最終話「黑の絶花と恋心」
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伊織が壱子を尋ねたのと同じ頃。
皇都のはるか南、|御陵山脈$ごりょうさんみゃく。古代の王たちが、ここにこぞって陵墓を造らせたことからこの名がついた。それらの墓の多くは既に盗掘されており、稀に史学者が訪れるのみである。$の山道。
孤独は、人を哲学に走らせるという。
砕けた表現では「一人でいると、自分を見つめ直すことが多くなる」と言うようになるだろうか。
いずれにせよ、いま最も大切なことは、水臥小路詩織という少女ほど自身を自ら研究していた人間は、非常に珍しいということだ。
彼女が味わった孤独は、ただ「人と関わらずに生きてきた」というだけではない。
詩織はそれに加えて、「自分と似た他人が可愛がられる傍らで、孤独を噛み締めていた」のである。
これまでに、詩織が思索した物事は数知れない。
が、彼女にとって今一番興味深い問題は「何かを殺すことは、なぜ自分を穏やかにさせるのか」ということだった。
幼少期から、詩織は命を奪うことで安らぎを覚えることが出来た。
以前はそれがごく自然な生理現象だと思っていたのだが、他の人間を観察すると、どうもそうでもないらしい。
そして詩織は、今この時も、その謎について考えを巡らせていた。
場所は、皇都の南の山道である。
切り立った崖に沿って走るこの道を進めば、水臥小路家の支配する領地がある。
従者は連れていない。
なぜなら、そんなものは邪魔にしかならないからだ。
詩織の身にまとう高価な着物は、枝や砂利で擦り切れて、見るも無残な姿になっていた。
今は昼だが、もし夜に詩織と遭遇したのなら、きっと幽霊か何かだと思い込んでも不思議ではないだろう。
そんな身なりだったが、詩織は気にせずに山道を進んでいた。
この道を進めば、きっと”あの人”に会えるはず。
それだけを信じて、詩織はただひたすらに足を前に進めた。
「やはり、私の考えは間違っていなかった」
小さく声を上げて、詩織は小走りで見慣れた背中を追いかける。
見間違いではない。
探していたあの人だ。
すでに足は棒のようだったが、詩織は全く気にしない。
「探しました、貴方様……!」
詩織の声に振り向いたのは、彼女の父・水臥小路惟人である。
水臥小路は、娘の姿を見て目を丸くした。
まさか、こんな場所で出くわすとは思っていなかったのだろう。
壱子によって破滅に追い込まれたあの日、水臥小路は自ら屋敷に火を放った。
火は衛士たちによって消し止められたが、その隙に、水臥小路は逃げ出していたのである。
しかし、屋敷は包囲されていたはずだ。
では、何処から水臥小路は逃げたのか?
その答えは、「抜け穴」である。
双子姫の屋敷だけでなく、水臥小路惟人の屋敷にも、抜け穴は設置されていた。
その抜け穴は双子姫の屋敷のそれよりもずっと長く、皇都の南のはずれに続いていた。
水臥小路は、逃げる際に仕掛けを作動させて、抜け穴を崩落させてもいた。
仮に衛士たちが抜け穴の入り口を発見しても、追ってくるには長い長い時間が必要になるはずだ。
こうして、水臥小路は命からがら逃げ出してきたのである。
ときの帝の命を狙ったのだ。
どう釈明しようが、赦される望みは露ほども無い。
いま出来ることと言えば、己の領地に身を潜め、再起を図ることだけ。
その道中でまさか詩織と遭遇するとは、水臥小路は夢にも思っていなかった。
「なぜ、お前がここにいる?」
「決まっているではないですか。貴方様を追ってきたのです。きっと貴方様には、私が必要でしょう?」
そう言って、詩織は微笑みかける。
しかし、水臥小路の反応は芳しくない。
「どうして、佐田の姫が我の屋敷にいた?」
「……え?」
「なぜ捕らえて、殺さなかったのだ? そうしていれば、我が逃げる羽目になることも無かった。|違うか?$違う。$」
「それは、その」
「お前が蘭宮から、帝の情報を引き出せていればどうなっていた?」
「そんな! 私は皇子様とお会いしたことも無いのに──」
