魔女アリシアと秘密警察 (15)
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ご不便ご迷惑おかけいたします。2016/10/18
15
アリシアは階段を駆け上がり、二階フロアを突き進んだ。ここでも凄惨な光景が目に飛び込んでくる。一階のエントランスよりも、やはり常勤の職員達が多いらしい。彼らの殆どは背広組みの非戦闘員だった。誰も彼も容赦なく殺され、男も女も関係なかった。どれほど深い憎悪を抱けばこの諸行に至るだろう。だがこの無慈悲な光景を見て改めて思う。彼らテロリストの正体や動機などはもはや知る必要など無い。掛け値なしの地雷を踏み抜いたのは向こうだ。今から善行を積んだところで死刑は免れないし、裁判を待つつもりも無い。あの世への直送便はこの場で銃把を握る者にのみ手配を許されている。
あの狂人共々、みんな仲良く地獄へ叩き落してやる。
気づけば二階での銃声が止んでいた。嫌な予感に突き動かされ、警戒を緩めず足早に通路を進む。そしてもう一つ気づいた。肌に感じる妙な気配。これはマナの微振動だった。ここら一帯のマナが回帰しているのだ。きっとあのマナを封じる奇妙な手榴弾の効果は永遠ではないようだ。残念なことにハティを喚び出すには到らないが、魔術も期待できる。
その矢先、角を曲がってすぐのところに多くの死体が転がっていた。保安局警備部の護衛のようだった。見れば彼らの中には銃を手元に落としている者も見える。
「慧眼ね。残念だったみたいだけど」
そしてその中腹に当たる通路の奥にバリケードを確認し、そこから覗き込んでいる顔があることに気づいた。すぐに銃弾が飛んできて、慌てて壁際に身を寄せる。
応射を試みるが、敵は立て篭もる腹積もりのようだ。その数も二人以上が居ることを確認できた。攻めるには火力も足りず、通路も狭い。迂回するか――。
脳内でこの場を攻略する様々なシミュレーションを行っていると、足元の死体が喋った――否、辛うじて生きている者が居たのだ。
「お前、警察か?」
「あんたと同じよ。もうすぐ応援が来るから大人しくしてなさい。名前は?」
折角の発見した生存者だ。どうにか生かしてやりたいと思い、励ますつもりで名前を訊いた。
「……マーカスだ。ブレイコット卿はこの先の部屋にいる。奴らに抑えられて、もう時間が無い。何とかしてくれ」
マーカスという警備部の護衛は息苦しそうに情況を伝えてきた。床に広がる血の量を見る限り、早いところ治療しなければ危険な状態だった。銃創は分かるだけでも四つ。どれも胴体を穿っている。ポーションが必要になるものだった。
「喋らなくていい、体力を残しておきなさい。今ここを突破する手を考えてるから。マナが戻ってるし、魔術も使えると思う」
懐から魔術師としての小道具を取り出した。〈簡易術式陣〉の紙やチョーク、それにオイルライターの火打石だ。碌な物が揃っておらず頭を悩ませていると、マーカスが消え入りそうな声で話しかけてきた。
「魔術師なのか?」
「珍しくも無いでしょ」
「だったら俺を使ってくれないか。もう……血を流しすぎた。目の前が暗いんだ。魔術師なら、何かあるだろ」
俺を使え、と懇願するマーカス。それは命を差し出すと言うことなのだろうか。その真意を確かめるべく、身を乗り出して彼の目を覗き込んだ。
「死ぬけど、いいの?」
「もう……もたない。頼む」
「わかった」
死の間際に自棄を起こしての判断なのかもしれない。だがここは彼の名誉を立てるべきだ。瀬戸際に立ち、選び取った男の決断をアリシアは掬い上げることに決めた。
チョークを掴むと、素早く床に円を描きだす。ここに簡易的な祭壇を設置し、マナの流動を高める為と、自分の能力を超えた魔術を行使するのに必要な処置だ。
