第5話「ふるえる子猫と取り調べ」
もともと近衛府(※)にいた平間でさえ、なぜ近衛府が壱子に用があるのか全く見当が付かない。
そもそも壱子の身分を考えれば、近衛府もよほどの確証が無ければ手を出すことは無いはずだ。
(※:皇都の治安を維持する組織の総称。右近衛府と左近衛府から構成され、このうち平間がいたのは庶民派の右近衛府。)
だとすれば、本当に壱子は平間が思いもつかないほどの悪行に手を染めて――。
「ひ、平間、どどど、どうしよう……」
――ないな。
と、平間は即座に考えを改める。
涙目になって顔を引きつらせている壱子が、そんな大それたことをできるはずが無い。
彼女は尊大で偉そうだが、少なくとも大胆ではないのだ。
「とにかく壱子さま、近衛府の方には何て言いましょう?」
「し、知らぬ! 私は何もしておらぬ!」
侍女に狼狽する壱子に、口を開いたのは紬だ。
「それならば壱子さま、そうおっしゃれば良いのでは? 『私は何もしていない』って」
「しかし、『悪者は全員そう言うんだ』と言われてしまうぞ!?」
「大丈夫、壱子さまは悪者ではないじゃないですか。それに慌てるのは、近衛府の言い分を聞いてからでもいいのでは?」
「それは……まあ」
あっけらかんとした紬の言葉に、壱子は不安げな表情で平間を見る。
紬と同意見だった平間がうなずくと、壱子はため息をついて言った。
「分かった、お主らがそう言うのなら……」
すっかり肩を落とした壱子はまるで、雨に打たれた子猫のように見える。
いつになく小さい背中に、平間はささやかな同情を禁じえなかった。
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――――
――
近衛府の兵士を率いてきたのは、偶然にも平間の顔見知りの痩せぎすの中年男――田々等であった。
数十名の兵士と共に佐田家の屋敷へ足を踏み入れた田々等は、居合わせた平間たちに驚いた様子だった。
一応、平間は気まずそうに頭を下げたが、田々等は特に反応を見せることは無く、案内された応接間へそそくさと入っていった。
平間たちが同室を許可されることは無く、壱子と田々等が何を話しているか聞くことは出来なかった。
そこで、同行していた田々等の副官に紬が声をかけた。
副官の女性は紬に笑顔を向けると、快く事情を話してくれた。
彼女が言うには、とある事件の捜査の一環でここに来たのだと言う。
しかし壱子の父親に気を使ったのか、取り調べは屋敷の中で行い、その内容も聞き取りだけだという。
実際、それは淡白なものだったらしく、取り調べはおよそ四半刻で終了した。
田々等を含めた近衛府の一団はあっさりと撤収し、屋敷は何事も無かったかのように普段の平静を取り戻した。
――
「驚いた。どうやら私は、貴族の娘を毒殺しようとしたらしい」
応接間から出てきた壱子は、平間と顔を合わせると気疲れした様子ながらも、冗談をこぼした。
「平間、お主のせいじゃぞ」
悪戯っぽい笑みを浮かべる壱子の言葉が理解できず、平間は何となくムッとする。
「そんなことを言われても、全く心当たりが無い」
「そう怒るな。平間、お主が賊討伐に使った毒酒は覚えておるじゃろ?」
「もちろん」
「近衛府殿の話は、その毒酒についてじゃ」
相変わらず話が見えない平間は、眉根を寄せた。
それを見て、壱子は「仕方ないな」と言わんばかりに続ける。
「あの毒は南方の地で採れる植物から抽出した毒を加工したもので、水に良く溶けるし、臭いも薄いし、飲めばたちどころに呼吸筋が麻痺する傑作じゃ」
「つまり、息が出来なくなると?」
「簡単に言えばな」
うなずく壱子に、話を横で聞いていた紬が平間を押しのけ、口を挟もうとする。
平間は無言で抗議の視線を送るが、紬は笑ってごまかして壱子に行った。
「でも、その素晴らしい毒が壱子さまに何の関係があるんです?」
「関係があるも何も、平間に頼まれて毒を用意したのは私じゃ」
