第9話「噂話とあだの花」
頭脳明晰で容姿端麗。
絵に描いたような完全無欠であるように見える壱子だが、実は彼女の悪癖は多い。
睡眠時間が長くて昼頃まで起きてこないし、起きてもしばらくは呆けている。
頭が回るのは事実だが、考え事をしているときの壱子は、周囲の話を全く聞いていない。
他にも様々な悪癖があるが、しかしその最たるものを挙げるとするならば、間違いなく「必要最低限の説明すらしないこと」だろう。
現に今だって、平間と紬に“頼みごと”をして、自分は依織と二人で屋敷内を散策している。
自信たっぷりに大見得を切った壱子の態度から見るに、毒殺未遂事件について何かしらの手がかりをつかんでいるのは間違いない。
しかしそうなら、それをあらかじめ平間に教えてくれても罰は当たるまい。
などと考える平間は憮然としながら、しかし小さな主の“頼みごと”を果たすため、忠実に動いていた。
向かう先は使用人舎。
つまり屋敷で下働きをする者たちが住むところだが、これは少なからず問題があった。
というのも、この屋敷は水臥小路家の姫のための屋敷なので、使用人も女性ばかりなのだ。
「参ったなあ……どう考えても紬の方が向いているだろうに」
平間は浮かない顔で、掃除の行き届いた廊下を進む。
当の紬はというと、壱子と何かを話した後、嬉しそうにどこかへと行ってしまった。
おそらく事件に関係することを調べに行ったのだろうが、それが何なのかは平間には分からなかった。
「さて、と。始めるか」
壱子が平間に頼んだことは、「依織について使用人から情報を集めてくれ」ということだった。
特に、「使用人たちが依織やその母親をどのように感じているか」を重点的に探ってほしいという。
しかし、やはり毒殺となると穏やかではない。
貴族という人種が庶民より毒殺が身近なのは確かだが、だとしても滅多に起こることではない。
しかもその対象が姫君だというのも珍しい。
となると今回の毒殺未遂事件は、権力闘争というよりも私怨によるものと考えた方が無難だろう。
そしておそらく壱子も同じように考えて、平間にこの役目を託したはずだ。
なかなか説得のある推測だ。
平間は「今日は冴えているぞ」といい気になりつつ、使用人舎にいた侍女の一人に声をかける。
「すみません、僕は佐田の二の姫さまに付いている者ですが、少しお話をうかがっても?」
「ええ、構いませんが……」
少々戸惑いながらも笑みを浮かべてうなずいたのは、二十歳そこそこの若い侍女だ。
平間は可能な限り愛想よく見えるように、作り笑いを張り付けて口を動かす。
「実は、依織さまについて聞かせていただきたいのです」
「と、言いますと? 依織さまにお仕えして長いですから、それなりのことはお答えできますが」
「では、率直に依織さまについてはどう思われていますか?」
平間の問いかけに、侍女は一気に表情をこわばらせた。
「それは……私たちを疑っているということですか?」
「い、いえ! そういうわけでは――」
「私たちは真面目にお務めを果たしています。心外です。失礼します」
侍女は小さく頭を下げると、平間を睨みつけて足早に去っていった。
取り残された平間は、少々傷つきながら「何が悪かったのか」考えてみる。
――単刀直入に聞きすぎたか?
あの反応は、明らかに依織を狙った事件を念頭に置いてのものだった。
そう考えると、先ほどの聞き方は少し雑すぎたかもしれない。
平間は気を取り直して、別の侍女に声をかけた。
しかし。
「そういうお話はちょっと……ごめんなさい」
今度の侍女も、平間が依織の話を持ち出した途端に、逃げるように去って行ってしまった。
結局、平間は四人の侍女に声をかけたが、誰一人としてまともに取り合ってくれなかった。
しかも四人が四人とも、依織について尋ねたら態度を一変させている。
何かがあるのは間違いないのだろうが、話すら聞いて貰えないとなると、それを探るのは至難の業だろう。
『あらら、京作さまもまだまだですねぇ』
なんていう紬の嬉しそうな台詞まで聞こえてくる気がする。
完全な被害妄想だったが、平間は妙にカチンと来た。
そんな平間に、救いの手が差し伸べられる。
「あの、よろしければ私がお話ししましょうか?」
平間が振り向けば、そこには痩せた侍女の姿があった。
歳のほどは三十代半ばといったところか。
ところどころ混じる白髪が気苦労の多さを感じさせるが、その表情は柔らかい。
平間は「地獄に仏」とばかりに、食い気味にうなずいた。
「ぜひ! ぜひお願いします!!」
平間の必死さに少々引きながらも、その侍女は比較的軽やかに言葉を繋いでいく。
侍女は、自らを朝霧と名乗った。
十数年前にこの屋敷が建てられて以来、彼女はずっとこの水臥小路家に仕えてきたのだという。
依織の歳が十六か十七ほどだから、つまり朝霧は、物心ついたころから今までの依織のことを知っているということになる。
壱子の“頼みごと”、つまり依織の詳しい情報を得るにあたって、これ以上の相手は無い。
平間は内心、小躍りして喜んだ。
「さて、私のことはもうよろしいでしょう? 依織さまの何をお知りになりたいのですか?」
柔らかく微笑んで質問を促す朝霧に、平間は慎重に質問を選んでいく。
