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魔女アリシアと秘密警察  作者: 虹江とんぼ
6/19

魔女アリシアと秘密警察 (5)

分割しました。

ご不便ご迷惑おかけいたします。2016/10/18

 夜の帳が降りたロンデニオン。

 時刻はパブや高級クラブも閉まり、民家の住民達も眠りにつく夜半過ぎである。

 近年の石炭の使用量増加による空気汚染で、たとえ晴れていても都心から星空を臨む事は難しいし、マナに富んだ月光の加護も得られにくい。しかしながら、そんな心配も虚しく今宵は曇り空だった。重苦しい闇夜は真っ黒な夜の海を彷彿とさせ、何処までも沈んでいってしまいそうだ。

 その中で唯一の道しるべとなる灯台は、等間隔に立ち並ぶガス灯である。

 こういった暗闇の中の光源には、帰る家を持たないピクシー達を引き寄せる。彼らはガラスケースにへばり付いて暖を取っているのだ。多いところになると、明りが見えなくなる程の大量のピクシーが折り重なり、身じろぐ巨大な球体になっていたりする。その所為で夜の街角は、異形の草花が咲き乱れる魔界の雰囲気を醸していた。

 その魔界に、地面が震えるほどの轟きを伴った闖入者が現れる。

 真夜中の静寂を踏み砕く馬蹄の数々。それに牽かれる軽馬車を先頭に、カンテラを提げた多くの馬車が隊列を組んで猛然と走り抜けていく。ピクシー達は突然の出来事に驚き、蜂の巣を突いたような慌て振りで飛び立った。


 先行する馬車に追従する二頭立ての箱馬車の中、アリシアは軋むスプリングの音を聞きながら[血盟旅団]の潜伏先へ到着するのを静かに待っていた。車内には、ディンゴやヘイリーは居ない。代わりに、まだ名前も覚えていない強面の捜査官たちが左右の座席に腰掛けていた。局内の騒動から数時間が経過していたが、あれから彼らとは一度も会話をしていない。蟠りも解けぬまま、彼女は沈鬱な表情を暗闇に隠していた。

 彼らが本部待機を言い渡されている事も、気まずさに拍車が掛かけている。

 クリスはアリシアを遠ざけたがっていたが、エギルをよく知る者である点と、課長の推薦ということもあった。作戦に彼女を投入することについて、下の者の意思が介在する余地は無いのだ。

 馬車は程なく、ロジェーク地区のローム河にほど近い路地で停車した。

 周囲から孤立するように鎮座する真新しい煉瓦の建物が、丁字路の先に確認出来た。

 店の明りは落ちているが、外灯の明りによって大鷲亭の看板が確認出来た。麻薬組織の気質商売としてはまずまず立派なもので、客入りも悪く無さそうな大きな店舗だ。

 クリス率いる現場指揮官たちが様子を窺い、周囲に人気がない事を確かめる。

「我々は店の正面から行く。エリック、君のチームは裏へ回れ。こちらが行動を起こした後、壁に穴を開けて突入しろ。もちろん、被害者であるローエン親子を発見した場合は優先的に保護するように。医療チームは馬車で待機。では、始めるぞ」

 命令を受けたエリックがチームを率いてパブの裏手へと向う。

 彼の後ろに付き従う武装隊員の装備も厳重だ。暗闇に溶け込む黒地の戦闘服に身を包み、頭には軍用のヘルメット。手には『万能の杖』としても知られる術式棍が握られていた。

 その外見は殴打武器であるメイスの形を取り、杖の中腹に取っ手、下部には可変式の柄が追加されている。接近戦に於ける制圧力を求められて開発され、新世主義国の短機関銃に対抗する思想が込められていた。

 加えて突入部隊には、透明なマンホールのような物が配備されている。これはフェアリランドの秘技を持つドワーフの技術供与によって開発された準ミスリルの盾だ。銃弾は勿論、対戦車ライフルの一撃にも耐えうる代物である。