「え、本当ですか?」
「うむ、佐田は|薬と毒の学問を統べる一族ゆえ、入手は容易い」
「ふーん……、貴族って、そんなことまで簡単に出来るんですねえ」
そう言う紬の声は、いつになく硬質だった。
平間には毒物の入手がどれだけ難しいことか見当が付かないが、独自の情報網を持っている紬にはそれが分かるのだろう。
もしかしたら、貴族という巨大な存在と自分というちっぽけな存在の差を、改めて実感してしまったのかも知れない。
実際、貴族は皇国の民とは一線を画す存在だ。
広大な領地を持ち、豪奢な邸宅を皇都の中心に構える彼らは、庶民にとっては文字通り「別世界の住人」であり、嫉妬と羨望の対象である。
にわかに不穏な空気が漂い始めたが、紬は急に笑みを作ると、ずい、と壱子に顔を寄せる。
煩わしそうに眉をひそめる壱子を気にすることなく、紬は言った。
「つまり壱子さま、近衛府は『京作さまが使った毒酒がどこから来たのかを調べるため』にここに来た、というわけですね!」
「違うとは言わぬが、的外れじゃな。あと顔が近い」
「的外れって、どういうことです?」
「だから顔が近い……。言ったじゃろう、『よその貴族の娘が毒殺された』らしいと。近衛府とて、私と平間の関係は承知の上じゃ。その上で、万に一つでも私が関わっていないか確認しに来たのじゃろうな」
「なるほど、つまりアタシの最初の仕事は、壱子さまの“殺し”の目撃者を抹殺することなんですね……!」
「全っ然、違う。お主、『もっと人の話を聞け』とよく言われないか?」
「いえ、言われませんけど?」
言われているぞ。
と、横で聞いていた平間は嘆息する。
壱子はこめかみを押さえながら、楽しげに首を傾げる紬に言った。
「よいか紬、私は誰も殺してなどいない」
「犯人はみんなそう言うんですよ」
「……平間、もうこやつを無視していいか?」
「いいよ」
「ダメです! ごめんなさい、壱子さまは無実だって分かっていますから!!」
慌てた様子で言い繕う紬は、しかしどこか楽しそうだ。
壱子は「その言い方もどうなのか……」と言いたげだったが、しぶしぶ続ける。
「で、じゃ。どうやら貴族の娘に盛られた毒と、私が平間に渡した毒がよく似ていたらしい」
「つまりどちらも、何でしたっけ……そうそう、呼吸筋が麻痺する部類だったと?」
「みたいじゃな」
「でも壱子さま、そういう毒って珍しいんですか?」
「そうでもない。例えば鳥兜を飲めば同じようにして死ぬし、河豚の毒も似た症状が出る」
「へー。よくご存知ですねえ」
「無論じゃ。私は天才だからな」
そう言って、壱子は自慢げに薄い胸を張る。
しかし紬はそれには取り合わず、どこかがっかりした様子で言う。
「ということは、今回はこれで話は終わりですね。あーあ、面白い事件でも起きたのかと思ったのに」
「なぜ残念そうなのかは理解に苦しむが、しかし終わりではないぞ」
「どういうことです? やっぱり壱子さまが犯人なんですか?」
紬のボケに、壱子はあからさまに舌打ちした。
「あ、はい。ごめんなさい壱子さま」
「許す。実は先ほど、とある約束を取り付けてきた」
「約束ですか」
「うむ」
壱子は力強くうなずいて、きょとんと首を傾げる紬から、平間に視線を移した。
「聞けば近衛府殿は、お主の上役だったと言うではないか。私への疑いはすぐに晴れたが、タダで帰してしまっては勿体ない。そこで、じゃ」
まっすぐ平間を見つめる壱子の目に、ギラリとした光が宿る。
あどけなさの中に天性の鋭さを秘めた、猫を思わせるその瞳。
平間はそこへ吸い込まれるような錯覚に陥った。
「私はこう言ったのじゃ」
にやり。
と壱子は不敵に笑う。
――ああ、これは面倒なことになるぞ。
壱子の笑みから、平間は猛烈な嫌な予感に襲われる。
そして悲しいことに、この予感がよく当たることを平間は知っていた。
「『そんなにお困りなら、私が毒殺事件を解決いたそう』とな」
全く喜ばしくないことに、平間の予感は的中した。
――