表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔女アリシアと秘密警察  作者: 虹江とんぼ
12/19

魔女アリシアと秘密警察 (11)

分割しました。

ご不便ご迷惑おかけいたします。2016/10/18

11

 ボタン街南西に隣接するテンホール街。この辺りはロンデニオン経済の中心である内ロンデニオンの一部で、都心へのアクセスが容易な上に治安も落ち着いている。基本的に中流階級の者たちに好まれる一帯であったが、その住み心地の良さから上流階級の者たちからも支持を集める人気の街だった。

 そんなテンホールにある住宅地の二戸一棟に、レイン・ハッカーの自宅はあった。

 彼女は浴室のバスタブに張ったお湯に浸かり、ここ数日の疲れを癒していた。仮眠を取る暇すら無かった日々から解放され、大好きな入浴をやっと堪能することが出来て幸せだった。だがあまりに疲労が溜っていた為か、直ぐに意識が遠退いていき、いつの間にか頭で船を漕いでいた。

 それからややあって、湯船の中で気持ちよく転た寝をしていた時である。

 何かが倒れる物音に、彼女の意識は覚醒させられた。

 普段から音には敏感だった。身体の不自由な母親がいつ倒れてしまうか気が気でなく、常にそうした事態を念頭に置いて気を張っている。このテンホールに越してきたのも、生活環境が良く、病院も近いからだった。

 いつもは取り越し苦労で終わり、母親からは「心配性だねお前は」と笑われるだけですむ。でもそうじゃなかったら一大事だ。これまで母子二人で生きて来て、自分にとって母は人生の大部分を占めている大事な人だ。杞憂であればそれで良い。笑われるならだけなら、何度だって笑って貰いたい。

 ちょっと席を立った際に椅子を引っかけて倒したんだろう。その程度に考えつつも、身体は様子を見に行く為に動いていた。バスローブだけを羽織り、リビングに居るであろう母親に声を掛ける。

「母さん? 大きな音がしたけど大丈夫?」

 扉を開けてリビングの様子を確かめるが、そこには誰も居なかった。しかし、揺れるロッキングチェアだけが、先ほどまでそこに誰かいた事を証明している。テーブルの椅子が倒れており、恐らくはこれが先ほどの音の正体だ。トイレでも行ったのか。

 あまりにも静か過ぎて、電球の震えるような音まで聞こえてくる。

 再び物音――。花瓶か何かが割れる鋭い音が、母の寝室がある方向から聞こえてくる。言い知れない不安に襲われる。何が起きているのか、母は大丈夫なのか。

 レインは恐る恐る寝室に近づくと、何かが蠢いているのがわかる。半開きになっている扉の奥から布が擦れる音と呻き声。彼女はゆっくりと扉を開いた。

 薄暗い暗い部屋で真っ先に目に入ってきたのは、ベッドの上に横たわる母の姿だ。だがその有様は異常を示していた。タオルを噛まされた上に両腕を後ろ手に縛られている。

「母さん! なんで、なにがあったのッ――」

 その姿に頭を殴られたような衝撃を受け、ふらつきながらも急いで駆け寄った。だが母は声音を一層高くして首を横に振った。「こちらに来ては駄目だ」まるで涙ながらにそう訴えているように見え、次の瞬間に左膝がガクッと落ちた。

