魔女アリシアと秘密警察 (1)
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ご不便ご迷惑おかけいたします。2016/10/18
魔女アリシアと秘密警察
1
冷たい夜風がロンデニオンの街路を吹抜ける。
今日また一つ歳をとったエギル・ローエンは、寒さに首を竦めながら家路を急いでいた。
四三になるこの身体は、年を追うごとに衰え劣化していく。その抗えぬ現象を実感するのは、鏡に映る顔に刻まれた皺であったり、毎朝、新聞と睨めっこする羽目になったときなど、日々の生活から肌身で感じていた。大学の召喚魔術の講師という職業柄、身体を使う事が殆ど無いために、最近では立って歩くことすら億劫だった。
だがそんな不便も、この国――『アルビオン王国』では美徳であるとされる。
『歳を取る』のではなく『歳を重ねた』のだ。
「生きてきた軌跡を愉しむんだよ、エギル」と教えてくれたのは今居るロンデニオン大学で教鞭を執る六〇半ばの教授だった。
それからというもの、老いていく身体を楽しむようになった。それだけではなく、時間の流れに変転する世界を観測し、体感する経験に高揚を覚えた。ついこの間まで喃語を発する赤子だった子供達の成長も、自身の価値観に影響を及ぼしているだろう。
歳を、時間を積み重ねる事は面白いのだ。
「もう、三年も経ったのか」
思い返せば早いもので、自分がこうして普通の生活を享受できるのもこの国のお陰だ。魔術の禁忌に触れたと濡れ衣を着せられた自分を助け出し、家族共々亡命させてくれたのだから。それだけでなく、職場まで用意してくれた。今でも感謝の念を禁じ得ない。
ふと、風に流れる金糸の髪が脳裏に甦った。
あの少女は、どうしているだろう。自分を救ってくれた彼女も、今は大人になっているはずだ。工作員という危険な仕事に携わっていた時分、その後も大事なければ良いのだが。
詮無いことに心を砕いていると、もう自宅の前だった。
特別な記憶に封をして、新たな生活に帰る。今日は自分の誕生日だ。家族がお祝いの準備をして心待ちにしている。微かな不安と言えば、遊び盛りの子供達が体力を夜まで温存してくれているかどうか――それだけだったのだが、見慣れぬ馬車が自宅の前に停まっていた。
「誰か来ているのか?」
訪問客の予定など聞いていないエギルは訝しみ、その黒塗りの馬車を調べた。
車体にはその所属を示す会社の登録番号とロゴがあり、不審な物ではないが、御者が居ないのは不自然だった。
所在なさげに佇み小さく嘶く馬を撫でながら、家の窓辺から漏れる微かな明かりに目をやった。家族は起きている。特に何も変ったところはない見慣れた我が家だった。
玄関に近づくと、男達の笑い声が聞こえてきた。
その陽気な声に吊られてほっと胸を撫で下ろした。きっと大学の関係者だ。教授や同僚が自分の誕生日を聞き付けて祝いに来てくれたのかもしれない。だとしたら待たせてしまって申し訳ないなと、苦笑しながら扉を開き――エギルの表情は凍り付いた。
玄関を開けた目の前の廊下には、五歳になる息子が無残な姿で横たわっていたのだ。
「アラン? ああ、そんな――」
エギルは慌てて駆け寄ると息子の身体を抱え上げようとするが、力無く垂れ下がる頭を愕然と見つめた。顔面には痛々しい殴打の痕が残され、鼻はぐにゃりと拉げている。頭を支えようと手を差し伸べれば、歪な凹凸が頭蓋骨の陥没を伝えてくる。
脈は既に無く、身体は冷えきり、我が子は絶命していた。
エギルは静かにアランを床に寝かせると、小さな手を胸の前で組ませた。
不思議と涙は出なかった。悲しくてしょうがない筈なのに、胸に芽生えた感情は燃えさかる怒りだ。報復心が燎原の火の如く内に広がり、身体が熱い。
我が子を殺めた暴漢どもへの殺意に誘われ、耳障りな嗤いが起こるリビングを目指す。
半開きにされているリビングの戸の前に立ち、隙間から中を覗き込む。
飾り付けられた室内に立ち篭めるタバコの煙、散乱する空のワインボトル、食い散らかされた料理。すべてがエギルの誕生日を祝う為に整えられていたはずのものだった。
