第6話「憎まれ口と蓮の花」
【九月二十四日(翌日)、昼前】
羊門大通りは、皇都で最も大きい通りである。
皇都の中心を南北に貫くこの通りは、道幅だけで六十間ある。
そこに大小無数の店が軒を連ね、商人、武官、下人など、様々な身分の人々が行き交っていた。
その道の中央を、一台の牛車が悠々と進んでいる。
車を引く黒牛の数は四頭、そして牛車の側面に描かれた家紋は“向かい筆に芥子の花(※)”。
すなわち、学問と薬術を生業とする佐田家の紋である。
(※:半円を描く二本の筆が、向かい合わせに配置されて円を作り、その中にケシの花が描かれています。ケシの花は、医学・薬学・毒学の象徴です。)
「左大臣・水臥小路惟人には、正室の他に十二人の側室がおる」
牛車の御簾の奥から、歌うような少女の声が響く。
声の持ち主は、佐田壱子だ。
その傍らを従者として歩いている平間は、その言葉に眉をひそめて答えた。
「十二人は……、多いな」
「そうじゃな。その他にも、屋敷に仕える侍女の半分にも手を出しているらしい」
「……本当?」
「あくまで噂じゃ。しかし、この手の貴族の噂は、ほとんど真実と変わりない」
「良い歳だろうに、元気だな。一人いれば十分だろう」
「ふふ、同感じゃな」
御簾の中から笑みを漏らす壱子は、なぜだか上機嫌になったらしい。
この季節にしては妙に蒸し暑い風が砂埃を舞い上げ、一向に吹き付けた。
その生温かさに、平間は思わず顔をしかめる。
――なぜ、平間が壱子と共に皇国最高位の貴族の屋敷へ向かうことになったのか。
それは前日、壱子のもとへ田々等がやってきた直後までさかのぼる。
――
――――
――
「事件を解決すれば、僕を近衛府に戻す……?」
「そうじゃ! 褒めても良いぞ!」
得意げに腕を組んでみせる壱子だったが、対する平間は困惑顔だ。
「壱子、褒めてあげたいのは山々なんだけど、一つ確認していいかな」
「なんじゃ?」
「つまり壱子は、近衛府に捜査協力を申し出たってこと?」
「そういうことになるな」
「だったら、そんなの無茶だ。壱子は近衛府を甘く見過ぎている」
平間の言葉に、壱子は形の良い眉間にしわを作った。
「ふむ、一応たずねるが……どういう意味じゃ?」
「そのままの意味だ。皇都で起きた事件は、全て近衛府が捜査しているんだ。人員だって経験だって一流だし、壱子の出る幕は無い」
そう断言できるのは、平間が実際に近衛府に身を置いていたからだ。
しかしここで、平間は後悔した。
その中に偽りや誇張は無いが、こんな言い方をしてしまっては、壱子が気を悪くするに違いない。
平間は恐る恐る視線を下げ、壱子の表情をうかがう。
が、平間の予想は外れた。
それどころか壱子は、ひどく満足げな笑みを浮かべている。
「甘いのう、平間。羊羹より甘いぞ」
「そこまで言うか?」
「たわけ、と言わねばならぬやも知れぬ」
「なら一応聞くけど、どういう意味だ」
「『なぜ近衛府がこの屋敷に来たのか?』 その理由を考えよ、という意味じゃ」
自分と同じ質問を繰り返した平間に、壱子はふふん、と鼻を鳴らす。
その仕草は可愛らしくも小憎たらしい。
平間は少々苛立ちながら言う。
「その理由だったら、さっき壱子自身が言っていただろ。毒殺事件に壱子が関わっていないか、確認しに来たんだ」
「しかし、すぐに帰った」
「なんだって?」
「取り調べの為に貴族の屋敷に来るからには、相応の覚悟が無くてはならぬ。お主は見知らぬ貴族の屋敷に気軽に足を踏み入れられるか?」
「……無理だな」
「そうじゃろう。しかし近衛府殿はすぐに帰ったのじゃ。つまり“そもそも私が関与しているとは思っていなかった”ということになる」
そこまで言って、壱子は試すような視線と共に言葉を切った。
平間はムキになって、壱子の意図を精一杯探ろうと考え込み始めた。
――
そもそも、平間京作という少年は馬鹿ではないが、かと言って頭が切れる方でもない。
しかし佐田壱子という少女について言えば、彼女はすこぶる切れる人物であると言わざるを得ないだろう。
壱子がその才覚を初めて表に出したのは、いまから九年ほど前、彼女の母が絵物語を読んで聞かせた時である。
