魔女アリシアと秘密警察 (12)
分割しました。
ご不便ご迷惑おかけいたします。2016/10/18
12
目が覚めると勾留室に居た。この部屋も随分と見慣れたもので、三日前にマスタングが用意してくれたタウンハウスの一室よりも遙かに馴染みある場所になっている。
最後に覚えているのはクリスの足が目の前に飛び込んでくる光景だった。お陰で首の筋を痛めたらしく、煩わしい鈍痛が広がっていた。
それ以外は両手を後ろでに拘束され、銃も没収されているようだ。
なんとか身体を起こすと「もう起きたのか」という神経を逆なでする男の声がした。
「君は動物並の危機察知能力があるみたいだな。大したものだよ」
見上げればちょうどクリスが椅子に腰掛けるところだった。この男を前に気を失っていたという状況に怖気が走り、自分の身体に異常がないか見回した。着衣の乱れも身体の違和感も特になく、無事のようではあった。
「あたしに何かした?」
不快感を露わにしながら朴直に尋ねると、彼は口を歪ませてニヒルな笑みを浮かべた。
「まだ――何もしてないよ」
これからするんだ、そんな魂胆が丸見えだった。
「どこであたしがレインの家に居る事を知ったの?」
「聞いたのさ。あの哀れなゴブリンにね」
それを聞いた瞬間、底冷えと共に、胸が締め付けられるような痛みに襲われる。自分の稚拙な判断が招いた結果だ。もっと綿密に計画を立てて、協調を密にしていれば仲間がこんな奴の手に掛ることも防げたかも知れないのに。
悔やんでも悔やみ切れず、奥歯を噛み締めた。
「ディンゴに何をした」
「終わったことだ。知ってどうなる話しでもないだろう」
その意味を悟り、視線で射殺さんばかりの殺気を籠めてこの憎い男を睨み付ける。
「恐いな、その目。捜査官の物ではない。君が優秀かはさておき、有能であること今回の件で良くわかった。せっかく起きたんだ。何処まで知ったのか聞かせてくれないか」
悠長に会話を楽しもうとする余裕が感じられた。何かを探ろうという魂胆があるわけでも無いだろう。その必要は無いのだから。真意が何処にあるのかわからない。ただ、無抵抗の女一人を嬲る為に時間を割いているとしたら、その浅はかな考えを後悔させてやる。
「あんたはアステルスの内通者だ。レインの想いを利用して、散々捜査を妨害した。その挙げ句、バルドゥの死の偽装に荷担した。エキュア街に旅団が逃げ込む事も、あんたが一人で追跡することも、全部シナリオ通りだったんでしょ。そしてバルドゥはいま、エキュア街にあるアステルス大使館に潜伏している」
「ふむ」ねっとりとした声音でクリスは感心したように頷いた。思案気な様子で顎に手をやり、やがて深いため息を吐いた。
「やはり君は危険だな。もっと早く手を打つべきだった。お陰で良いように使える女を手放す羽目になったんだ。ああ、でもこれは君の所為だな。余計なことをした所為で、彼女は幸せを掴み損ねてしまったんだから」
暗にレインもその手に掛けたと言っている。いちいち癪に障る男だ。
「あんた達の目的もわかった。ブレイコット首相の暗殺だ。大方、さっきの手紙は首相官邸の警備シフトや配置なりを報せる内容だったんでしょ。保安局は政府直下組織。警備部の情報くらい、あんたの立場なら手に入れられる。それこそ、嘘八百を並べ立てレインを利用して、調べさせる事も出来たでしょう」
アリシアの推理を聞いていたクリスは徐々にその口元が緩くなり、終いには態とらしく拍手を打ち鳴らしながら賞賛した。
「素晴らしい! アステルスというだけで、首相の暗殺まで見通したか。いや、バルドゥ・グスタフから漕ぎ着けた答えか? 何にせよ良い嗅覚をしているな、ドナルドソン」
「ここまでやって、生きてこの国から出られると思わないことね」
「ああ、恐い国だ。だから捨てたわけだが。この国の全てが心底肌に合わなくてね。いつまでも古い習わし固執する官僚や政治家、そして王室から国民に至るまで。うん、魔術師など尤もたる例だな」
クリスは唐突にアリシアの腹に蹴りを叩き込んだ。
「ウぐッ――」
「お前のような魔女は、人様の目に触れないよう暗がりを歩くべきなんだ。だと言うのに、お前達は何処にでも湧く。社会のありとあらゆる場所に発生しては、汚染していく。自分たちの生活圏を守る為に周囲を腐食させていることに気付いていない」
