じくらい危険があった。
「駄目。前にそばを通った時、やつらが多かっただろ」
「でも今は散ってるかもよ?」
工藤はむむむと眉を寄せた。そんな希望的観測では行けない。だが文句を言う前に唐来が口を開いた。
「それに、新しいところに行くとしたら、偵察に行かなきゃでしょ」
「それは、まあ……」
「行ってみて無理そうだったら諦めるから!」
ダメ? と唐来は子犬のように目を潤ませて見上げてくる。そんな目で見ても工藤が優しくなることはない。きっぱりと無理だと言おうとして、留まった。
もしもここで唐来の意見を退けたとして、どうなる? たった数ヶ月だが、唐来の性格はある程度把握している。その間に蓄積された経験が、奴は断ったら、きっとこちらが把握しないところで無茶をして最終的に工藤が後始末をすることになる可能性が高いことをはじき出す。険しい顔で、頭の中で計算する。リスクとリターン。数秒後、大きなため息を付いた。口がへの字に曲がるのは仕方がない。
「分かった」
唐来の顔がぱっと輝いた。抱きついてこようとするのをさっと躱す。釘を刺すのも忘れない。
「ただし危なそうだったら、すぐ帰るから!」
彼女はそれに輝かんばかりの笑顔で頷いた。本当に分かっているのだろうか。工藤は胡乱な目を向けた。
◆◆◆
そして三日後、工藤は車の中にいた。
隣にはふんふんと機嫌よく鼻歌を歌いながらハンドルを操る唐来がいる。ごろごろと道路に転がる障害物を危なげもなく避けていく。工藤は外に目をやった。市街地に入ってからもう随分たつ。生きている人間はひとりも見かけなかった。建物の幾つかは火事にでもあったのかひどく焼け焦げている。一体どういう過程でそうなったのか、工藤はなんとなく分かる気がした。
スーパーの正面で車がゆっくりと停止する。周囲に奴らはいないようだった。車のキーは刺したまま降りる。外の明るさに手びさしをさした。目を細める。一瞬見えた空の鮮やかさにくらりと目眩がした。
街に工藤と唐来以外の人の気配ない。生きていない街の中では、晴れ渡る空がただただ眩しい。人が消え、手入れをしなくなった街はあっという間に寂れた。剪定されなくなって久しい街路樹は奔放に育っているが、それは伸び伸びとした朗らかさというよりも、ここが「死んでしまった」街だということを浮き彫りにするようだった。
遠くの方で何か歌声のようなものが聞こえる。仕掛けは上手く動作しているようだ。
「行こう」
促されて手に持つ弓を構え直した。工藤が手に持つのは愛弓のコンパウンドボウだ。弓の上下に滑車がついていて、弱い力で威力の高い弓を放つことが出来る。なぜかホームセンターで唐来が見つけてきたのだが、彼女は射手に向かなかったらしく工藤に回ってきた。ホームセンターでこんな危険そうなものを売っていて大丈夫なのかと思うのだが、それに今助けられているので文句も言えない。飛び道具は何かと便利なのだ。唐来は工藤の後ろをバットを構えて付いてくる。
スーパーマーケットの入り口でこくりと唾を飲み込む。いつになっても慣れない。意識して大きく息を吸った。
入り口から中を覗く。入り口のガラスは割られていた。粉々になった破片が床に散らばっている。物音はしない。奴らもいないようだった。
頷き合って無言で先に進む。店の中は思ったよりも綺麗だった。商品は床に投げ出され、棚はいくつも倒れているが、予想していたよりもずっと少ない。初期の頃から奴らがたむろして、それで被害が少なかったのかもしれない。今は仕掛けのおかげて奴らの姿は見えない。
電気がないので薄暗い。空気も淀んでいた。空調が動いていないので仕方がないのだろうが、腐ったような異臭が漂ってくるのがいただけない。工藤はポケットからマスクを取り出すと装着した。こんなこともあるかと用意していたのだ。物欲しそうに見てくる唐来にも手渡してやる。
警戒しつつもカートに必要な商品を放り込んでいく。日用品、便利そうなもの、日持ちするもの等々。冷凍食品のスペースで、唐来が足を止めた。当然のように冷凍機能は生きていないので、そこはただの入れ物だ。常温に戻った商品はビニールに守られているのか、意外と臭いが少ない。食品の波をかき分けて、唐来がひとつのものを摘んで取り上げた。
「これ……」
「いや、どう見ても無理でしょ」