マンホール大の円に連なる形で手のひらほどの円を描く。それぞれに意味を付加された古代精霊文字を書き記し、それは陣となる。ここに複雑な幾何学模様を書き足すことによって、マナの循環系が形成され、ものの一分で高度な『召喚術式陣』が完成したのだった。
マーカスの血を指で掬い取り、術式陣の中央に印を記す。それから既に意識が失われつつある彼を抱き起こして陣の上に寝かせた。
「あなたの意思は無駄にはしない」
そして、召喚術式陣から分岐する小型の起動陣に手を載せた。
その数秒後、術式陣から煙が立つように粘り気のある瘴気が漂い始める。不穏な気配が放散され始め、瘴気の濃度が高まると術式陣が赤く発光。負の力場が形成される。途端に黒い霧が吹き上がり、同時に術式陣から突き出た亡者の腕がマーカスの背後から身体を貫き、彼の心臓を掲げたのだった。次々と術式陣から黒い腕が伸びて彼に巻きつき、もはや生前の姿は確認できない。マーカスだった物は術式陣によって繋がった異界へと葬送され、跡形も無く消えてしまった。
アリシアが執り行ったのは召喚術の一種。その中でも禁忌とされる《魔族召喚》だった。
瞑約に基づく全ての工程が終了し、異界の門が開け放たれる。
悪しき者が、その姿を現した――。
全身の皮膚が腐敗し、所々で骨を外気にさらす異形の眷属。地獄の番犬とも名高い獰猛な魔族《黒妖犬》だ。
見るからにして醜悪極まりない怪異の召喚は敵に対して絶大な効果を示すだろう。悪しき存在である魔族をテロに転用した彼らならば、その脅威を推して図るのは容易だ。敵の断末魔こそ、姿を変容させ、狂化によって魂を堕したマーカスへの手向けになるはずだ。
妖気を漂わせ現界に身体を打ち振るわせるその狂犬。ハティほどではないにしろ、人を畏怖させるには十分な巨体だ。頬肉が腐り落ち、剥き出しとなった乱杭歯が唾液を振り払いながら開かれると――こちらに襲いかかってきた。
「クソッ! 違うッ、馬鹿犬! 敵は向こうだ!」
これが《魔族召喚》を禁忌とする理由の一つ。彼らは決して人に従うことがない。ただ命を貪る為だけに存在している。この身を喰らわんとする魔犬を足で追いやり、通路に何とか追いやった。何かが現われた事で反射的にテロリスト達が銃爪を絞る。
放たれた弾丸は幾つもヘルハウンドの身体を穿ち、狂犬は蹌踉めいて――ようやく敵を認識した。自ら注意を引いてしまった事にも気付かず彼らは射撃を続けた。弾丸が飛び交う狭い通路――しかし、大型の四足歩行動物がやってのける俊敏さで、床を疾走してみせた。床を滑るように滑走し、壁に脚をつけると重力から解き放たれたように壁から天井、そして壁へと縦横無尽に走り抜ける。瞬く間に接近すると、天井から彼らに飛びかかる。
「うわっ、あぁあああッ――っ!」
男は組み敷かれると、凶悪な牙で肩口に喰いつかれ、ゴッソリと肉が抉り取られてしまう。彼らが断末魔と悲鳴を上げ、狂騒を演じている隙にアリシアは飛び出した。駆け込みながら発砲し、バリケードから出てヘルハウンドに気を取られている男を射殺する。向こうは向こうで有りっ丈の弾を狂犬に叩き込んでいた。悪しき者がその短い命を散らせる頃には、彼女も間近に迫っていた。
勢いそのままに銃弾を叩き込みながら男を蹴り倒すと、バリケードに最後までしがみついていた男がナイフを抜いた。
邪魔するな――。
アリシアは突き出されたナイフをカウンターで奪い取ると、男の腹に刺突を繰り返し、トドメとばかりに首に突き刺しながら男ごと壁に突進した。
バリケード帯の制圧が終ると、息を整える間も惜しんで走り出す。障害は叩いて砕くが信条。もう何が来ようと、止まるつもりなどない。薄ら笑いを浮かべる憎たらしいあの男の顔面に鉛弾を叩き込むまで、安息は無い。
渦潮に巻き込まれ、深く冷たい海底へと引き込まれるようにアリシアは導かれて行く。終局が近づき、狂気を誘う甘気は一層強く香り立っていた。