「いッ」

 何者かの襲撃だ。体勢が崩れたところで肩を引っ張られ、強引に振り向かされてしまう。

 そこには廊下の灯りで逆光に立つ人物の姿――アリシア・ドナルドソンが立っていた。

彼女はその手にある拳銃を振り上げ、銃把で殴り付けてきた。


 頭部から血を流して床に倒れ伏すレイン。組織を売った直後だというのに、暢気にも入浴を楽しんでいたようである。羨ましい限りだが、同時に腹立たしい。

 彼女の母親が頻りに叫んでいるが、構わず仕事を始めた。

 虚な様子で顔を上げ、どうにか立ち上がろうとするレイン。それをよしとせず、彼女の腹を蹴りつけて抵抗の意思と機会を削ぐ。まずは立場を教え込こむ。

「母親を殺されたくなければ質問に答えろ」

 痛みで苦悶の表情を浮かべるレインは睨み付けてきた。

「こんな事をして……ただで済むとは思わないことね。ドナルドソン」

 まるで自分に非がないかのような態度だった。冷ややかな視線を返してから、その綺麗な顔を殴り付ける。仰け反ったところで髪を掴むと、そのまま壁際まで引き摺っていく。

「アッぐ、いやァ! やめ、て――ッ」

「お前が保安局を裏切った証拠を掴んだ。もう言い逃れできないわ、レイン」

 必死に暴れて悲鳴を上げる彼女の頭を壁に叩きつけるようにして押さえ込む。そして左手を踏みつけ、喘ぐように吐息をもらす口の中に拳銃を銃身ごと突っ込んでやる。

 苦しさから嘔吐き、大きな瞳からは涙がこぼれている。こちらを見返す彼女の目には、恐怖の色が滲み出ていた。

「レイン、あなたの恐れを感じる。ひどことをしている自覚はあるわ。あたしの事を異常者だと思っている。否定はしない。それでも仕事をしないといけないの。質問に答えてくれるわね?」

 抑揚無く、意識して無感情に耳元で囁いた。これに対し、レインが小刻みに震えながら首肯するのを見てこの場の上下関係が成立したことを確信した。口内を弄ぶようにゆっくり拳銃を抜き取ると、銃にこびり付いた唾液を彼女のバスローブで拭う。

 これ以上騒がれても困るので少しの合間を取り、落ち着いたところで尋問を始めた。

「まず最初に、弁護士会に行ったのはあなたね。これは受付に金を積んで聞き出した情報よ。何故捜査を妨害するような真似をしたの?」

 レインは床に力無く座り込み、バスローブの開いた胸元を締めるように手を握りしめてる。何度か声に出しかけるも、その都度戸惑いを露わにしていた。だが母親と視線が合うと、観念した様子で答える。

「あれは……クリスの指示よ……」

「なん……クリス?」

 思わぬ答えにアリシアの眉間に皺が寄った。

「ええ。犯罪者と言えども、彼らにも人権はある。守らなければならないものだと……」

「だからそれに賛同した?」

「そうよ……でも間違った事をしたとは思ってない。私もそれが正しいと思ってる」

 自分は間違っていない。目を堅く瞑り、頑として裏切った訳ではないと信じ込もうとしているようだ。その話は良くわかったが、違和感が膨れあがってくる。自分の中でレインに対する疑念の足場が崩れ始めている。嘘を吐いている? そうは見えない。もしかすると、とんでもない考え違いをしているのかもしれない。

 続いて、手紙の引き渡し現場の映像を転写した魔法紙を彼女の前に突き出した。

「これもクリスの指示だって言うの?」

 これに対する反応は先ほどよりも大きく、隠し撮りされていた事が衝撃だったようだ。伏し目がちになってしまったレインは頷いた。

「それは……ええ、その通りよ。何度か会って、手紙を渡した」

「あなた、この男が何者かわかっているの?」

 レインは髪を振り乱しながら首を横に振る。

「捜査機関の上級分析官が、捜査中、作戦行動中にとったその行動を、あなた疑問に思わなかったの?」

「……思ってた……思ってたけど――」

 振り絞るようにして声を吐き出すが、恐らく彼女も綯い交ぜになった感情と考えを処理できないで居るのだろう。それ以上を言葉にする事は叶わないようだ。

「クリスに惚れていたから問い詰められなかった? 嫌われて捨てられたくなかった? 婚約していたから? 母親の面倒を看るために、金も職も必要よね。クリスとくっつけば、将来もさぞ安泰でしょうね」

 全てを見透かされたかのような口ぶりに、レインは何も言い返すことが出来なかった。その全てが、確かに自分の中にある物だったから。そうした世知辛い物事が、確実に自身の行動に影響を及ぼしている。

 完全に気落ちしてしまったレイン。そんな彼女を見下ろしながら、アリシアは誤りを確信してしまう。今の自分が苦虫を噛み潰した顔になっていることが容易に想像出来た。

 魔法紙をレインの膝の上に落として、決定的な判断ミスの修正に取り掛かる。

「あなたが会っていたその男は――[血盟旅団]の構成員だった」

 これを聞くとレインは身体を震わせた。

 そして口元を押さえてながら泣き出してしまった。自分が利用されていた事に気付き、自らの過ちと、最愛の人からスケープゴートとして扱われていた事実に打ちのめされる。後悔と悲しみが涙となって止めどなく流れ落ちていく。