「言い訳をするな!!」
水臥小路の怒声に、詩織は身を震わせる。
詩織は自分の父親を崇拝していた。
これまで一人とて、詩織を必要としてくれなかった人はいなかった。
そんな自分を、どんな形であっても求めてくれる父親は、詩織にとってかけがえのない存在だった。
その父を”偉大なもの”として盲信することにより、詩織は自己の尊厳を間接的に保つことができたのだ。
しかし今となっては、その崇拝ももろくなっていた。
自分のことを棚に上げて詩織を罵るこの男は、よく見れば何と醜いことだろう。
澄んだ水に落ちた墨の滴のように、詩織の心の中は濁っていった。
「まったく、なぜ我の周りには無能な人間しかおらぬのだ」
「……馬鹿と鋏は使いよう、と申します」
「何?」
「どんなに劣った人間でも、上手く使うことが出来ます。それが出来ないのは、貴方様の手腕が至らないためではないですか」
「貴様……女のくせに生意気な口を!」
「近寄らないで!!」
胸ぐらを掴もうとする水臥小路から、詩織はとっさに距離を取る。
そして、反射的に短刀を抜いた。
「詩織、貴様、何のつもりだ。父親に向かって、何のつもりだ!?」
「……父親、ですか」
虚ろな目で、詩織はゆっくりと水臥小路に歩み寄る。
水臥小路の後ろには、深い谷が口を開けていた。
「やめろ。来るな!」
「こんな時だけは、私を拒むのですね」
「わけの分からないことを、おい、近付くなと言っているだろう!?」
それでもなお、詩織はにじり寄るのを止めない。
そしてついに、水臥小路の踵が崖のへりに至る。
「すまなかった、我が、我が悪かった! だから頼む、殺さないでくれ!」
「……何が、悪かったというのです?」
「お前が悪いかのように言ってしまった。撤回しよう」
「そんなこと、どうでも良いことですわ」
首を振り、詩織は一歩前へ進む。
「ならば、何が悪かったと言うのだ!? お前を抱いたことか?」
「いいえ、違います」
さらに、一歩前へ。
「ああ、分かった。蘭宮が気に入らなかったのだな? 分かった、別の相手を探そう! これで良いだろう?」
一歩……の代わりに、小さく溜息を一つ。
詩織の刃は、すでに水臥小路の胸元まで迫っていた。
「分かりました」
「許して、くれるのか? そうなんだな?」
「いえ、分かったのは、『貴方様が私を何も分かっていないこと』です」
「……頼む、許してくれ」
しかし、詩織の答えは無情だった。
何も言わず、短刀で水臥小路の胸を小突いたのだ。
「ひっ、う、うわぁぁああああ!!」
刃は、恐らく水臥小路の皮膚に至ることすら無かっただろう。
しかし水臥小路は、悲鳴を上げ、怯懦ゆえに自ら中空に足を滑らせたのである。
そしてそのまま、樹木の生い茂る谷底へ、転がり落ちていった。
「無用な問答は嫌いなのですよ、私も。……お父様」
退屈そうに詩織が言う頃には、もう悲鳴も聞こえなくなっていた。
この高さからでは、きっと命はないだろう。
詩織は多少、胸のすく思いがしたが、それよりもずっと強く、後悔していた。
その理由は、実の父親を死に追いやってしまったためではない。
「……なんてことを」
突如として背後から聞こえてきた声に、詩織は振り向く。
そこには、意外な人物の姿があった。
「お母様、なぜここに?」
「あとを尾けてきたのです。その、どうしても気になって……」
気まずそうに言う母親だったが、詩織の言葉は棘々しい。
「いまさら気にかけてくださるとは、とてもお優しいのですね。それで、どうしますか? お父様を死に追いやった私を、弾劾しますか?」
「そんなことはしません」
首を横に振る母親は、ひどく辛そうだった。
「私は、今までずっとあなたから逃げてきました。血を好むあなたを疎ましく思い、また恐れていたからです。ですが、それは間違っていました」
「だったら、どうするのです? 妹にすがり、酒に溺れたあなたに出来ることなど、無いと思いますが」
「返す言葉も無いですね。ですが……これまでの事を、詫びさせてください。もちろん、許してくれるとは思いません」
