第3話「送るヒツジとねむりひめ」
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「うぅ、鯛のお刺身が……豚の丸焼きが……酒池肉林が……」
ここは、皇都のはずれにある大衆食堂だ。
その一席で机に突っ伏した少女――紬が、涙ながらに怨嗟の声を上げる。
向かいに座る平間はどう返せばいいのか分からず、渋い顔でため息をついた。
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先ほど上役である田々等から解雇を告げられた平間は、執務室の前で待ち構えていた紬と鉢合わせた。
目を輝かせる彼女にそのことを告げると、彼女はがっくりと肩を落とした。
……のだが、すぐに顔を上げ、瞳をギラリと光らせると、平間と入れ違いに執務室に突入する。
平間が障子の奥から漏れ出る怒声を聞いていること、しばし。
紬は勢いよく執務室から飛び出すと、紅潮した顔で言った。
「あの分からず屋……! 京作さま、行きますよ!!」
「行くって、どこに?」
「こうなったら、思いっきり飲みましょう!! ヤケ酒です!!!」
「ちょ、ちょっと……!」
紬は執務室に向かって思いっきり舌を突き出すと、平間が止めるのも聞かず、彼の手を取って近衛府の庁舎を後にした。
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「京作さまがクビになるのは、絶対におかしいですって! もう、イライラするなあ……!」
そう吐き捨てて、紬は杯をあおった。
装飾の乏しい杯にはなみなみと注がれていた濁酒は、紬が喉を鳴らすとすっかり消えて無くなっていた。
頬を上気させて目が据わっている紬を見かねて、平間が止めに入る。
「落ち着けって……だいたい、僕がクビになっても紬は関係ないだろ?」
「はぁ? 関係あるに決まっているじゃないですか。普通、副官は縁のある人間を連れてくるんです」
「……だから?」
「だから、京作さまの後任の人が来たら、アタシはお払い箱ってことですよ。一緒にクビになるか、ドブさらいでも命じられるんです! あーもう、なんでこんな事に……」
わめく紬に、平間は「なるほど」と手を打った。
その反応を呑気だと取ったのか、紬はさらに語気を強めて言う。
「っていうか、どうして京作さまはそんなに『のほほん』としていられるんですか? 明日からお給金をもらえないんですよ!?」
「でも、酒に逃げるよりはマシだと思うけど」
「そんなこと分かってますよ、アタシだって!」
紬はいきりたち、腰を浮かせて叫ぶが、すぐにヘナヘナと机に突っ伏した。
「あーあ、大きいお屋敷に住んで、三食お腹いっぱい食べるアタシの夢が……」
「小さいんだか大きいんだか、良く分からない夢だな」
「大きくも小さくも無いくらいがちょうど良いんですよ……。はぁ、お金持ちに生まれたかったなぁ」
紬は唇を尖らせて言うが、ふと何かに気付いたかのように顔を上げた。
「あれ、そういえば野盗に呑ませたお酒って、どうやって手に入れたんですか?」
「え?」
「え、じゃないですよ……そういえば、京作さまって平民出身だって言っていましたよね?」
「そうだっけ?」
「そうですよ。で、京作さまは平民の生まれなのに、どうしてその歳で隊長格になれたんですか?」
「……真面目にやってきたから?」
「真面目に答えてください。そういえば、前に知り合いがどうとか言ってましたね」
紬は酔っ払いとは思えないほどの鋭さで、平間を問い詰めていく。
言葉に窮した平間は、話を逸らそうと必死で考えを巡らせるが――。
「さては京作さま、アタシに何か隠していませんか? 例えば……」
組んだ両手にあごを載せ、紬はじっとりとした視線を平間に送った。
冷や汗が、平間の背中を滴り落ちる。
「貴族に仲のいい人がいる、とか?」
あっさりと図星を突かれた平間は、気まずくなって視線を動かした。
同時に、紬はその目をギラリと光らせる。
そしてこれが、彼女が何か悪いことを思いついた証拠であることを、平間はよく知っていた。
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翌日。
浴びるほど飲んだ紬を放っておくわけにも行かず、平間は彼女を自分の家に連れて行った。
これは平間に下心があったわけでは無い。
紬は近衛府の庁舎内に(勝手に)住み込んでいるのだが、平間としては首になった手前、近衛府に顔を出すのが気まずかったのである。
その証拠に、悲しいほどに生真面目な平間は、熟睡する紬と同じ部屋で眠ることは出来ず、玄関の土間にゴザを敷いて横になった。
そしてその日は、底冷えする九月の夜だった。
「いや~、よく眠れました!」
日が昇ると同時に目を覚ました紬は、二日酔いの気配すら見せず、かけ布団を跳ね飛ばして気持ちよさそうに伸びをした。
平間は紬の眠っていた自分の布団を恨めしそうに眺めて、朝日の突き刺さる目をこする。
硬い床で眠っていたせいで、平間は体の節々に鈍痛を覚えていた。
それを知ってか知らずか、紬はのんびりとして言った。
「で、ここは何処です?」
「見てのとおり、僕の家だ」
「……どうしてですか?」
「どうしてって――」
紬が勝手に酔いつぶれたからだろう、と言おうとした平間だったが。
「どうして襲わなかったんですか?」
「……あ?」
「すみませんごめんなさい。睨まないでください」
苛立ちを隠さない平間に、紬は素直に前言撤回した。
「はは、お恥ずかしい限りです。すみませんね、介抱してもらっちゃって」
「全くだよ」
「でも、困りましたね。京作さまが近衛府を去った以上、もはやあそこにはアタシの居場所はありません」