 アリシアは自分の浅はかさに嘆息し、レインの顔を両手で包み込んで上げさせた。

「レイン、酷いことをしたわ。ごめんなさい」

 謝って済むような話でも無いが、一旦仕切り直す必要がある。自分がやらかしてしまった傷から流れる血を拭ってやる。

「クリスはあなたの想いにつけ込んでいた。あなたを利用していたの。彼の悪事を曝くわ。協力してくれるわね?」

 涙で真っ赤になったレインの瞳が見つめ返してくる。そこには不安と混乱による動揺が顕れていた。きっと彼女の懸念は母親の事だ。スパイに協力していた自分の末路と、取り残される母親の事を。

「しっかりして。あなたは何も知らなかった。その上で彼に利用されていたの。もし未来を守りたいのなら、あたしに協力しなさい」

 アリシアの覚悟と本気が強い語気となって顕れる。保安局で彼女の言動を見てきたレインも、これまで宙ぶらりんだった信の置き場所を見つけたように頷いた。

 そうだ、そうあってくれなければ困る。哀れみも同情も有るが、ここで奮起して貰わなければならない。自分が追っている相手はレインでもクリスでもない。その先に居る男。

 躓いている暇はない。

 涙を拭って立ち上がるレインに手を貸していると、一瞬だけ意識が遠退いた。

 頭が途端に熱くなり、異物感にくらくらする。これは信号(シグナル)だった。何の変哲もなく空間を満たすマナ、それに波動を与えて意味を付加するもの――《念話》だ。

《アリシアさん、聞こえますか》

 使い魔であるハティを媒介にした擬似的な《念話》の魔術により、遠く離れた場所に居るヘイリーの声が脳内に届けられた。

「聞こえる。どうだった?」

《鳩の行き先を突き止めました。エキュア街、アステルス大使館です》

「――わかった」

 世の中にはわかりたくないものもある。千変万化するのは何も自然だけではない。

 人と人の関係、各集合体、伝統文化、そして国家の在り方とその(まつりごと)。それぞれの価値観が鬩ぎ合い、それぞれの思惑で押しつけ合う。

 馬鹿は善意でそれを広め、阿呆は善意で繋がろうとする。留まる事を知らず、落ち着く事を拒み、思慮深さからは縁遠い脳天気なちんどん屋たち。テーブルの外でさえ繰り広げられる馬鹿と阿呆の絡み合い。

 結局ここに舞い戻った。

 自分も、あの男も、覇権闘争(グレートゲーム)の駒に過ぎないんだ――。

 ならば尚の事、汚物を放置しておくことなど我慢ならない。

《そちらはどうなりました?》

「レインはクリスに利用されていた。黒幕はクリスよ。パスは繋げておくから、あなたは待機していて」

《了解です》

 端から見れば突然独り言を呟き始めたおかしな奴に見えた筈だ。レインが訝しげに尋ねてくる。

「どうしたの?」

「手紙はアステルス大使館に届いた。繋がったわ。クリスのスポンサーがわかったし、バルドゥの動機も見当はつく。連中の目的は――」

 その時、玄関の方で大きな音がした。炸裂音に続き、何人もの足音が迫ってきた。

 何が起きたのかと、咄嗟に拳銃を抜いて戸口を警戒する。しかし――。

 今度は寝室の窓が破られた。ガラス片をまき散らしながら突入してきたのは、ガスマスクを装着した保安局の武装隊員だった。そして彼の持つ術式棍の先端をこちらに向き、眩い閃光と耳を劈く爆音が発せられた。指向性閃光発音術(フラツシユバン)――強い光と音で対象を無力化する際に用いられる攻勢術式の一種だ。

 アリシアは酷い耳鳴りで周囲の変化を聞き取ることが出来なくなり、閃光の所為で一時的に視界を奪われ見当識失調を引き起こしてしまった。更に相手側の攻勢は続き、寝室のドアを蹴破って別の武装隊員が突入してきた。