落ち着いた語りとは裏腹に、クリスはアリシアに暴行を加えてく。その都度、短い悲鳴が部屋に響いた。何度も何度も執拗に繰り返される暴力に、彼の口端が歪につり上がる。
悲鳴を愉しみながら、クリスはアリシアをボールか何かのように足蹴にしながら壁際に追い詰めていった。
「その小綺麗な顔は勘弁してあげよう。言い訳が立たなくなる」
こんな奴の前で無様な醜態を強いられるのは屈辱だった。喘ぐように息を零しながら、脳が焼ける程の怒りがこみ上げてくる。
「そろそろ彼らも動く。終わりにしよう。帝国の終焉と共に、古き者である君も終るんだ」
「アルビオンは、首相一人が死んだところで終ったりしない」
その言葉が琴線に触れたようで、クリスは高笑いした。
「おめでたいな、ドナルドソン。政治は苦手か? ブレイコット首相は政権の維持に苦慮しておられる。財政難に加え、世界市場が新世主義に流れ始めている今、世論や野党のみならず与党内からも彼に対する疑問の声が上がる始末さ。国策を見直す必要性が唱えられている昨今、タカ派のブレイコットは孤立しつつある。だからこそ彼は、エルフ達と共に神秘主義の復権を掲げようとしているんだ。新世主義を世界から締め出す市場の流通規制を各国に強要させる腹づもりだ。軍事的優位がある今の内に手を打とうという算段さ。なんて野蛮な国だ。叛意を見せれば直ぐ暴力。君と一緒だな」
「そういう訳だからブレイコットには退場してもらう」上機嫌に滔々語ったクリスは万年筆を取り出してひけらかしてくる。
「これは君が隠し持っていた物だ。そう言うことにする」
万年筆のキャップを外すと、そこにあるのは鋭く尖った突起物。アイスピックだった。
「これで君は私に襲いかかってくる。だが私は懸命に抵抗する。その結果、君は死ぬ」
「そんな三文芝居、直ぐに見破られる」
「少し時間が稼げればそれで良い。明日の今頃は、アステルス行の船上でワインでも傾けているからね。向こうでの役職も用意されている。私は勝ち組さ。古い君と違って、私は新人類なんだ。では、お別れだね。楽しい時間をありがとう」
クリスはその表情を狂気に染めてアイスピックを振りかぶる。アリシアは壁にもたれ掛かりながら、虚だった目を眇めて敵を見定めた。右足の踵で床を二度打つと、靴のつま先からナイフが飛び出した。
そして慢心に浸り、不用意に近づいたクリスの足首に仕込みナイフを突き刺してやった。彼は予想外の反撃にバランスを崩し壁に手を突きながら膝を屈した。
「ドナルドソンッ、貴様――」
クリスが再びアリシアに視線を振り向けると、既に彼女の左の足が顔面に迫っていた。
二枚目の顔が衝撃に歪み、クリスは鼻血を吹き出しながらもんどり打った。もはや容赦の余地など無い。この男への恨みで怒髪天だ。仲間に手を出したこと、女を道具程度にしか思わない傲慢、そして腐った性根と、鼻持ちならない自尊心を粉砕する。
形勢逆転されて無様にひっくり返ったクリス。その股間目掛けて、アリシアはナイフが突き出たつま先で蹴りを入れた。
「――――ッ!!」
声にならない悲鳴は確かに届いた。でもこれで憂さが晴れる訳がない。のたうち回って逃げようとするクリスへ追撃の手を弛めない。彼の股間を目掛けて何度もナイフを突き刺した。その度に男の情けない悲鳴が上がる。意趣返しを喰らった彼の股間は夥しい出血で真っ赤に染まり、自分の靴も血に塗れていた。
つま先のナイフが砕けるまでこの報復は行なわれ、クリスはショックで気絶した。
アリシアが息を荒げながら女の敵を見下ろしていると、ドアが強く叩かれた。
「大丈夫ですか!? いますごい悲鳴が聞こえましたが。ローブ捜査官!」
恐らく人払いの為に遠ざけられていたであろう警備員も流石に気付いたようだ。
まずは後ろ手の手錠。これは足を潜らせて前に出す。このままではまた警備に捕まる。
何かないか見回して、クリスが取り落としたアイスピックを拾い上げた。
「おい、鍵を!」
直後、鍵が開く音が聞こえ、ドアの影に周り込んだ。
二人の警備員が勾留室に入るなり、クリスの有様を見て驚愕した。
「なんてこった……」
一人がクリスに駆け寄り様態を確かめている隙に、もう一人の警備員の首に手錠を回した。抱きつくように身体を詰め、そのまま首投げに移行する。強引な体勢だったが、警備員の身体は一回転して机に叩きつけられた。丁度良い位置に頭が来たことで、肘を入れて昏倒させる。