 万全の構えを取る彼らを見送り、アリシアは自分の拳銃を手にした。しかし、クリスが目聡くそれを咎める。

「ドナルドソン、銃は無しだ。支給された術式杖があるだろ。犯人も生け捕りにするんだ」

 お小言を言うハンサムを一瞥してから、仕方なくホルスターに拳銃を収め、ベルトに差しておいた術式杖を抜く。

「見た目が弱そうで頼りなく見えるのよ、これ」

 不平を口にしながら術式の先端を摘み、くいっとしならせた。それを見たトトは悪戯小僧のような笑みを浮かべ、自分の術式杖をペン回しのように一回転させる。

「馬鹿と鋏は使いようさ。ほれ、便利だろ?」

 彼は術式杖をかざすと、杖の先端を電球のように光らせてみせた。

 その恵まれた体格に似合わず、意外とお茶目なようだ。


 パブの裏手にある茂みで三度の光が瞬いた。

 クリスはハンドシグナルで武装隊員らに先行するよう指示をだす。

 それを受けて彼らはパブ正面の両端へと分かれた。左右から五人ずつアプローチをかけ、配置につく。後方からクリス達捜査官も追随し、準備が整った。

 そっと窓枠から顔を覗かせて、灯りの落ちた店内の様子を窺う。人気は無く、物音一つ無い。だが、エギルが囚われているとすれば、見張る者も居るはずだ。

 クリスが対面の隊員に、『突入』のサインを送る。

 隊員はパブの扉の前に出ると、術式棍の取っ手と柄をしっかりと握り、勢いをつけて先端を扉に叩きつけた。

 途端に閃光が奔り、爆発音と共にドアは粉々に砕け散った。

「突入!」

 武装隊員の隊長の声が轟くと、隊員たちが次々と店内に侵入して展開する。彼らは術式棍を照明のように光らせて迅速にその場の状況を把握していった。クリアリングの最中、パブの裏手でも同様の爆音が発生し、エリックたちも行動を起こしたことがわかった。

「クリア」

 広間の安全確保が終ると、捜査官達も店内に踏み込んでいく。

 暗闇に包まれる店内を幾筋もの光が行き交っていた。外観と同様に、店内のフロアは多くの客を受け容れられるように広々としていて、内装も立派に設えてあった。

 ただ今は、突入による破壊の跡で埃が宙を漂い廃墟のような雰囲気だ。

「おかしい」

 そう呟いたのはトトだ。

 彼の所見はもっともだった。異様な程に動きが見られない。これだけの騒ぎがあれば、慌てふためいて物音の一つでも立てそうなものだが、突入部隊以外に人の気配が無い。

 疑念に駆られてたその時、奥の部屋に通じる扉を前にして二の足を踏む隊員が居た。彼の前には奇妙なオブジェが床に据えられていたのだ。

 ピラミッド状の鉄枠に収められた水晶が、切り株のような台座に載せられている。

 それは街の随所で見られる監視装置。《遠見》の魔術が施された〈ゴルゴンⅡ〉と呼ばれる物であった。高価である点と、試験過程ということもあり、一般への流通はなされていない。当然、このような場所にあって良い物ではなかった。

「下がれ!」

 恐らくこの〈ゴルゴンⅡ〉は脅威査定にあった盗難品の一つだ。数ある魔術学派で狩猟民族の営為を起源とするドラド派の一門たるアリシアには、これがそこにある意味を瞬時に見い出すことが出来た。遠隔操作が可能である監視魔導装置〈ゴルゴンⅡ〉は、それ自体が独立した魔導具。この魔導具と誘拐されたエギルという賢天級の魔術師が付合する。