母親は、詩織にむけて歩み始める。
詩織は思わず短刀を構えるが、母親は動じる様子はない。
「来ないで……!」
威嚇する詩織に、母親はやつれた顔ながらもやさしく微笑みかける。
短刀の刃が母親に触れ、それを持つ詩織の手がかすかに震えた。
思わず、詩織は短刀を引く。
「もっと早く、こうしていれば良かった。」
そう言って、母親は詩織を抱きしめた。
今まで一度として味わったことのなかった母親の感触に、詩織は大きく目を見開く。
肌に触れる着物は、秋の空気に晒されて、ひんやりと冷たい。
しかしその奥には母の確かなぬくもりがある。
そして、母の身体は思ったよりもずっと細く、小さかった。
幼少期の詩織が持っていた母親の姿が、今この瞬間まで更新されていなかったのだ。
乾いた音を立て、短刀が詩織の手から落ちる。
「何、これ、こんな……私は」
「ごめんなさい、母はあなたの気持ちを見ないふりをしていました。こんな不出来な母を許してください」
白髪の混じった”つむじ”を見下ろしながら、詩織はかつて無い混乱の渦中にあった。
これが、母親のぬくもりか。
これが母の匂いで、母の柔らかさか。
今まで、どれほど渇望してきたことだろう。
得られないことを、どれだけ恨んだことだろう。
しかし今となっては、そんなことはどうでも良かった。
愛に乾いていた詩織は、その乾きゆえに、急速に満たされていった。
歓喜と戸惑いによって、腕が小刻みに震える。
その腕を、詩織はそっと母親の背中に回した。
頬には、一筋の涙が伝っていた。
これが、これこそが、十七年の人生において詩織が求めてきたものだ。
その刹那。
詩織は一瞬にして理解した。
なぜ、自分は父を崖下に追いやった時、後悔したのか。
そして──なぜ、何かの命を奪うことによって心が満たされたのか。
答えは、独占だ。
誰にも求められなかった詩織は、誰かを独占したことが無かった。
母親の目は、伊織に向いていた。
父親の身体も、数多くいる愛妾どもの体液で汚れていた。
もっとも心を支配できた射月でさえ、詩織の奥にいる何かの幻影に囚われていた。
侍女たちや佐田の姫、松月や|間者の娘$紬のこと。$などは、考慮するまでもない。
だが、何かに死を与える瞬間だけは、例外だった。
流れ出る赤や、徐々に弛緩する身体、そして温もりに降りてくる冷たさは、確かに詩織のものだった。
この命は、自分に殺されるために生まれてきたのだ。
無意識ながらも、その実感は孤独に乾く詩織の心に、一滴の潤いを与えてくれた。
ともに多くの時を過ごした射月を手に掛けた時、詩織は大いに満たされた。
多少の寂しさや恐れはあったが、その何倍もの充足感が詩織に押し寄せてきた。
もちろん、その大きさは小動物を殺した時の比ではない。
ならば、父親を殺せばどうだろう。
詩織の心は、満たされるだろうか。
死ぬほどの歓喜で、溺れることが出来るだろうか。
想像しただけで、詩織は身震いするほどの興奮を覚える。
しかし今となっては、その好奇心を満たすことは出来ない。
父親は、勝手に死んでしまった。
もっと丁寧に、この手で死を運んであげるべきだった。
そうすれば、この乾きは癒やされたかも知れないのに。
詩織は、自分の軽率な行動をひどく後悔した。
だが、この痩せた母は何と優しいのだろう。
父親を死に追いやった詩織を非難しないばかりか、母親の愛情をくれている。
これまで何度恨んだことか知れないが、今はもう、許してしまっても良い。
しかし何より嬉しいのは父親への後悔を霧散させる機会をくれたことだ。
「お母さま、詩織は、本当に嬉しゅうございます」
詩織は、涙ながらに言う。
そして自らを抱擁する母の腕に、そっと手を添えた。
「ですがもう少しだけ、お母さまの優しさにすがっても良いでしょうか」
詩織の言葉に、母親は何度もうなずく。
胸の中に、暖かいものがこみ上げてくる。
万感の思いに打ち震えながら、詩織は優しく、母親の身体を自分から引き離した。
「詩織は、お母さまの娘に生まれて、本当に幸せでした」