クリスに駆け寄った警備員も直ぐに異変に気付いたが、アリシアの方が速かった。彼の振り向きざま、顔面に蹴りを叩き込む。床に突っ伏す前に襟を掴んで引き寄せると、これを人質にして廊下へと出た。
隠密行動によって局を脱する事はほぼ不可能だ。どのルートも必ず人目に止まることは必至。そして案の定、廊下を出た時点で既に数人の局員が騒ぎを聞き付けて居た。
事ここに極まった今、死中に生を求める以外に道はない。局員達が驚きと混乱で後退る今が最初にして最後のチャンス。懸命に足を進め、人質を急かし、局員達を威嚇した。
一連の行動によって極度に興奮が高まり、混乱しそうになる自分自身を理性の手綱で懸命にぎ止める。そうしなければどうにも打開できそうに無かった。
保安局は蜂の巣を突いたような騒ぎとなり、局員達が続々と集まってくる。
初動で距離を稼いだ事が功を奏し、どうにか階段までたどり着くことが出来たが、そこでもたついたのが良くなかった。
ロビーまでは強行することが出来たが、もう先が見えない。
アリシアは保安局のロビーで背後を取られまいと牽制を続けていたが、遂に壁を背中にした状態で追い詰められてしまっていた。
「聞いて! ブレイコット首相が狙われている! またテロが起きる! 今すぐ首相官邸に部隊を派遣して!」
これに対応したのはエリックだった。彼の右手には術式杖、左手は挙げていた。
「おいおいおい、落ち着け、話はわかった。まず人質を解放しろ。それから話しをしよう、な? 今の状態じゃ誰も聞き入れやしない。それくらいわかるだろう?」
「出来ない! あんた達はクリスに騙されている。あいつはディンゴを殺して、レインまで手に掛けた! バルドゥ・グスタフと共謀してテロを引き起こした裏切り者よ!」
「言ってることが滅茶苦茶だ! ドナルドソン、お前は今混乱してるんだよ。その凶器を手放せ! 話し合いが出来ている内に人質を解放するんだ」
息が上がる。周囲の目が恐い。皆が異常者を見るような目を向けてくる。
誰も自分を信じてくれない――信じさせる事が出来ない。
そこへ追い打ちを掛けるように、金切り声が上がった。
「殺せ! その魔女を殺せェエッ!」
それはクリスだった。局員に肩を貸されながら辛うじて立っている。ポーションを使って一命を取り留めたのだろうが、酷い形相だった。髪は乱れ、額に脂汗がこびり付き、衣服は血まみれだ。彼は周囲の目を気にする事無く「殺せ」と叫び続けていた。
「待て、待てよクリス。お前も落ち着け!」
「そいつはテロリストの仲間だ! 俺を見ろ! あの魔女がやったんだ! レインを殺したのもディンゴを殺したのもその魔女だ! 奴を局から出すな! ここで殺せェ!」
口角泡を飛ばし、その目を狂気に染めた彼に対して周囲の者たちはギョッとする。
混乱が益々加速したその時、アリシアを囲む輪の中に一人の男が歩み出てきた。
「俺に任せてくれ」
そう言ってトトが向ってくる。彼は拳銃を自分に向けながらゆっくりと歩み寄って来た。
真っ直ぐな瞳が自分の双眸を捉えている。昼間の楽しい一時が随分と昔の出来事のように感じてしまう。彼も、他の者たちと同じなのだろうか。その銃で自分を撃つのだろうか。
しばらく互いに見つめ合ったその時、彼は口を開いた。
「急がなきゃならないのか?」
「――ええ。バルドゥは、猶予をくれるような奴じゃない」
「お前一人で大丈夫か?」
「行かせてくれるのなら、やってみせる」
「わかった」
トトは笑みを零し、その大きな背中でアリシアを護るように術式杖の射線を塞いだ。そして、彼女の手錠を外してやった。
「本当は俺が行ってやれば良かったんだけどな。お前をここに残す方が危ないみたいだ」
だが当然、クリスはその行動を非難して吠え立てた。
「トトォ! 何をしている! そいつは殺人犯だ! お前も共犯になるつもりか!」
自分の立場を危険に曝しても尚、トトは揺らぐことはなかった。肩に掛けていた鞄をアリシアに手渡す。彼女も状況の整理が追いつかず、唖然とした様子で鞄を受け取った。
「お前の装備が入ってる。行ってこい。ここは俺が受け持つ」
言うや否や、トトはアリシアから強引に人質を引き継ぐと、天井に向って発砲した。
