第39話「月の記憶と悪の華」
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「射月」と名付けられる前、少女は「月子」という名で、物心ついたときから皇都の北部にある貧民街で暮らしていた。
家族は四人。
父親と母親と月子、そしてまだ生まれたばかりの弟だ。
月子の父は大工で、働き者だった。
もとは皇族の端くれである。
皇国の伝統として、帝は常に多くの子を求められた。
ゆえに皇族から派生した氏族は数多かったものの、彼ら全員に十分な地盤が与えられることは無い。
ゆえに皇族の傍流は貧しく、それに加えて月子の曽祖父にあたる人物が散財したため、家は没落してしまったらしい。
その高貴な血筋を、月子の父はことあるごとに誇った。
父が娘に貴族の姫のような名前を付けたのも、彼の血筋に対する矜持ゆえだったのかも知れない。
とはいえ、「貴種」が彼の放言であった可能性は捨てきれない。
父はよく、口癖のようにこう言った。
「まっすぐに生きていれば、必ず幸せになれる。しかし悪いことをしたら、絶対に幸せにはなれない」
その父の言葉は道徳的で、同時に脅迫的でもあった。
しかしいずれにせよ、月子は「幸せになれる」よう、貧乏に擦れることなくつとめて品行方正に生きてきたし、父の仕事ぶりも非常に真面目だった。
暮らしぶりは一向に良くならなかったが、それでも月子は健気に、家の手伝いと弟の世話をしていた。
月子の知る母は、いつも床に臥せっていた。
幼い月子には事情が分からなかったが、父はよく「産後の肥立ちが悪い」とこぼしていた。
日に日に痩せていく母を、月子は甲斐甲斐しく世話していた。
そんな母の病状が悪化したある日、父は医者を自称する胡散臭い男を連れてきた。
男は月子の母を見て、「水子が悪さをしている」と言うと、父はひどく驚いた顔をした。
というのも、実際、母は月子を産む前に一度の死産を経験していたのである。
男を完全に信用した父は、乾いた丸薬六粒と引き換えに、一月分の稼ぎを差し出した。
それから間もなく、母親は死んだ。
死という概念をおぼろげながら理解していた月子は、当然、こう思った。
「なにか悪いことをしたから、お母さんは死んでしまったのだろうか」と。
それを父に尋ねると、父はひどく歪んだ顔をした。
母の死から、次第に父は荒れ始めた。
稼ぎのほとんどを安酒に費やし、月子を怒鳴りつけることも増えた。
そして必ずと言っていいほど、「俺は帝の血縁なんだ」と”くだ”を巻く。
父はやがて仕事もしなくなり、眠っていない時間は酔って暴れているような始末。
まもなく、月子は貴族の屋敷から捨てられた残飯で食いつなぐことを覚えた。
わずかな蓄えは酒代に消えて底をつき、次に大工道具を質に入れて金を借りたが、それも時間稼ぎにしかならなかった。
しかし幼い月子には、救いもあった。
それはごくごく稀ではあったが、酒が入っていない時であれば、父は優しい父だったということである。
優しい父は月子に日頃の自分の振る舞いを詫び、時には涙を流した。
そして素面の父はいつも、月子の手を引いて、皇都を散策するのだった。
道順はまちまちだったが、決まって月子に菓子などを買い与えてくれた。
そして、行き先はいつも同じ、風変わりな通りだった。
父親はしばらく通りの入り口で立ち止まっては、夕暮れになると月子を家につれて帰った。
その通りが花街であったことを知ったのは、月子が射月と名を変えて、しばらく経ってからだった。
──貧しい月子の人生に転機が訪れたのは、彼女が十の時である。
いつものように、月子は貴族の屋敷の裏口で、侍女が持ってくる残飯を待ち構えていた。
彼女は貧しくも純真な少女として、屋敷の侍女たちに認知されており、そのため優先的に残飯を分けてもらうことが出来た。
侍女が出てくるのは、いつも決まって昼下がり。
しかしこの日は、それよりも早く裏口の戸が開いた。
出てきたのは、月子よりも年少の少女だった。
少女は、小さなうさぎを手にしていた。
赤黒く汚れた白い毛皮と、取れかけの首。
射月は驚いたが、彼女にとってウサギは食べられるものだったため、今日はこれが夕食になるのだと喜んだ。