これまでで感じたことの無い幸福感の中で、詩織は母親の首に手をかけた。
そしてそのまま、手近な樹の幹に母親の身体を押し付ける。
頸の血流が遮断され、母親は苦悶と困惑の表情を浮かべた。
「なに、を」
母親は必死で抵抗しようとするが、病に冒された細腕では、詩織を止めることは出来ない。
懇願するようなその眼は、ただ、詩織のことだけを見つめていた。
それが嬉しくて、詩織はさらに腕に力を込める。
やはり、こうでなくては。
父も、母のようにこの手で殺してあげるべきだった。
そうすればきっと、父も自分のことだけを見てくれただろう。
しかし、詩織は満足だった。
全てを望むのは、あまりに傲慢というものだろう。
今はただ、母の命が消えゆくさまを、しっかりと心に刻みたい。
──
夕暮れ。
どれほどの時間が経ったことだろう。
地面には、とうに息絶えた母親の身体が横たえられていた。
そして、その母親に添い寝するように、詩織はじっと眼を閉じていた。
母親の体温は、ゆっくりと冷たい地面へと逃げていく。
詩織にはそれが寂しかったが、同時に、自分が母親に最期をもたらした人間だということを実感することも出来た。
これこそが、母親の愛というものなのだろう。
詩織の腕には、母親が抵抗する時に付けた蚯蚓腫れがある
血が滲み、じんじんと痛むが、詩織にとってはその傷でさえ愛おしかった。
いつまでも消えて失くならないで欲しい。
本気で、詩織はそう思った。
満足して、詩織は立ち上がる。
母と別れるのは名残惜しいが、かすかに空腹感がある。
ここに食べるものはないから、どこかに行かないといけない。
あてもなく、詩織は山道を進み始める。
すると。
「んにゃあ」
媚びるような鳴き声が、詩織の耳に入った。
反射的に振り向くと、そこには見覚えのある仔猫の姿があった。
「何だ、お前」
冷たく言って、詩織は気にせず歩を進める。
しかし、仔猫はいくら進んでも、詩織のあとを付いて来た。
猫など、詩織にとっては気まぐれに殺すだけの存在だった。
しかし、今の詩織は満たされている。
それに自分を見つめる猫の眼差しが、詩織には妙にくすぐったかった。
詩織は進む。
仔猫も進む。
今まで感じたことの無い、不思議な心地がした。
詩織は戸惑うが、悪い気はしない。
やがて日が暮れ、集落の灯りが眼下に見えた。
その大きくも黒くもない仔猫は、やはり詩織のそばにいた。
それどころか、詩織の足元に寝転がり、腹まで見せてくる。
詩織は自分でも馬鹿らしいと思いながらも、仔猫に話しかけていた。
「運がいいな、お前は」
「んなぁお」
無邪気に鳴き声を上げる仔猫を、詩織はぎこちなく抱き上げた。
「ちゃんと媚びろよ。多く食事を分けてもらえるかも知れない」
そっけない詩織の言葉に、仔猫はただ、嬉しそうに喉を鳴らした。
馬鹿な生き物だな、と呆れながら、詩織は灯りのともる家の戸を叩いた。
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皇都は、冬の始まりに差し掛かっていた。
平間は晴れて近衛府に戻ることが決まった。
相も変わらず田々等の下に配属されたため、田々等の仕事量は減った。
かと思いきや、あの一件で田々等は見事に昇進を果たしたため、以前よりも忙しくなってしまったらしい。
そして平間も、野盗討伐の功績が再評価された。
以前は八十名ほどを率いる将曹という地位だったが、一つ昇進して将監となった。
指揮する兵士は、四百名あまりである。
平民出身者としては異例の速さの出世であったが、後ろ指をさす人間はあまりいなかった。
水臥小路惟人が左大臣を追われたことによる混乱と、佐田氏の後見がその理由として考えられたが、何より、平間の素行がすこぶる真面目だったのが大きい。
伊織と松月は、予定通り縁者のもとへたどり着いたらしい。
壱子のもとには無事を知らせる手紙が届いたが、壱子は「幸せですよという雰囲気がにじみ出過ぎていて、いらいらする」と愚痴をこぼしていた。
とはいえ、すぐに返事を書き始めていたから、きっと壱子も友人の門出を喜んでいるのだろう。