「つーわけだ! 悪いなぁクリス。俺はアリシアに賭けるぜ」
これは誰も予想することが出来なかった。クリスの様子もおかしいが、この状況事態異常だった。誰の言うことを信じるべきなのか、心の置き場に困り果てた彼らは立ち尽くす他無かった。
「トト、ありがとう」
「お安い御用だ。ただ、恩返しがしたいなら週末のデートで頼むぜ。色つけてくれよ」
ただの食事のつもりがデートになってしまった。だが、この際それも有りだ。
こんな状況だというのに、意外と抜け目ない彼に思わず笑いそうになってしまう。
「ええ、考えとく」
親愛を籠めてそう答えると、アリシアは走り出した。クリスの叫び声が呪いを振りまく断末魔のように響き渡る中、保安局の外へと脱出に成功した。
一人残されたトトは大勢の局員を相手取り、アリシアの後を追わせないように顔見知りの警備員に銃を突きつけながら立ち回る。後先考えない無謀な行為に邁進しながらも、不思議と気持ちが高まっている。アリシアに感化された所為か、それとも惚れた弱みか。絶望感に勝る感奮に高揚を禁じえない。彼女は守るに値する女だし、自分の趣味を捻じ曲げても気を引きたいイイ女だ。男を上げるならここしかない。
「お前ら動くんじゃねえぞ! 我慢大会だ!」
∴ ∴
保安局の外へ出て、幅広のアプローチを駆け下りていく。
辺りはすっかり暗くなり、人通りも疎らだ。だが同時に足となる馬車の姿も無い。
急がなければならない。トトが作ってくれた時間を無駄にしないためにも、何としてもテロを阻止しなければならない。
馬車が無いなら頼れるのは自分の足だけだ。無い物ねだりをしている時間も無ければそんな余裕も無い。動き続ける事――。それこそ自分が敵に先んじて機運を得る唯一の方途だった。
弱々しく点る街灯に導かれるよう夜の街を走り続けた。すると、一台の自動車が角から現われる。その車は猛スピードでこちらに迫り、ターンをしながらアリシアの傍に横付けしてきた。ドアが勢いよく開けられ、車内に居たヘイリーが叫ぶ
「早く乗ってください!」
なぜ車に乗っている? 運転できたのか? 何処から持ってきた? 他にも様々な疑問が噴出するが、兎にも角にも行幸だった。車内に飛び込むと、車は直ぐさま勢いよくエンジン音を轟かせて急反転。タイヤを鳴らし、砂埃を巻き上げながら走り出した。
「アリシアさん、遅くなってごめんなさい。一人でもやれることが有ると思って色々動いてみたんです」
釈明を口にするヘイリー。だが謝る必要なんてどこにもない。それを伝えたかったが、上がった息を整える方を優先させて貰った。
「意識できなかったけど、《念話》の通路、ちゃんと繋がってた?」
「はい。でもノイズが酷かったです。アリシアさんの外部から入った音だから補正が利かなかったのかもですけど。それでも十分です。課長にクリス・ローグ告発に使える資料を渡しました。その説明をしている時に、クリスさんは自分から話してくれましたし。課長の働きかけでロンデニオン市警も動いてくれるそうです!」
一つ肩の荷が下りた。クリスはこれで終わりだ。この手で殺してやりたかったが、これも意趣返し。彼は自らが語った司法によって断罪されるべきである。
トトから手渡された鞄から装備を引き出してあるべき場所に収めつつ、それにしても、と思い運転席に目をやった。
ヘイリー・グレン。彼女の成長が著しい。単独主義から生じた状況に上手く対応し、見事にチームワークへと昇華させている。望まれる結果以上の成果を持参することまでやってのけた。もう彼女は半端物などではないのだ。
「捜査官みたいね。格好いいわ、ヘイリー」
率直に褒められたヘイリーは「えへへへ」といつも通りのふにゃふにゃした顔になった。
「それで、この後はどうしますか? 市警と連携するべきだと思いますけど」
「時間が惜しい。どのくらい進行しているのかわからないけど、クリスはもうバルドゥが動いていることを仄めかしていた。このまま官邸に向って」
「りょうかいデス!」
ヘイリーはアクセルを更に踏み込み、車を全力で疾走させた。
相次ぐ事件に疲れ果てたロンデニオンを労り覆い被さる夜の静寂を、傲然と咆哮を発する重低音のエンジンが打ち破る。落ち着き払った路地を蹴散らすように驀進するその車影は、搭乗者の心象が憑依したように愚直で一心不乱。猛り狂った猛獣そのものであった。