 つまり――ブービートラップだ。

 隊員が〈ゴルゴンⅡ〉に歩み寄った途端に、その周囲が怪しく輝き始めた。

 赤黒い術式陣が浮かび上がり、黒い稲妻が店内を駆け巡る。

 咄嗟の出来事に及び腰になった隊員に駆け寄り、彼の襟を掴むと引き倒すほどの勢いで後方に下がらせる。ほぼ同時に、術式陣から突風が発せられ、目を開けておくことも難しくなった状況で声を張り上げる。

「攻撃用意!」

 吹き荒れる暴風から目を庇いつつ、クリスは問い詰めてくる。

「どういうことだ! これはなんだ!?」

「罠よ! あの召喚陣は負の力場を形成している。魔族が来る!」

 クリスは聞き間違いではないかとかぶりを振ると再度訊ねた。

「魔族? 魔の眷属達は召喚者の言うことすら聞かない化物だぞ! 国際条約で禁忌とされている業のはずだ。間違い無いのか?」

「条約を気に掛ける高尚なやからが犯罪者になるってんなら間違いでしょうね!」

 店内に吹き荒れる嵐が一際強くなった時、術式陣から異形の者が現れた。

 それは人の頭をトカゲにすげ替えたような怪物だった。

 見る者は即座に巨大なトカゲが二本足で直立しているものと理解するだろう。だが目の前の怪物にはトカゲ男以上の脅威が内包されている。オリーブ色の肌には粘膜が滴り、全身は細身ながらも剽悍な筋肉の集合体で、特に上半身の筋肉は隆々と盛り上がっていた。

 しなやかに伸びる両腕の先端は、指と爪が同化したように鋭く尖り、開かれた大きな口からは不規則に生え広がる乱ぐい歯が晒されていた。

 《屍を喰らう(グール)》と呼ばれる魔物が現界を果たした。

「喰われたくなければ近づかせるな!」

 そう叫びながら術式杖を振り下ろし、圧縮されたマナを解き放つ。エネルギー体と化したマナはグールの肩に命中し、大きな裂傷を刻み込む。だが、皮膚から粘性の強い体液が分泌され、傷口は瞬く間に修復されていく。

 悪態を吐く間も無く、グールは膂力漲る下半身を屈めて大きく跳躍した。保安局で一番大柄のトトすらも見下ろせる巨体が軽々と宙を舞うと、天井に鋭い指を突き立てて張り付いた。

 目を見張って響めいていた捜査官や武装隊員も、この怪物が脅威であると認識した。

「聞きたいんだけど、あれも生け捕りにする?」

 唖然と立ち尽くすクリスに問いかけた。答えなどわかっているが、アホ面を下げている彼にちょっとした悪戯心が湧いたのだ。クリスもそれはわかっているようで、振り向くことなく渋面を浮かべた。

「攻撃しろ! 魔物を街に出すんじゃない! ここで仕留めるんだ!」

 その号令が合図となり、彼らは一斉に攻撃を開始した。

 光が交錯する店内でマナの塊が飛び交い、天井や壁を穿ち、カウンターのボトルが粉々に砕け散っていく。一方グールは巨体にに似合わず、全身の筋力を隈無く動員して縦横無尽に跳ね回り、保安局の面々を嘲笑うように躱していく。