先ほどと同じ失敗をするわけには行かない。
「そうですね……では、朝霧さんから見て、依織さまはどんな人ですか?」
「あら、もっと核心に迫る質問が来ると思っていたのですが。例えば、そうですね……『依織さまを憎んでいる人物はいないか』とか」
「その質問をすると身構えられてしまうと思っていました。僕個人としては、話が早いのは助かりますが」
「良かった。的外れなことを言っていたら恥ずかしいですから」
そう言って、朝霧は本当に照れくさそうにはにかむ。
そして一呼吸置き、続けた。
「いませんよ、そんな人は。少なくともこの屋敷の中には」
「確かですか?」
「ええ。依織さま“は”大変お優しい方です。好かれこそすれ、憎まれなどしません」
「『依織さま“は”』ということは、他に人の恨みを買う人がいると?」
「はい。正直なところ、姉の詩織さまは聡明ですが、下の者には厳しいお方で……好かれているとは言いがたいです」
「姉? 依織さまにはお姉さんがいるんですか?」
「ええ。ご存知ありませんか?」
初耳だった。
平間はこの屋敷が依織とその母親のために作られたのだと思っていたが、どうもそうではないらしい。
反応に困った平間に、朝霧は自分から水臥小路詩織という姫君について話し始めた。
「詩織さまは、依織さまの双子の姉上でいらっしゃいます。しかしお二人は、お顔立ちもお人柄も、あまり似ていません」
「不思議ですね。双子というのは、普通の兄弟姉妹以上によく似ているものだと思っていましたが」
「そういう双子(※)もいるのです」
「なるほど……で、その詩織さまもこのお屋敷にいらっしゃるんですね?」
「ええ、それと、これはあまり口外しないでいただきたいのですが……」
(※:二卵性双生児のこと。顔や性格はもちろんだが、性別まで違うこともある。)
そう前置きして、朝霧は声を潜める。
「ここだけの話、奥方さまは詩織さまを疑っているようなのです」
「どういうことですか? 実の娘でしょう?」
「ええ。ですが奥方さまと詩織さまの仲は良好とはいいがたいです。お二人とも神経質なところがありますし、そりが合わないのでしょう」
「なるほど……。ですが、仲が悪いからと言って姉君を犯人だと思うのは、別の話ではないですか?」
「そうですね。でも、人との関係は理屈ではないのですよ」
朝霧は微笑み、諭すように平間に言う。
イマイチ釈然としない平間は、食い下がるように次の質問をぶつける。
「ですが、依織さまの食事に毒を盛る侍女がいた、という証言もあります。証言者が他でもない奥方さまとなると、やはり詩織さんが犯人である可能性は低いのではありませんか?」
「なかなか鋭い従者さんですね。ですが、事件の起きたその時、屋敷の侍女は全員、何をしていたのか分かっているのです」
「つまり、侍女の誰かが犯人だということは無いわけですね」
あるいは、複数の侍女が共犯で口裏を合わせているか。
平間はその可能性も考慮したが、さすがに口にするのは憚られた。
朝霧は言う。
「そうなのです。侍女が犯人でないとすると、消去法では詩織さましか有り得ないのです」
「外部犯の可能性は?」
「正直、考えにくいですね。このお屋敷は大きさの割に侍女が多くいますし、全員が顔見知りですから、怪しい人間がいたらすぐに分かります」
「……なるほど」
うなずきつつ、平間は密かに首を傾げた。
どうも朝霧は、詩織を犯人扱いしたがっているように見える。
それが単に彼女が噂好きな性格であるせいなのか、それとも自分に疑いの目を向けられたくないと思っているせいなのか、平間には分からない。
いずれにせよ、水臥小路詩織という人物についても追加で調べておく必要があるだろう。
「分かりました、ありがとうございます。また何かあれば、お話を聞かせてください」
そろそろ戻る時間だ、と気付いた平間は、朝霧との会話を切り上げようとする。
朝霧も言いたいことは言い終えたのだろう、にこやかに応じた。
「喜んで。お役に立てたならいいのですが」
「それはもう。では、失礼します」
平間は礼をして、使用人舎を後にする。
壱子に合流しようと周囲をうかがいながら母屋に戻ると、聞き覚えのある声が耳に入る。
「おーい、京作さまー!」
振り返れば、案の定そこにいたのは紬である。
その手には分厚い紐綴じの紙束があった。
紬はその紙束を平間に押し付けると、「せいせいした」とばかりに肩を回す。
ずしりと肩にかかる荷重にうんざりしながら、平間は紬に尋ねる。
「これは?」
「壱子さまから頼まれていたものです。厨房付きの侍女の方に頼んで、引っ張り出してもらいました」
なぜか得意そうに紬は言うと、不敵な笑みを浮かべる。
「京作さま、この事件は……壱子さまはああ言っていましたけど、長引きそうですよ?」
そう言う紬の口調は、いつになく楽しげだった。
するとその言葉を裏付けるかのように、遠くから悲鳴が聞こえる。
「誰か、誰か来てください!!」
悲鳴が聞こえたのは、先ほどまで平間たちのいた依織の居室だ。
「依織さまが、倒れられました!!!」
平間と紬はお互いの顔を見合わせると、同時に声のした方へ駆け出した。
――