水臥小路惟人、詩織、そしてその母親の行方は、一向につかめていない。
噂では南に向かい、港から異国に旅だったとされるが、あくまで噂は噂で、確証は無い。
こればかりは紬の情報収集能力も役に立たなかった。
──
さて、この日、平間は壱子の屋敷を訪ねていた。
何でも、重大な報せがあるのだという。
「平間、驚かないで聞いてくれ」
あまりに壱子が真剣な表情で言うので、平間もつられて緊張してしまう。
壱子は続ける。
「良い報せと、悪い報せがある。どちらから聞きたい?」
「……じゃあ、良い報せで」
「分かった。心して聞いてくれ。実は今日、脛折殿から文が来た」
その言葉に、平間の緊張はさらに高まる。
脛折の持ってくる朗報など、ろくなことがなさそうだ。
ごくり、と平間がつばを呑む。
「聞いて驚くでないぞ、平間。なんと、脛折殿が……」
「うん」
「妻を娶ったらしい」
「……は?」
思いもよらぬ壱子の言葉に、平間は思わず間抜けな声を上げた。
しかしすぐにハッとして、壱子に尋ねる。
「誰と結婚したんだ!?」
「まだ正式な話ではないそうじゃが、私たちの知る人物じゃ」
「……まるで見当がつかないんだけど」
「覚えておらぬか。以前、野盗にさらわれて、無理やり花嫁にされそうになっていた娘のことを」
「ああ、確か忌部省で働いているって……まさか」
「そのまさかじゃ。ともに暮らす内に、情愛が芽生えたらしい。いやはや、人の縁とは不思議なものじゃな。どこで馬が合うか分からぬ」
「同感だ」
平間は頷きながら、今度時間ができたら祝いの品でも持っていこうと考えた。
「……それで、悪い報せって?」
良い報せが本当に朗報だったのだ。
どうしても、平間は身構えてしまう。
すると、壱子はこの世の終わりのような口ぶりで言った。
「その話を、するか。良かろう」
そう前置きして、壱子は重苦しく言う。
「実は先日、私は父上の見舞いに行ったのじゃ。そこで、父上は私にとんでもないことを言ったのじゃ」
「なんて……言ったんだ?」
「心して聞くのじゃぞ」
「う、うん」
「あまりのことに、失神するでないぞ」
「そんな、一体何が……」
表情を険しくする平間に、壱子はたっぷりと溜めを作ってから、言った。
「まだ、お主を佐田の婿にすることは出来ないらしい」
「……あ?」
「ひどすぎて言葉も出ないじゃろう!? 私も平間も、この前の事件ではあれほどの活躍を見せたというのに!」
「んー、壱子?」
「わかっておる、皆まで言うでない。私も父上の横暴には、ほとほと愛想が尽きた。というわけで、私に策がある」
つらそうに眉間にしわを寄せながら、壱子は平間の隣に腰を下ろす。
そして、ぴとりと肩を寄せて腕を組んだ。
「平間が婿になれぬのなら、私がお主の嫁となろう。私たちの愛の前には、何人たりとも邪魔をすることは出来ぬ」
「壱子? おーい」
「無論、お主が近衛府で出世を果たすことを疑っているわけではない。しかし、離れ離れで暮らすのは、お主も寂しかろう?」
「もしもし、聞いてる?」
「となれば、夜逃げをしよう。そして小さな家でも良い、二人で慎ましく暮らそう。名案じゃろう? 私も、私の才能が恐ろしい!」
「名案じゃないし、恐ろしくもないでしょ」
「うるさい、ごちゃごちゃ言うな! 伊織ばかり好き勝手して、ズルいではないか! うら若き乙女が、五年も待っていられるか!?」
「そっちが本音じゃないか! しょうもなさ過ぎるだろ!」
へばりつく壱子をひっぺがし、平間はさっさと帰る準備をする。
「もう帰ってしまうのか? まだ来たばかりではないか」
「僕だって、色々とすることがあるんだよ」
「うう、冷たい……未来の妻と愛を深めることも必要じゃろうに」
そう言って、壱子は目元に袖をやる。
そしてさめざめと泣く……フリをする。
「ちらり」
「泣き真似が下手過ぎる。じゃあ、帰るね」
「あああ、待て平間! 待って!」
自らに背を向けた平間に、壱子は追いすがるように言う。
それがあまりに必死そうだったので、平間は足を止めて振り返る。
「まだ何か用でも──」