確実にNOだ。彼女が摘んでいるのはかつてハンバーグだったもの。パッケージングされているので形状は保っているが、変色しているしどう見てやばい案件だ。
唐来の方も一応聞いてみたという程度なのだろう、反論もせずにそっと元の場所に戻した。思わず声を潜めて問いかけた。
「そもそもどうやってハンバーグなんて調達する気だったの?」
材料もないだろうに。新鮮な肉などもはや手に入らない。
「なにか、せめて缶詰とかならあるかなと思って……」
ハンバーグの缶詰などあるのだろうか。少なくとも工藤は見たことがない。見た覚えがあるんだけどなあ……と呟く唐来に一応頷いておく。
カゴの中身が埋まってきた頃に缶詰のコーナーについた。正直言って工藤に取ってはここが本命だ。長期保存に向き、そのまま食べても美味しい。ちらりと見た限りでもかなりの量が残っていた。基本的にはじめに店から消えるのが缶詰なので助かる。
重要度が高そうなものからカゴに放り込んでいく。カートの上下のカゴはあっという間に山となった。このままでは動かすだけで崩れてしまう、という前の段になって工藤はやっと手を止めた。落として音を立てるのは不味い。それでも取れるだけと背負っていたリュックにも詰めていく。ずっしりと重くなり、はじめから軽いものを移しておけばよかったと少し後悔した。往復はできるだろうか。いや、欲張りすぎるのはいけない。
「ない……」
「そうだね」
警戒しながらもちらちらと棚を見ていたのだろう唐来が沈んだ声を出した。工藤も注意して探したが、それらしいものは見つからなかった。しゅんと肩を落とす唐来を慰めるように肩を叩く。そろそろ出なければ。
外に出るまで問題はなかった。がらがらとわずかながら音を立てるカートに冷や汗をかきながら車まで走る。鍵はかけていないので、簡単に扉が開く。重いカゴを中に放り込んで、代わりに槍を取り出した。槍と言っても棒の先にナイフをくくりつけた即席槍だ。簡単に作れるわりに使い勝手がいいので愛用している。ひとつを自分に、もうひとつを唐来に手渡す。いつにもまして好戦的な目をして、唐来がにやりと笑った。
「それじゃあ、一狩り行くか!」
それを合図に工藤達は駆け出した。
◆◆◆
それらはフェンスに囲まれた檻の中にいた。かつては駐車場として使われていたのだろう、ぽつぽつと持ち主が帰らない車が停められていたがそれでも存分に広い。そこにぎゅうぎゅうと詰まっていた。皆一様にひとつのトラックに群がっている。その屋根にはひとつのラジカセが鎮座していた。大音量でロックを奏でている。
それらは上を見上げて、どん、どん、と体当入りを繰り返している。ラジカセは一日前から鳴り出した。その音におびき寄せられるように集まった。人の形をしたそれらは、ぶつかり続けて擦れた皮膚からどす黒い血が滲んでいた。だがそれも意に介さず、ぶつかり続ける。痛覚がないのか、思考しないのか。ただそれらは飽きもせず蠢き続けた。
◆◆◆
「うっひゃあ、大量~」
唐来の言葉に軽く眉を顰める。だが言っていることは間違っていない。確かに視線の先には大量の奴らがいた。
離れた位置から奴らの大群を観察する。奴らは音に反応する。少しでも危険を減らすために予めラジカセをセットして置いたのだ。それは想像以上の働きをしてくれたらしく、フェンスの中では奴らがひしめき合っていた。
「ゾンビはロックがお好き、ってか?」
唐来は曲に体を任せるように揺すらせて、皮肉げに笑う。ラジカセはちょうど『We Will Rock You』を響かせていた。
そう、うごめく奴らは心臓が止まっている。残念ながら再び動き出す予定もない。腐乱しながらも動く死体は“ゾンビ”の呼び名で間違ってはいないだろう。
奴らは生きているものを食べる。どういう原理なのかは分からないが、身体は生命活動を停止しているのにも関わらず、食欲だけはあった。そして例も漏れず、奴らの体液を身体に入れた者──噛まれただとか、血を飲んだだとか──もまた奴らになる。
もはや地上は奴らの楽園だった。生きる者は奴らに怯えて身を隠す。
心臓の止まった人間が、町を歩く。腐りながら、濁った目を茫洋と見開きながら、音を頼りに生きているものを探す。食べられるものを探す。