 隊員の前に降り立ったグールは、恐怖する彼に向って腕を突き出す。咄嗟に盾でそれを防ぐも、尋常ならざる地力の違いに圧倒され、彼は店の窓を突破って外へ突き飛ばされた。

 だが動きが止まった瞬間に、トトが背後から術式杖を振り抜く。

 閃光と共にグールの背中が爆ぜて、皮膚が剥げ落ち背骨がむき出しになる。それでも直ぐに滲み出る体液に覆われて回復されてしまう。

「クソ! 効いてないじゃないか!」

 悪態を吐くトトに術式杖で牽制しながら捲し立てる。

「相性が悪い! だれかあいつを捕まえて! 動きを止めるのよ!」

 その要求に「んな無茶な!」と非難の声が上がる。

「このままじゃ埒が明かない」

 想像以上に手強い難敵を前に、アリシアの影が揺れる。

 ハティを呼び出そうかと逡巡したが、思い留まった。保安局のスパイを特定出来ていない内に、奥の手を曝すわけにはいかない。たとえ犠牲者が出たとしてもだ。

 そこへトトがグールを注視しながらもアリシアに尋ねた。

「何か策があるんだな?」

「魔術は魔の眷属からもたらされた秘技よ。元々相性が悪い。再生力の根幹を断たないと」

 悠長に会話をしている内に、グールは手近な隊員に襲いかかる。上からのし掛かられ、食らい付こうと口を大きく開いて迫ってくる。下になった彼も食われてたまるかと、盾で必死の抵抗を見せた。

「ひっ――おい! 誰か! 誰かコイツを!」

 仲間を助ける為に、別の隊員が術式棍を振りかぶった。角張った先端部をグールの頭に叩きつけ、頭蓋骨を陥没させた。その一撃でも、驚異的な再生力を持つグール相手では用を成さない。虫でも払うかのように隊員は殴打され、テーブルを粉砕した。

「少しで良い。あいつの動きを止めて!」

 アリシアは拳銃を抜くと、安全装置を解除した。それを見たトトは何かを決心したように歯を食いしばる。

「ああクソ……信じるからな。お前ら気合い入れろ! トカゲ野郎をぶちのめすぞ!」

 決断してからは早かった。トトが取った行動は至ってシンプルだ。

 隊員に隊列を組ませての突撃である。盾を構え、術式棍を突き出しながら男達は気持ちを奮い立たせるように雄叫びを上げた。

 その後はもう作戦など一切無い。グールになぎ払われようがおかまい無しに次から次へと突進を敢行し、至近距離でマナを炸裂させ、術式棍でタコ殴りにするのだ。これには流石のグールも生物なだけあって、彼らの気迫に怯んだ。

 その一瞬の隙にトトは横からマナを叩きつけ、間髪置かずに自分まで飛びかかる。

「この野郎! 大人しくしやがれ!」

 ガッシリと腰に組み付くがビクともしない。無理かも、と弱気な考えが頭を横切った時、クリスまでもがグールに突進してきた。二人は顔を見合わせると、タイミングを図って雄叫びと共に巨体を押し倒す事に成功した。

「アリシア! 早くしろ! 持たない!」

 トトに急かされるまでもなく、アリシアは既に銃を構えて見下ろしていた。

 藻掻くグールの睨眼と視線が交わった瞬間、引き金を引き絞る。一つ目の薬莢が床に落ちるまでに、弾倉が空になるまで撃ち続ける。薄暗い店内をマズルフラッシュがカメラの閃光のように連続して瞬いた。

 仰向けに押さえ込まれていたグールは、顎下から計八発の銃弾を撃ち込まれ、弾丸が抜け出た頭頂部はグロテスクな花のように開いて、脳漿が床に飛び散っていた。

「死んだのか?」

 返り血を浴び、息を切らせたクリスが見上げてくる。

「まだよ」

 生物を殺傷するには十分な銃撃によって花弁のように開いた頭頂部。そこへ思い切って手を突っ込んだ。トトは見るからに嫌そうな顔をしてくるが、それも仕方ない。ぐちゅぐちゅと音を立てて生物の頭に手を突っ込めば、誰でもそうなる。こっちだって気持ち悪い。