顔をほころばせる射月の足元に、少女は無表情にウサギを放り投げ、そして……何も言わずに屋敷の中に戻っていった。
これが、双子姫の姉・水臥小路詩織と、月子こと射月との出会いである。
ウサギは、残飯よりも美味だった。
それから、月子はたびたび詩織から死んだ小動物を譲り受けることとなった。
小動物はウサギだったり猫だったり犬だったりしたが、どれも死んでいたし、どれも月子と父親の胃袋に入った。
また、はじめこそ二人は無言の関係だったが、次第に二言三言、言葉を交わすようになった。
その結果わかったことは、二つ。
すなわち、小動物は詩織の父親がくれること。
そして、前のが無くなったら新しいのをくれることだった。
それを聞いた射月は、詩織があまり動物の肉を好まないのだと思った。
そんなある日。
詩織は肉の代わりに、かんざしを月子に手渡した。
かんざしは金や真珠のあしらわれた豪華なもので、月子は一目でそれがお宝だと分かった。
月子は大喜びし、跳ねるようにして、かんざしを家に持ち帰った。
しかし月子の期待とは裏腹に、かんざしを見た父親は激怒した。
かんざしが貧しい少女では絶対に手に入れられない高価なものであることは、宝飾に詳しくない父親でも当然理解できた。
ゆえに、彼は娘が盗みを働いたのだと思い込んだのである。
いくら射月が事情を話しても、もちろん父は信じない。
そして、日頃から自らの血筋にすがって生きてきた父にとって、娘が盗みを犯すなどということは、到底許容できない恥ずべきことだった。
また、まっすぐに育ったはずの娘が嘘をつくことは、父親にとって裏切りに等しい行為であり、彼の誇りを深く傷つけたのである。
しかしだからと言って、月子も絶対に嘘をつくことは出来なかった。
月子にとって嘘は悪いことであり、悪いことをすれば幸せになれないと固く信じていたからだ。
「かんざしは友達に貰ったものだ」と頑なに主張する月子を、父親は叱責し、押さえつけ、ついには殴打した。
それでも月子は父の教えに従い、正直に”嘘”をつき続ける。
怒鳴り散らす父と泣きわめく姉に、何かを察したのだろうか。
独り立ちしたばかりの弟は、甲高い声で泣いた。
怒りと酒で我を忘れた父親は、ついに暴挙に出る。
父親はとっさにかんざしを手に取ると、涙で顔をぐちゃぐちゃにする娘の太腿に、それを突き刺したのである。
月子は絶叫した。
その悲鳴は当然、周囲の家々にも響いただろう。
しかし、駆けつけてくる隣人はいなかった。
貧民街では、強盗のたぐいは日常茶飯事だったから。
感じたことの無い凄まじい痛みの中で、月子は混乱した。
自分は今まで、ずっと正直に生きてきた。
幸せになることはあっても、こんな不幸な、痛い思いをしなければならない心当たりなど無かった。
まっすぐに生きてきたからこそ、侍女は残飯を多くくれるようになり、詩織は肉やかんざしをくれたはずだ。
おかしい。
間違っている。
痛い。
痛い。
痛い。
月子の叫び声に、焦ったのは父親である。
このままでは人が来る。
何とかして、大声で喚く娘を黙らせないといけない。
そしてとっさに、月子の首に手を掛けた。
唐突な呼吸苦に、月子は悶えた。
このままでは殺されるという確信と、自分は間違っていないのになぜ、という疑問が脳裏に渦巻いていく。
朦朧とする意識の中で、何かが右手に触れた。
月子にはもう何かを判断する力など残ってはいなかったが、それでも月子は細長い何かを掴み、思いっきり父親の頭に叩きつけた。
短い悲鳴と同時に、首の圧迫が消える。
月子は立ち上がった。
そして床に転がった父親の頭めがけて、右手に持った道具を、何度も、何度も振り下ろした。
そのとき月子の頭にあったのは、皮肉にも『まっすぐに生きていれば、必ず幸せになれる。しかし悪いことをしたら、絶対に幸せにはなれない』という父の教えだった。
何も悪いことをしていない自分が殺されるのは、おかしい。
だったら、自分を殺そうとする父親は悪い人間だ。
そして悪い人間は、不幸な目に遭ってもいい。
だからこれは、正しいことだ。
数十回殴ると、ついに父は動かなくなった。