工藤は彼らをなんて呼べばいいのか分からない。ゾンビ、屍人、歩く死体……。どんな呼称が相応しいか。いずれも正しく、いずれも間違っているように思えた。
工藤たちは「奴ら」と呼んでいた。ふたりしかいないのだ。わざわざ名前を付けなくともそれで事足りた。
「あそこ、閉めなくちゃ」
指したのは、駐車場の入口だ。出口のほうは事前に閉めて置いたのだが、事を始める前に入口も閉めなければならない。だが3体、フェンスの外にいる。
一番近くにいたやつを素早く射る。矢は過たず頭に刺さって、奴は糸が切れたように倒れ込んだ。
「援護する」
「よっしゃ」
言葉少なに頷きあうと、唐来は弾丸のように車の影から飛び出す。工藤もそれに続いた。唐来は勢いのままに槍を一体の目に突き刺す。手を伸ばしてきたもう一体をひらりと躱してフェンスの扉に飛びつく。その間に工藤は最後の一体を射て、唐来に駆け寄ってカラビナで扉を固定した。
やっとこちらに気がついたのか、閉じ込めたフェンスの中から不自然に体を揺らしながら奴らが近づいてくる。
「がぁっ!」
声を出す機能がどうなっているのか分からないが、奴らは簡単な音を出せる。言葉と呼ぶには原始的過ぎるそれは、工藤には当然意味が分からない。フェンスに激突した奴らは、ぐりぐりと網の目に顔を擦り付けてカチカチと歯を鳴らした。
「ハンバーグの恨みぃ!」
唐来がその頭目掛けて、ナイフを刺した。確かな手応えを感じたのか、腕に力を入れると、柄をしっかり握って刺さった刃を抜く。重い音を立ててそいつは地面に沈んだ。
奴らを倒すには脳を破壊するしかない。ナイフで頭を一突き。それで動きは止まり、ただの腐った死体に戻る。
唐来いわく、ゲームではお決まりの弱点らしい。ここは紛れもなく現実なのだが。だが確かに体をいくら刻んでも動いていた奴らは脳を傷つけるとあっけなく力を失った。
脳が弱点。
分かり易いようでこれが結構難しい。肉塊に刺して抜くだけで結構力がいるのに、奴らは動き回る。数倍は力が必要だった。
そうしている間に、ラジカセを囲っていた外枠の奴らが工藤たちに気づいた。一体が動けば他の奴らも、と連なるように移動する。
なんだか昔にこれと似たものを見たことがあるような気がした。
頭の片隅で既視感の正体を追う。
「ああ、ペンギンだ……」
工藤はぼそりと隣に聞こえないほど小さな声で呟いた。そしてすぐに顔をしかめる。
平和な頃にやっていた動物動画のペンギン。先頭が動くとそれに付いて行くペンギン行列。だが悲しいかな、奴らはそんなに可愛いものではない。
次々にフェンスにへばりついてきた奴らの頭を、唐来が作業的に刺していく。交代制だ。一方が奴らをフェンス越しに刺して、もう一方は背を向けて周囲を警戒する。疲れてきたらまた交代だ。工藤は唐来が次々と奴らを地に沈めている間に挿しっぱなしにしていた矢と唐来の槍を回収する。フェンス越しならばナイフの方が勝手が良い。
「工藤っ、交代!」
ぱんっと手を合わせて交代する。肩で息をする唐来は槍を支えに息を着く。
工藤はフェンスに向き合った。目の前にびっしりと腐りかけの顔があるというのは中々衝撃だ。きちんと手袋をはめてナイフを構える。手袋はすべり止め代わりでもあるし、防護と汚れを防ぐ意味もある。噛まれるのも、腐った体液が跳ねられるのも嫌だ。
ぐっと力を入れて目の前の個体の目を狙って差し込む。くちゅり、と何かが潰れる音がして、ついで柔らかいものを切り裂く感覚がした。力が抜けたかのように急に傾ぐ奴から素早く刃を抜く。一拍置いて脳を刺された奴は倒れた。
「次」
小さな声で呟いて、その隣の個体の目を狙う。工藤は作業的にそれを繰り返した。
本来ならばこんなことをせずとも物資を車に運んだらそのまま逃げればいい。だが工藤たちは出来る限り奴らの数を減らしてきた。
それはなぜか。
いくつか理由はあるが、最も大きな理由は、いつかは自分たちのためになるだろうと考えているからだ。
当初は彼らは病気なだけで、いつか特効薬ができるのではないかと思っていた。だからどうしようもない場合を除き、彼らに決定的打撃は与えなかった。もしかしたら『元に戻る』という希望を見たかっただけかもしれない。だが一月ほど過ぎた頃、それは儚い幻想だったのだと知った。
彼らが、腐り始めたのだ。