「貧しい生まれの娘がひょんなことから四人の貴公子に求愛される」というその物語を、壱子はいたく気に入った。
彼女の異常性が発揮されたのは、その次の日のことだ。
朝日の眩さに目を覚ました母親は、幼い壱子が筆を執っていることに気付いた。
――どうせ、また大好きな猫の絵でも描いているのだろう。
そう考えた母親は、寝間着が墨で汚れてしまうと壱子を注意しに近付いていった。
見れば、壱子が書いていたものは子供らしい拙い絵と、そこに添えられた幾行にもわたる文字列だった。
――教えられたての仮名文字は異様に良く吸収する子だったから、練習でもしていたのかしら。
幼い娘の勉強熱心さに苦笑した母親は、しかし、間もなく自分の考えが誤りだったことに気付いた。
壱子が書いていたのは、彼女が昨晩初めて聞いた、あの絵物語だった。
その筆致はたどたどしいが、文の内容は一言一句違わず、全く同じ。
驚いた母親が壱子に問いただすと、彼女は無邪気に笑って言った。
「あのような面白きお話、忘れるはずがありませぬ!」
――
彼女の恐ろしいところは、単に物覚えが凄まじく良いというだけでなく、頭の回転も速いということだ。
彼女の「天才的」という言葉以外では形容しがたい逸話は、枚挙にいとまがない。
例えば以前、佐田家の機密が外部に漏れた時は、ハッタリで墓穴を掘らせて内通者を一晩で炙り出した。
ある遊女が店主のむごい仕打ちに耐えかねて足抜けを試みた時は、同情した壱子が遊女の自殺を偽装し、無事に逃がしてやったこともある。
壱子の数少ない欠点といえば、屋敷に引きこもっているせいで世間知らず(※)なことと、運動能力が壊滅的に低いことくらいだ。
(※:壱子は少し前まで、あんこ餅を樹になる果物の類だと思っていました。)
「近衛府はな、困っておるのじゃ」
考え込む平間をよそに、壱子はニヤリと笑って言う。
「殺されたのは貴族の娘。ゆえに何としても解決せねばならぬ。しかし何の手がかりも無いとなれば……平間、お主ならどうする?」
「手あたり次第、しらみつぶしに調べると思う」
「素晴らしい。ゆえに近衛府も、藁にもすがる思いで私を訪ねてきたのじゃ。そして元々期待していないから、あっさりと帰ってしまった」
「……つまり、それだけ困っている近衛府なら、壱子の助力も甘んじて受け入れると?」
「実際、受け入れた。そして交換条件で、平間を近衛府に戻すと約束してもらったというわけじゃ」
壱子は言い終えて、微笑んだまま平間に顔を近づける。
ほのかに香る甘い匂いに平間は妙に照れくさくなり、思わず身をのけぞらせた。
その反応を見た壱子は満足げに鼻を鳴らす。
「というわけで、毒殺事件を解決するぞ。お主も手伝え。紬、お主もな」
「かしこまりました。情報収集ならお任せを!」
「妙なことはするでないぞ……それと、私のことも他言無用じゃ」
「あら、何のことです?」
白々しくとぼけて見せる紬に、壱子は苦々しい視線を向ける。
しかし紬はどこ吹く風で口を開く。
「それにしても、壱子さまはずいぶんと京作さま想いなんですね」
「あ、当たり前じゃろう! せっかく父上が近衛府に口利きしたのじゃ。簡単にクビになってもらっては困る!」
「あらそうですか。ま、そういう事にしておきましょう」
「……っ!! と、とにかく、明日から毒殺事件のあった屋敷に行く! 準備しておくのじゃぞ!」
壱子は怒ったように言うと、踵を返して自分の部屋に戻ってしまった。
ぽつん、と残された平間と紬は、互いに顔を見合わせる。
「怒らせてしまったんでしょうか……?」
「絶対に楽しんでいただろ」
「何のことです? アタシは壱子さまをからかって遊んでなんていませんけど」
「それのことだよ。ほどほどにしてくれ」
「でも可愛らしいじゃないですか。やめられません」
「自分が良いように出来る相手を『可愛い』って言うの、やめた方が良いと思うけど」
「あら、京作さまも可愛いと思っていますよ?」
全く悪びれる様子の無い紬に、平間は頭を抱えた。
かくて、平間は壱子と共に「毒殺事件」を調べることになったのである。