「う、ぐっ――」

 電撃的な突入作戦によって、アリシアは瞬く間に無力化されてしまった。

 咄嗟に母親を庇ったレインは、何が起きたのかわからずただ怯えていた。寝室という限られた空間に続々と隊員達が押しかけて来る。その中に、澄まし顔でスーツ姿の男が一人居た。

 揺らぐ視界と、のし掛かる男達の体重に喘ぎながらアリシアはその男を見上げて吠えた。

「捕まえる相手を間違えるな! その男はテロリストと内通している! 証拠も有る! 証人も居る! そいつを捕まえろ!」

 声を荒げて猛獣のようにその男――クリス・オーブを糾弾する。だが当のクリスは全く憶することなく吐き捨てる。

「狂っているとは思っていたが、まさかここまでとはな。残念だよドナルドソン」

 彼は哀れみすら浮かせた表情でため息を吐く。正体を知っている身としては、その舞台役者ぶりに感心せざる終えない。どこまで面の皮が厚いんだ。

「君に伝えなければならない事がある。先ほど、エギル・ローエンが死亡した。これで、君は晴れて殺人犯だ」

 そう言って彼は足早に近づいてくると、躊躇無く頭を蹴り飛ばしてきた。

 その一撃でアリシアは昏倒し、意識を失ってしまった。


「ああ……ぁぁ……」

 状況はクリス率いる保安局が圧倒的有利だ。レインは恐怖に慄き身動きすら取れない。

 昨日まで愛しい人であった筈の男が、今ではもう別の何かにしかみえない。こちらを向いて歩み寄ってくる彼が、その柔和な笑みが、悪魔の微笑みにしか見えなかった。

「レイン、遅れてしまってすまない」

 同情的な態度で手を伸ばしてきた彼に対し、防衛本能が働いて平手打ちを喰らわせた。

「近寄らないで! 私を利用していた癖に!」

 クリスの魔の手から逃れようとするが、彼はそれを良しとしない。強引に腕を掴んでくると引き寄せて身動きを封じてきた。

「可哀相に、恐かったんだね。みんな手伝ってくれ。錯乱しているようだ」

 彼の声に反発する者は部隊の中に誰もない。皆、クリスの手練手管の芝居に引っかかっているんだ。ぞろぞろと武装した屈強な男達の手が迫り、いくら悲鳴を上げて暴れても力では敵う筈もない。悲痛な訴えも、精神の異常として片付けられてしまう。

「止めて! はなして! その男はアステルスと内通して今回のテロを引き起こした裏切り者よ! みんな信じて!」

「鎮静剤を打て。余程酷い目に遭ったんだな。怪我までさせられて、剰え母親まで人質に取られた。レイン、もう大丈夫だ。君はもう安全だよ」

「よくも白々しく……やめ、止めて! 皆騙されてるのよ……嫌だ、イヤァ――ッ」

 レインは金切り声を上げて必死に抵抗を試みたが、鎮静剤を打たれると直に大人しくなった。力無く弛緩した状態の彼女が担架へと乗せられる。

「馬車に運べ。彼女と母親を病院へ移送する。そこの魔女は保安局だ」

 速やかに現場の処理が行なわれて連れ出されてしまう状態を、朦朧とした意識の中で見ていた。身体の自由が利かず、声を発しても意味のない吐息になってしまう。アリシアは気を失ったまま何処かへ連れて行かれた。先ほどの突入で気絶してしまった母の様態も気がかりだった。だがそれ以上に、クリス達が恐かった。

 馬車に移されると、外からクリスの声が聞こえてくる。

「二人きりにしてくれ」

 嫌だ。誰か、誰か来て。二人きりにしないで――。

 恐怖に苛まれる中、クリスはいつもと変らぬ優しげな顔で傍らに腰掛けてきた。

 その手には注射器がある。

「やめて……クリ、ス……おねがいよ――」

「保安局に帰ったらドナルドソンを尋問する。少し厳しいものにするつもりだ。その為には、愛する人を失ったという同情を引く動機がなければならない。報復なんて馬鹿馬鹿しいが、彼女は知りすぎたんだ。レイン、君はいつも僕の力になってくれた。また力になってくれるね? 怯えないでくれ、僕と君の仲じゃないか。愛しているよ、レイン」

 クリスはレインの耳元でそう囁きながら、彼女の腕に針を突き刺した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