腐臭を撒き散らしながら動く彼らはどう考えても「生きている」ソレではなかった。腐敗の度合いはなぜか通常よりも緩やかだが、たしかに腐っていく。
それから、工藤たちは方針を変えた。可能ならば奴らを排除するように、と。
現在進行形で奴らは数を増やしている。たったふたりが奮闘したところで焼け石に水だろうが、それでもやらないよりもマシだ。奴らは数が増えると手に負えなくなる。1体ならばまだどうにかなるが、複数に囲まれてしまうとまずい。今日見逃した奴が明日には自分の死亡原因かもしれないのだ。
工藤は内心でため息を吐いた。自分だって許されるのならばこんなことはしたくない。安全な家の中で閉じこもっていたい。だが現実はそう甘くはなかった。
二度目の交代があり、腕が悲鳴を上げ始める頃にそれは来た。
ぎしぎし、と奴らの体重を支えていたフェンスが妖しい音を立て始めたのだ。
「唐来っ!」
一体の頭に槍を突き刺していた唐来に警告を発する。一度、目を合わせると弾かれるように走り出した。その数秒後、重さに耐えきれなかったのかフェンスが倒れる。まろぶようにして奴らが出てきた。
荷物を積んだ車まで走って戻る。途中、障害が無かったのは僥倖だった。奴らは群になるとやっかいだが、一体一体は鈍く、基本的に直進しかしない。捕まれば力が強く、振り解くのが困難だが、二人いれば捕まることなく簡単にとどめが刺せる。
車の後ろに槍を放り込む。唐来がエンジンをかける横に工藤は滑り込んだ。
「いやあ、疲れた」
「……思った以上に居たな」
バックミラーに一体追いかけてくるのが見えた。工藤の視線を追って、唐来もバックミラーを見やる。ふん、と鼻で笑う。
「すたこらさっさだぜー」
唐来が後部座席の窓に縋りつく奴らを尻目に車を発進させた。
◆◆◆
簡単に着替えて、戦利品の御開帳と相成った。
電気は付かないがまだ日が高いため、家の中は明るかった。これが夕方を過ぎるとあっという間に暗くなる。さすがは田舎、といった感じだ。今は電気が通っていないから、田舎も何も関係ないかもしれないけれど。
入れたものは覚えているが、それでも気分が高揚する。僅かに緩む頬をそのままに、工藤は机の上に乗せていく。日用品に医薬品、そして食料品。たいして大きくない机の上は商品で埋まった。しかし、
「ハンバーグが無かったぁ~」
唐来が情けない声を上げた。当たり前だ。そんなものはスーパーの時点で分かっていたことだろう。いちいちここで言う必要があるか?
意気消沈する唐来を、工藤は冷たい目で見る。だが言葉には出さない。面倒なので。そしてここで無視した場合に面倒な絡まれ方をするだろうと予測して、ため息を吐いて、心にもないが慰めを口にした。
「残念だったね」
「ホントだよ。大型店ならあると思ったのになあ……。うぅー、食べたいー」
唐来はごろりと床に転がると、手足をバタバタさせた。とても工藤と同年の者がする言動ではない。ここまで見境なく子供っぽいことをされるといっそ哀れに思えてくる。だがないものはないのだ。どうすることもできない。
……いや。
「……できないこともない、か?」
「なに!?」
雨の後に青空を見つけたような顔をして、唐来はがばりと身を起こした。ゴム仕掛けのようなその素早さに僅かに身を引く。
唐来がサンタクロースを信じる子供のようなキラキラとした瞳で見てくるが、正直あれは彼女の求めるハンバーグとは異なる気がする。ううん、と工藤は眉根を寄せた。
「あくまでも“らしきもの”だけど、作ってあげるよ」
「工藤ー!」
腕を広げた唐来を、工藤は華麗に避けた。
「ハンバーグ“らしき”ハンバーグ」を作るために、工藤は唐来を助手に指名した。とは言っても、料理に関しては唐来は大概助手だ。どうやらこういう世の中になるまで彼女は料理というものをしたことがなかったらしい。カップ麺は料理ですかと聞かれて絶句したのをよく覚えている。工藤は蓋を開けて熱湯を注いで待つだけの簡易食を断じて料理とは認めない。
そんな様子であるから当然のこと、彼女は料理の基本を知らなかった。味噌汁は出汁を入れないので塩辛い。工藤はフィクション以外で初めて米を研ぐのに洗剤を使おうとする人間に出会った。あれは都市伝説だと思っていたのだが。