その時ようやく、月子は自分が手にしていた物が、父の木槌だったということに気付く。
それは大工道具の中で唯一、質入れされていなかったものだった。
働き者だった父が、ロクデナシの父を殺してくれた。
そう、月子は納得した。
興奮のせいか、足の痛みは我慢出来た。
でも、もうこの家では暮らせない。
そして幼い弟を守れるのは、自分しかいない。
鈍い思考の末、月子は木槌を放り投げ、代わりに弟の小さな手を引いて家を出た。
向かった先は、たった一人の友人のもとである。
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裏口の戸にもたれかかっていた詩織は、足を引きずる月子を見て、目をしばたたかせた。
どうしてこんなところにいるのか、と月子が尋ねると、詩織は顔をほころばせて答える。
「母上に、かんざしを盗ったのが知られてしまったの。とっても叱られて、外に出ていなさいって」
月子には、なぜ叱られた詩織がそんなに嬉しそうなのか分からない。
しかし、そんなことを気にする余裕はすでに無かった。
詩織の前に跪き、月子は額を地面にこすりつける。
「なんでもします。私と弟に、ごはんをください」
月子にとって、詩織は自分に施しをくれる”良い人”だった。
彼女ならば、きっと自分たちを助けてくれるはずだと、そう思った。
その期待は、半分正解で、半分外れていた。
いつもの詩織であれば、跪いて懇願する薄汚い下人の娘を見れば、その頭を踏みつけていただろう。
しかしこの日の詩織は、母親に叱られて、とても機嫌が良かったのである。
「別に良いわ。私の遊び相手になって頂戴」
その詩織の言葉に、月子は顔を上げる。
しかし気が抜けたのか、そのまま力なく横に倒れこんだ。
はずみで、月子の身にまとった襤褸の裾から、かんざしの突き刺さった太腿がのぞいた。
白い皮膚に映える数条の血液を見て、詩織はうっとりとして目を細める。
「綺麗ね。とっても綺麗だわ。でも月子、あなたにその名は相応しくない」
「……?」
「月は完全で、美しいものなの。でも貴女には傷が付いている。それに『子』なんて、まるで人間みたい。不完全で汚いあなたには、別の名前を付けてあげましょう」
「別の……?」
「そうね、矢に貫かれて堕ちた月……射月なんてどうかしら。綺麗で、汚らしい名前でしょう? そしてその汚さは、私しか知らないの」
そう言って、詩織はこれまで月子が──否、射月が見た中で最上の笑みを浮かべる。
その笑顔にホッと安堵して、射月は意識を手放した。
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素直で純粋な射月は、水臥小路家の侍女たちから、好意的に迎え入れられた。
特に侍女たちが喜んだのは、射月が詩織の世話をすると申し出てくれたことである。
激しやすい詩織には、侍女は誰一人として近づきたがらなかったのだ。
その結果、射月は十分な衣食住を手に入れた。
のちに松月と名付けられる弟も、侍女たちが分担して面倒を見てくれた。
射月と詩織の出会いは偶発的だったが、彼女たちの相性は奇跡的に良かった。
動物を虐め殺す詩織の悪癖も、動物を肉だとしか思っていなかった射月には気にならなかったし、妹や母親への嫌がらせのために、詩織はしばしば小動物の死骸を庭に吊るすよう命じたが、その行為への嫌悪感も射月にはほとんど無かった。
むしろ、生き物という完全なものが枝に刺し貫かれるのを見ると、まるで自分を見るようで安心感すら覚えたのである。
唯一、射月に不満があったとすれば、それは「食べ物を粗末にするのは良くないことなのに」ということくらいだった。
しかし何より、彼女たちの相性を良くしていたのは、射月が父の言葉を盲信していたことである。
良いことをすれば良いことが、悪いことをすれば悪いことがそれぞれ起こるというのは単純明快で、かつ、射月にとってはこの世の真実に思えた。
実際、父が真面目に働いていた頃は幸せに暮らせていた。
父が酒に溺れてからはろくなことにならなかった。
そして、父は最後は射月を手にかけるという最大の悪行を犯した後、命を落とした。