幸せだった日常が蹂躙されている。
犯人は何処だ。狭い視界から子細に観察をしていくと、中には三人の男達居るようであった。集団強盗である。殺してやりたい衝動で頭がどうにかなりそうだったが、彼は理性を働かせ、状況の把握に努めた。
視界の片隅に蠢く物がある。赤い染みがべったりと付着した麻袋だった。立ち位置を変えてその全容を把握した。
汚らしい風貌の見知らぬ男がズボンをズリ下げて、裸体の女にのし掛かり腰を打ち付けていた。この家に成熟した女性はエギルの妻、ミコットしか居ない。
「貴様ァァアッ!」
今度こそ理性が吹き飛んだエギルは部屋の中へと飛び込んだ。
突然の襲来に身動きが取れなかった強盗達を睨み付け、エギルは怒りで心を燃やした。それは生命と空間を満たす魔術の源――『マナ』にも伝播し、彼の憤怒が具現化されていく。
怒りの権化と化した炎が大蛇となって、非道なる強姦魔を呑み込んだ。男は炎の奔流に嬲られて悲痛な叫び声を上げながらのたうち回る。
その光景に恐怖した二人の強盗は恐れ戦き後退る。そんな連中を睨め付けて、エギルは悲しみに暮れた。こんな何の価値もない様な人間にどもに息子を殺され、妻を陵辱されたのかと思うと、たとえ天地を引き裂いたとしてもこの怒りを晴すことなど出来ないだろうと確信する。無念だけが胸を締め上げる。せめて――。
「魔術師の家に手をだしたこと、後悔して死んでいけ」
そう言った矢先に、違和感が身体を突き抜ける。周囲のマナが急速に失われて行き、身体からも抜け落ちてく怖気が背筋を伝う。炎は勢いを弱め、瞬く間に収縮して消滅した。「何だ……どうして――」
こんな事あり得ない。マナが消えてしまうなんて事はあってはならない現象だ。マナとは世界を満たすもので、決して失われることの無い『理』だ。
当惑していたエギルに、今度は強盗たちが好機と見て襲いかかった。彼は殴り倒され、踏みつけられ、徐々に亀のように丸くなって身を守るしかなくなった。
そこへ新たな声が飛び込んでくる。
「おい、その辺にしておけ。止めろ、止めろってんだよ。殺したら意味がねえだろうがよ。まったく嫌だね、躾のなってないチンピラは」
声の主は強盗たちのリーダー格なのだろう。エギルを袋叩きにしていた手が止まり、悪態を吐きながら離れていく。
エギルはどうにか身体を起こすと、切れた瞼から滴る血を拭った。いったい何ものなんだと声の方を振り向いた。
そこには両手を縛られ猿ぐつわを噛まされた愛娘のケイが、大柄の男の横に立っていた。「ケイ! 良かった、無事だね。わかるか? 父さんだ。大丈夫、大丈夫だよ」
ケイの表情は怯えきっており、目には泣きはらした跡が残っていた。
この惨劇の中、良く生きていてくれたとエギルにも涙が溢れてくる。
父親の声を聞いて安心したのか、恐怖に凝り固まっていたケイはビクリと震えてからくぐもった声で泣き始めた。今すぐにでも抱きしめてやりたいが、この状況ではそれも叶わない。このまま一家そろって惨殺される可能性はまだ消えていないのだ。
「頼む、娘だけは助けてくれ! 私はどうなっても良い。頼む、頼むから娘だけは」
エギルは床を這って進み、男の前にひれ伏した。どれほどの醜態を晒そうとも構わない。我が子を助けたいその一心でエギルは懇願した。
涙を流しながら希い、顔を上げた。
そこで男の全身を改めて視界に収め、その顔を見ると絶句した。
らくだ色のトレンチコートの前をはだかせ、芯の通った大柄の体躯は歴戦の戦士を彷彿とさせる。無精髭を生やした口元は肉食獣のような凶暴さが滲み、鋭い眼光は猛禽類を彷彿とさせ、短いざんばら頭が男の気性を顕わしていた。
そして、右目の周囲に刻まれた禍々しい傷痕。
エギルはこの男を知っていた。
「なん、で、何でお前が……」
男は棚に置かれていたパーティーハットを徐に手を取り、それを被ってニヤリと笑みを浮かべる。
「覚えていてくれて嬉しいなぁ。ちょいと、あんたの手を借りたくてね。なに、難しい話しじゃないさ。こんな陰気な場所で話しもなんだし、一緒に行こうか。そうすりゃこの子も寂しくないだろう? まあ、とりあえず、あれだ。ハッピーバースデイ、先生」