言いかけた平間の頬に、柔らかいものが触れた。
すぐそばには、精一杯背伸びをした壱子の姿がある。
その”柔らかいもの”の正体が壱子の唇だと気付くのに、そう長い時間は必要なかった。
「な、何を……!?」
慌てて飛びすさった平間に、壱子は不敵に笑う。
「くくく、驚いたじゃろう? 私とて、日々成長しておるのじゃ。だからこんなことも出来て、できて──」
そこまで言って、壱子はゆっくりと倒れこんだ。
「おい、壱子!?」
寸でのところで平間が抱きとめると、壱子は顔を茹でダコのように真っ赤にしながら、目を回していた。
恥ずかしさが限界を超えて、失神してしまったらしい。
何か起きたのかと慌てた平間だったが、大事ないと見てホッと胸をなでおろした。
「大した成長だよ、まったく」
平間は苦笑して、壱子を適当な場所に横たえさせる。
「ま、もう少しだけゆっくりして行こうか」
誰に言うわけでもなく呟いて、平間は壱子のそばに腰を下ろし、のんびりと庭を眺めはじめた。
これから冬が来る。
しかし平間のするべきことは変わらない。
この少女に比肩できる人間になることを、平間は改めて心に誓うのだった。
完
──
あとがき。
これにて、第二章は終了です。
ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございました。
費やしていただいた時間に報いることの出来る内容になっていることを、今は切に願うばかりです。
とりあえず、みんな幸せになった……のでしょうか。
異論は……まあ。
ここで、出せなかった設定たちを紹介させてください。
実力不足を晒すようなものなので恥ずかしいのですが、少しでも楽しんでいただけると嬉しいです。
・松月の名前の由来
詩織の意図としては、松の影に汚された月のこと。
一般的には、松と月が同居した美しい景色のこと。
・もう一人の兄弟
縫春と水臥小路によって殺された嫡男の他に、伊織たちにはもう一人の兄がいた。
知的障害のあった彼は座敷牢に閉じ込められていたが、母親は彼の世話を怠らなかった。
しかしそんな彼も、水臥小路の手回しもあり、やがて死亡した。
それでも彼を愛していた母親は、こういった経緯もあり、伊織に執着するようになる。
母親が座敷童の話を持ちだすようになったのは、もしかしたら彼の影響かも知れない。
・名も無き死者たち
北部の貧民街で死亡していた衛士は、近衛府でも問題の多かった衛士たちだった。
あらかじめ田々等が選抜し、適当に処分した上で死体を転がしてあった。
また、同じく貧民街で死亡していた女も、もともと処刑する予定だった罪人である。
とはいえ、どちらも普通に違法なので、総指揮を執った田々等は(いまのところ曖昧にはなっているが)罰せられる可能性がある。
・縫春はどうなったのか
ばっさり切られてはいましたが、傷が浅く、命に別状は無かった。
また彼女は紬を騙しただけで、特に罪に問われるようなこともしていなかった。
彼女がその後どうなったのか、現時点では不明。
・外出の禁
脛折は「忌部省の外に出ることが出来ない」と語っており、それは真実である。
ではなぜ、壱子と水臥小路との決戦の時にあの場に居たのかというと、その日の夜が新月であったからだ。
新月の夜は、光が照らすことはなく、よって罪も照らされない。
ほとんど屁理屈だが、この理屈で脛折は新月の夜だけ外出を許されていた。
とは言え、脛折は忌部省を気に入っているので、それでも外出することはほとんど無かった。
他に何か気になることがあれば、ご指摘いただければと思います。
それでは、改めてお付き合い下さりありがとうございました。
読んでくださった方、感想をくださった方、悩んでいる時にアドバイスをくれた方など、多くの人に感謝しております。
またどこかでお会いできれば嬉しいです。
かさねがさね、ありがとうございました!
感想、評価等も良ければ……!
それでは!
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