逆に自分は、真面目に暮らしてきたおかげで、こうして貴族のお屋敷で暮らすことが出来ている。
弟だって、何不自由なく毎日を送っている。
やはり、あの父の言葉は正しかったのだ。
──と、表面上はそう思っていた。
射月が自己矛盾に気付いたのは、詩織に仕え始めてから、五年が経った頃だった。
幼かった弟も言葉を話すようになり、自然と「親子」という概念を認識し始めたのである。
伊織と母親の触れ合いを見て、ごくごく自然に、弟は射月にこう尋ねた。
「僕のお父さんとお母さんはどこにいるの?」
その疑問をぶつけられた直後こそ、射月は平然と「お母さんもお父さんも死んじゃったの」と答えた。
が、同時に射月の中に小さな歪みが生まれ、次第に大きくなっていった。
なぜ、母は何も悪いことをしていないのに死んでしまったのだろう。
なぜ、何も悪いことをしていない自分は、父に殺されそうになったのだろう。
そしてなぜ、父を殺した自分は今、幸せに暮らせているのだろう。
射月の数々の違和感は、次第に”生きていることへの違和感”へと変貌していった。
なぜ、悪いことをしたはずの自分が生きているのだろう、と。
ところが偶然にも、その違和感は詩織によって解消されたのである。
きっかけは、いつものように詩織が弱い生き物をいたぶっていた時である。
その生き物は、屋敷の軒下に住み着いた野良猫だった。
しかし猫は、射月が部屋に入った拍子に、障子の隙間から逃げ出してしまった。
もちろん射月に悪気は無かったが、詩織は激怒した。
彼女は自分の所有物が手元から離れるのを、何よりも嫌っていたからである。
詩織は、逃げた猫を連れ戻すよう射月に命じた。
が、いくら探しても猫を見つけられない。
すると詩織は、思いついたように、射月に「猫の代わりをしろ」と詰め寄ったのである。
意外にも、その初めての試みは、二人にとって良いことずくめだった。
詩織はより強い力を振るい、無抵抗の者をいたぶることが出来た。
そして射月は、痛みによって潜在的に抱えていた罪悪感を癒やすことが出来たのである。
父を殺した自分が、幸せなのはおかしい。
しかし詩織が”罰”を与えてくれるなら、辻褄が合うのだ。
そうして詩織のもたらす苦痛は、射月にとっては受容すべき快楽となった。
身体に刻まれた無数の傷痕だって、射月には生きる権利を示す勲章のように思えたのである。
そして射月にとって、詩織は、必要なものを全て授けてくれる唯一無二の存在となった。
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とは言え、射月の違和感が完全に消えることはなかった。
その理由は、射月自身にも分からない。
いくら詩織が苛烈に責めても、違和感はいつも黒雲のように胸の内を漂っていたのである。
父親とまぐわう詩織は、とても幸せそうだった。
当然だ。
詩織は自分に救いをもたらしてくれたのだから、幸せでないとおかしい。
と、射月は納得していた。
そして幸福を手に入れた詩織は、決まってたくさんの苦痛を射月に分け与えてくれた。
疑いようもなく、詩織と射月は理想的な関係だった。
しかしある日、その関係に”先”があることを、射月は知ることになる。
それは、水臥小路家の宴席での出来事だった。
目の前の光景に、射月は驚嘆した。
何十人もの罪人が、次々と、流れるように殺されていた。
彼らは悪いことをした。
物を盗み、人も殺した。
それゆえに殺される。
このあまりに完全無欠な秩序に、射月はただただ「美しい」と思った。
そして直感したのである。
「自分の求めていたのは、これだったのだ」と。
射月は、感動に打ち震えた。
そこから先は、一切の迷いがなかった。
射月に救いをもたらしてくれる人は、一人しかいない。
彼女のことはよく知っているから、どうすれば自分の望みを叶えてくれるのかも分かる。
あの人は、自分の物を取られるのを、何よりも嫌がるから。
前の逢瀬から間が開いた、ある日。
いつもよりもたくさんの苦痛を感じながら、射月は言った。
「詩織さま、私……惟人さまにお情けを賜りました」
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