「そうか? 紬なら、うまく言えば雇ってもらえるだろうに」
「かくなる上は、京作さまに個人的に養ってもらいますかね」
「ちょっと何を言っているか分からないんだけど」
「嫁入りって意味です。となると、この家では手狭ですね。お引越ししましょうか?」
「話を聞いてくれ」
「でも、京作さまもアタシのこと嫌いじゃないでしょ?」
そう言って、紬は悪戯っぽく微笑んだ。
いつも後ろでまとめている髪が今は下ろされていて、どことなく艶めかしい雰囲気が漂っている。
確かに、平間は紬のことを嫌いではない。
むしろ異性に免疫の無い彼にとっては、少なからず気になる相手でもある。
答えに迷った平間が黙っていると、紬は至極嬉しそうな笑みを浮かべて言った。
「ま、冗談ですけどね」
「え?」
「京作さまったら本気になっちゃって。か~わいい」
「っ……!」
からかう紬に平間は舌打ちして、そっぽを向いた。
そんな平間の背中越しに、紬の声が聞こえる。
「ま、あながち冗談でもないんですよ」
「……もういい、それも冗談だろ」
「どうでしょう?」
はぐらかす紬に少々苛立ちながら、平間はあぐらに頬杖をついて言う。
「さ、もう夜は明けたんだ。することが無いなら帰ったらどうだ」
「帰るも何も、アタシには家なんてありません。ご存知では?」
「いつも庁舎に泊まっていただろ」
「それも無理です。言ったじゃないですか。京作さま亡き後、アタシの居場所なんて無いですよ」
「勝手に殺すな。それに、僕に出来ることなんて無いだろ」
平間がそう言うと、紬はおもいっきり顔を近づける。
思わずドキリとした平間は、慌てて平静を装う。
しかし、紬はそれに気付くそぶりを見せることなく、いつになく真剣な表情をつくった。
「京作さま、たしか昨日、『貴族の知り合いがいる』って言っていましたよね」
「……言ったっけ?」
「とぼけないでください。真剣な話をしているんです」
「分かったよ、いるよ。で?」
「その人に会わせてください! そして、アタシを雇うようにお願いしてほしいんです」
「それは構わないけど、上手く行くかどうかは――」
「大丈夫です。京作さまも知っての通り、自分を売り込むのには自信がありますから!」
紬は胸を張って言うが、平間には不安があった。
彼女が会いたいという貴族は、少しばかり……いや、相当にクセの強い人物なのだ。
「……本気?」
「京作さま、アタシが本気じゃない事なんてありませんよ」
たった今、冗談をぶつけてきたばかりだろう。
そう零したくなるのを堪えて、平間はしぶしぶ首を縦に振った。
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【同日、昼過ぎ】
「朝からご苦労じゃな、隊長殿?」
「イヤミか。クビになったことはもう言っただろ、壱子」
うんざりしたように平間が言うと、壱子と呼ばれた美しい少女が目を細めて笑う。
少女はさながら白百合のような可憐さで、彼女の周囲だけは天上の世界のようだった。
平間の右手、開け放たれた障子の間からは、掃除の行き届いた板敷の廊下と、その奥に広がる中庭が見える。
庭には秋の花々が咲き誇っていて、腕の良い庭師が手入れをしていることが素人目にも分かった。
上品な調度が揃えられた一室を、心地よい涼風が通り抜ける。
「して、その“元”隊長殿は、私に何の用じゃ?」
小首をかしげて試すように微笑む壱子に、平間は小さく息をついた。
この壱子と言う少女こそ、例の「平間と知り合いの貴族」である。
いま平間がいる場所は、皇都の中心部に構えられた巨大な邸宅だ。
邸宅の主は、皇国でも指折りの大貴族・佐田氏。
そして平間の目の前にいる少女は、佐田氏の二の姫・佐田壱子である。
細やかな刺繍の施された絹の着物を身にまとっている壱子だったが、しかし、そのきらびやかな衣装をもってしても「着られている」印象は全く無い。
むしろ彼女の少女らしい美しさが引き立てられて、得も言われぬ魅力がそこにはあった。
特に目を引くのは、長い黒髪をささやかに彩っている桃色の髪飾りだ。
桜の花を模したその髪飾りは、瀟洒にまとまった装いの中で目を引いて、なんとも可愛らしい。
「まさに生まれながらの姫君だ」と、壱子を見るたびに平間は思う。
そんな壱子は白磁のような手であごを撫でて、物思いにふけるようにして言う。
「しかし、不思議じゃな。お主は策を弄し、賊退治で大きな功績を上げたと聞いたのじゃが。走狗烹らるという言葉(※)があるが、はてさて、皇都の兎は死に絶えたのじゃろうか?(※2)」
(※巧兎死して走狗烹らる:「戦争で功績を立てた優秀な軍人は、戦争が終わると邪魔になり、殺されてしまう」という意味。ところでこれとは関係ないが、壱子は覚えたての難しい言葉を使いたがる癖がある。)
(※2:「なんでお前クビになってんの?」って意味です。)
「難しい言葉を使わないで、僕にも分かるように言ってくれ」
「ふむ、かみ砕いて言うのは難しいが、そうじゃな……『お主に会えて嬉しい』といったところじゃろうか」
ころころと笑って、壱子は言う。
基本的に笑えないのに、壱子はこの手の冗談を言うのが好きだった。
平間が反応しないのを見て、壱子はつまらなさそうに鼻を鳴らす。
「さて平間、お主がなぜ近衛府を追い出される事になったのか非常に興味深いが――」
壱子は平間の後ろに控える少女――紬と目を合わせると、ゾッとするほど冷たい声音で言った。
「あの娘は平間の何かな? 返答によっては、生きて返さぬが」
その迫力に気圧されることなく、紬は微笑んで頭を下げた。
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