集団で活動していたのならば役目を決めるのだが、ここには工藤と唐来のふたりだ。互いに互いができることをやれるようになっておかないと、万が一があれば共倒れになる。そのため、時間が許せば唐来は助手として調理に参加した。
流し台の上に食材を並べていく。気分はさながら料理教室だ。だたし助手が本当に初心者なので、某番組のように「やっておきました」という時短テクニックは使えない。
「今日はこれを使う」
「ええと、鯖缶に玉ねぎ、ニラ、パン粉、あと白いなにか」
「それは高野豆腐。動物の肉がないことを除けば、ハンバーグらしい材料だろう」
「そうなの?」
唐来が首を傾げる。ハンバーグの材料を知らないのだろう。そうだ、と言って頷く。正統派に豚ひき肉のハンバーグならば、鯖缶の代わりに豚肉、高野豆腐とニラがなく、つなぎに卵を使う。だが、ここには肉はないので鯖缶と高野豆腐で代用、卵はないので使わない。
「それじゃ、高野豆腐をすりおろして」
「豆腐なの、これ? 失敗したスポンジじゃなくて? 本当に食べれる?」
水を吸って膨らんだ高野豆腐を突きながら唐来が何度も確認してくる。まあ、言いたいことは分からなくもない。確かにぱっと見はスーパーの片隅に置いてある使い捨てクリーナーのようだ。だがいくらそっくりでもこれは違う。高野豆腐は、豆腐を凍らせて乾燥させた保存食だ。きちんと腹の足しになる。
「食材で遊ぶな」
工藤は不審そうにつついている唐来を軽くどついて、その手におろし金とボールを握らせる。慣れない手つきでもくもくと卸していくのを横目に、若干涙目になりながら玉ねぎとニラを刻んでいく。
「終わった」
「ん。じゃあ、ボールの中に刻んだこれと、鯖缶を入れて。あ、缶の水は切って」
「はい」
神妙な顔で唐来が頷く。調理場ではなぜだか唐来は従順になる。普段からこれくらい扱いやすいと助かるのだが。
ボールの中に材料がすべて入ったのを確認して、混ぜるように指示を出す。その間にパン粉を投入し、下味を付けていく。調味料は常温でも腐らないものが多いから助かる。万能選手のマヨネーズ然り。味噌然り。隠し味にごまも放り込む。いい感じになったら止める。
「整形はよろしく」
「えっ、整形って!?」
「……ハンバーグ型にして」
工藤は米の様子を見た。ここは辛うじてガスが使えるのだ。都市ガスでないための強みだろう。無駄使いはできないが今日は特別だ。なにしろ工藤も唐来も「白い米が食べたい」と思う類の日本人だった。少し手間をかけるのだから、米も一緒に食べたい。
白い蒸気が鍋の隙間から上がり、甘い香りに包まれる。自然と笑みが浮かんだ。後は米が炊き上がる時間に合わせて、ハンバーグを焼けば完成だ。
◆◆◆
日が落ち始めた頃に、食事は始まった。
ランタンで照らされたテーブルの上には鯖缶のハンバーグと、真っ白いご飯、そして菜の花の味噌汁が並んでいる。ここ数日、麺類だったので久方ぶりのごちそうだ。鼻をくすぐる良い香りに心が満たされていく。
両手を合わせる。
「いただきます!」
待ちきれないというように唐来がハンバーグにかぶりついた。勢い余って口端にソースが付く。一口、二口、と噛んでほろほろと顔を蕩けさせた。
「おひひい!」
「飲み込んでから喋りなよ」
「んぐんぐ、おいしい!」
良かったね、と相槌を打って、工藤も箸を持つ。味噌汁で少し腹を満たしてから、ハンバーグを食べる。
濃いマヨネーズの味がじんっと舌を痺れさせ、唾液が溢れたのが分かった。ぎゅっと噛みしめると、難なく千切れた。高野豆腐で作ったためふわふわと柔らかい。噛む度にじゅわりと味がして、それにご飯を入れると口の中でハンバーグのしょっぱさと白米の密かな、しかし確かな甘みが混じりあった。さっぱりしたものよりも濃い味付けのほうが好きだろうと、味をつけてみたが悪くはない。飲み込むと同時に、鼻から息が抜ける。
唇に知らずに笑みが浮かんだ。同時に、暖かい食べ物が食道を通る喜びが久しぶりであることに気がついた。ここしばらく作業のように食べ物を口に運んでいたから、こういう気持ちにならなかった。食事がマンネリにならないように小手先の努力と面倒臭さを天秤にかけて、面倒臭さが勝っていたのだ。
ふんふんっと鼻息荒く食べ物を口に詰める唐来を見ながら、明日からは出来る限り改めようと静かに思った。
──今日も私たちは生きている。