 だが、生理的嫌悪を押し退けた甲斐はあった。

 グールの後頭部付近にある違和感を頼りにして、その異物を掴むと一気に引っこ抜く。

 血にまみれた手に握られていたのは赤い楕円形の物体。一見脳みそにも見えるが、小さい上に頭蓋骨のような甲羅に覆われ、イソギンチャクのような黄色の触手が生えている。

「おいおいおいおい! やめてくれ! こっちに向けるなそんな気色悪りぃもん。苦手なんだよそういうの!」

 せっかくだから見せてやろうと思ったのだが、トトは身振り手振りで大きく拒絶反応を示してきた。クリスや他の隊員も似たり寄ったりである。

「グールの脳内に取り付く寄生虫よ。こいつの身体の中にはポーションに似た成分を作り出す器官がある。グールの身体全体に、この黄色い触手を張り巡らせて宿主から栄養を吸い取ってる。その代わりに、治癒能力を高める粘液を分泌してるの。この外郭は凄く堅くて、銃弾でも壊せない。だから普通は首を切り落とすんだけど、騎士団の連中じゃないと出来ない芸当になる」

 魔術の素人たちに簡潔な講義を施し終えると、カウンターから無事なグラスを手に取り、その中へ寄生虫をコトンと落とした。グラスの中で黄色い触手が暴れ回る様子に、居合わせた男共がそろいも揃って顔色を悪くする。

「鑑識に回して。手に余るようだったら、王立魔術研究所に送れば良いわ。大丈夫よ、人には寄生しない」

 そう言って傍らに居た隊員に寄生虫を押しつけた。

「全員! 状況報せ! 怪我人を外へ。こうなってしまっては奇襲も何もない。医療チームを近くまで移動させておけ! エリックたちはどうなった?」

 トトに手を貸されながら立ち上がったクリスは、現状の把握に努めていた。目的はグールの討伐ではないのだ。各隊員が動き始めた矢先、先ほど確認出来なかった戸が向こう側から開けられた。咄嗟に付近の隊員が術式棍を構える。

「エギル・ローエンと思われる男性を発見。ドナルドソン、確認を……何があった?」

 現れたのはエリックだった。彼は店内の惨状や傷だらけの隊員の姿を見て目を丸くする。これだけ派手に暴れた痕跡を見せつけられればその反応も当然だが、気付かなかったのだろうか? しかし、クリスが「そんな事はいい」と遮る。

「彼は無事なのか?」

「まだ息はあるが負傷している。恐らく銃によるものだと思うが、危険な状態だ。早く治療しないとまずい」

「犯人はどうした」

「それが……被害者以外はもぬけの殻さ。そっちこそどうなってんだ」

「トカゲだよ。医療チーム遅いぞ。早くしろ! トト、ドナルドソン、二人は来い。犯人を追う手掛かりを探し出せ」

 エギルの安否を気に掛けながらも、アリシアは疑義を抱かずにはいられなかった。

 誘拐した人物を一人残す事は考えられない。あの罠が見張り代わりということも無い筈だ。そもそも、犯人の目的は?

 庭師達の寄越した情報では、犯罪に転用される技術を有している為に、エギルは誘拐されたというもの。であれば〈ゴルゴンⅡ〉という独立した遠隔制御可能の魔導具を利用した先ほどのトラップは、エギルの手による物のだろう。

 判然としない状況が続いたまま、個室の中へと入った。

 駆付けた医療チームによる献身的な止血作業が行なわれている隙間から、青白い顔をした中年の男が見えた。

「彼がエギル・ローエンで間違い無いか?」

 クリスの問いかけに、数年前の記憶をたぐり寄せる。

 記憶の中の彼は、窮地に立たされながらも前向きで、努力家で、よく笑っていた。

 ミッドガーズ王国に、交換留学生という立場で潜伏していた時期があった。

 その頃、今と同じく大学で働いていたエギルの授業に参加し、研究室で毎日顔を合わせていたのだ。それもごく短い期間ではあったが、留学生の自分を良く気に掛けてくれたことを覚えている。

 記憶の中で笑いかけてくれたあの穏やかな表情は、裂傷と内出血に覆われていた。

 整えられていない無精髭。頬は痩け、目は落ちくぼみ、眼鏡はひしゃげてレンズにはひびが走っている。そして彼を死に追いやろうとしている銃創が三つ。

 胸に二発、頭に一発。幸いなことに、胸の銃弾が心臓を逸れていた。頭部に撃ち込まれた銃弾も頭蓋骨によって弾道が逸らされたようだ。この幸運は偶然ではない。

 彼が首に掛けている幸運の石(ラピスラズリ)のペンダントが砕けている。幸運の呪い(まじない)が込められていた筈だ。

 横たわる男は見るも無惨な姿だが、魔術師らしい悪あがきの痕跡は間違い無く――。

「ええ。エギルで間違い無い」

 今の言い方は少し冷たすぎるだろうか。言葉にしてから自身の冷淡さに気付く。誰も気にしていないのに、何故か自分が動揺していた。

「ポーションは使えるか?」

 クリスが医療チームに訊ねるが、彼らは沈痛な面持ちで首を横に振る。

「この状況でポーションを使えば『回復死』の可能性があります。体力を相当消耗しているでしょうし、傷が回復するまで身体が持たない。とにかく病院に運ばないと」

「わかった。速やかに移送しろ」

 医療チームによって運び出されていくエギルを見つめながら、ふと思い出す。

「彼の娘はいないの?」

 最初にエギルを発見したエリックに尋ねるが、彼は申し訳なさそうに首を振る。そして、隣の部屋を指さした。

 意味する所を察して、煮え湯を飲まされた気分になる。

 エギルは辛うじて息があるものの、回復の見込みは無い。もう一人の証人となり得た娘のケイは既に手遅れだった。彼ら家族をこの国に亡命させた当事者としては、流石にやり切れない気持ちになる。

 これまで手繰り寄せてきた犯人への糸口がここで途切れた。

 犯人一味はエギルを何らかの目的で誘拐し、既に用済みとなったから撃たれたのだ。加えてあの罠。このままでは、次に犯人が尻尾を出す頃には後手に回ることになる。

 それでも成果はあった。

 捜査の手が及ぶことを見越したタイミングの良さは、保安局の水漏れを示唆している。この強制捜査は犯人側にとって予期せぬ事態だったと見て良い。

 エギルの処理が中途半端である事がその証左だ。

 捜査を遅らせるつもりなら、彼をこの場に残す愚行を冒す道理はないのだ。それが仮に遺体だとしても、攪乱したければエギル捜索を続けさせるように仕向けた方が、捜査の手が届くまでの時間を稼ぐ事ができるからだ。重ねて、エギルはまだ生きている。それだけで、死亡確認すら行なう暇が連中には無かったことがわかる。

 となると次が重要だ。

 保安局のスパイを更に揺さぶる。この時点で自分は危険因子と見なされているだろう。次の手を打たせる前に行動するしかない。二の手三の手を繰り出し、敵を出し抜く。

 そっと現場から離れて、誰にも気に留められる事無く店を出た。

「ドナルドソン」

 さあこれからという所で呼び止められてしまう。振り向けばそこにはクリスが居て、またお小言の予感に少しウンザリした。だが、意外な言葉が返ってくる。

「エギル・ローエンは残念だったが、まだ希望が失われたわけじゃない。当初の目的の達成にはほど遠いが、次も期待している」

 だから気を落とすな、とどうやら気遣ってくれたらしい。てっきり毛嫌いさせているとばかり思っていたが、部下のメンタル面を管理するだけの余地は心に空けているようだ。

 穿った見方が常のアリシアだが、ここで素っ気なくするほど子供ではない為、僅かに笑みを作って頷いた。

「ごめんなさい、少し疲れたみたい。いったん戻るわ」

「ああ、わかった」

 エギルと旧知の仲である事を考慮されたのか、その気遣いを利用しない手はない。

 これで自由に動くことが出来る。彼の良心を利用するようで気が引けるが、それで気に病んでいては工作員は務まらない。

 真夜中の大騒動に目を覚まし、野次馬と化した付近の住民達の人垣に紛れ込む。

 アリシアは夜の街へと姿を暗ました。


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