魔女アリシアと秘密警察 (10)
分割しました。
ご不便ご迷惑おかけいたします。2016/10/18
10
国家保安局内のスパイを特定する為の捜査に出向いていたヘイリーが帰ってきた。
町中が式典のお祭り気分に浮かれ、その後発生したテロ事件に大混乱させられていた最中も、ヘイリーは黙々とそのマイペースさで捜査活動に従事していた。
半日掛けた調査の報告だが、六課の大部屋で公然とやることも憚られた。そもそも違法捜査スレスレ|(アリシア自身は完全にアウト)な事を秘密裏に行なっているのだ。命令違反と言われれば否定も出来ないし、裏切り者の特定作業を晒すなんてバカの極みだった。
なので、凸凹コンビとアリシアは、こぢんまりとした資料室の片隅に集合し、ヘイリーからの報告を受けていた。
「こちらが保安局の出入りを記録した物になります。結構簡単に入手することができて良かったです」
「魔法紙の写しでもないな。いったいどうやったんだ?」
「原本ですよ? 警備室から持ってきたんです」
「ひッ、く――」
いきなり飛び出たトンデモ報告にアリシアはしゃっくりが出てしまう。
「なるほど、どうりで警備部の連中が騒いでたわけだ」
「これは後で燃やしましょ」
「えっ、どうしたんですか?」
「いいのよヘイリー。あなたはそのままで良いから報告を続けて。ただ単に記録をがめて来た訳じゃないんでしょう?」
勿論です、と彼女はその豊満な胸を張った。事の重大さが理解出来ていないのが末恐ろしい。ディンゴが頻りに彼女を叱りつけている理由が、この一例から垣間見えた。恐らく氷山の一角なのだろうが、考え方を変えればこれは一種の才能だ。人の出入りが多い保安局のロビーで、誰にも見咎められる事無く情報を盗み取った。諜報員であれば、これはかなりの物と言える。それによくよく考えて見れば、〈ゴルゴンⅡ〉の盗難の件も調査してきたのは彼女だ。結果論ではあるが、重要な点を押さえていたのだ。
ケロリとして人畜無害そうに見えるが、実はかなりの曲者なのかもしれない。
「昨日の出入り記録です。ここは六課だけじゃないので、やっぱりかなりの量になってます。[血盟旅団]への強制捜査以前の五時間を対象に絞りました。局を出入りした人数はここだけでも四一二人、重複ありです。捜査官や警備の方々が大半なのですが、外来客だけでも三二人も来ています。あとこの時間帯の緊急出入り口使用記録はありませんでした。それでなんですが、気になる名前があるんです」
「前置きは良いから早くしろ」
「ここです」
入出記録が記載されている複数の書類に、赤線で示されている部分を彼女は指した。
盗んできた公文書に赤線まで入れてしまう暴挙にディンゴの顔色が悪くなる。根が真面目なだけに、記録をこっそり返しておく算段を打ち立てていたであろう彼の計画はここに頓挫した。本当に面白いコンビだと、当事者でなければ自分は笑えたはずだ。
やはり燃やすしかない。
「レイン・ハッカーとあります。分析官のレインさんですね」
その名前にアリシアとディンゴが引き付けられた。両者共に彼女には良い印象が薄いこともあり、自然と眉間に皺を寄せてしまう。
昼時の時間帯、六課は通常通り捜査活動中のはずだ。記録によれば他にも多くの捜査官たちが出入りを繰り返しているし、やはり昼と言う事もあり昼食に出たり、買い出しに向う者も多くいる。例に漏れずレインもその一人で、買い出しに向ったようだ。
確かに上級分析官が、使いぱしりのような真似をしているのは違和感を覚える。しかしそれも、クリスと親密な間柄であるという点を考慮すれば、彼のために昼食を買いに出たのだろうと解釈できる。ただし、その一点でのみだ。
彼女の外出は度々行なわれていた。ヘイリーが抽出した五時間の他、レインを対象とした場合、実に四度に渡る外出記録が残されていた。
「昼飯の買い出しで外出。必要書類を取りに戻る為一時帰宅。ほんでお次は――病気の母親の様子を看るために一時帰宅を二回ねぇ。ほ~ん。仕事に集中出来てないな」
「随分と母親想いなのね」
「病気の母親が心配っていうのはわからなくもないが、強制捜査で六課動き出す前にやることかね。クリスの野郎、婚約者だからって甘すぎないか」
二人がレインの査定に意識を向けたところで、ヘイリーが「そこなんです」と訴えた。そしてメモ帳を取り出す。
「そして結論から言わせて貰いますとですね、恐らくスパイはレインさんかと」
「その心は?」とディンゴ。
「ええ実は、今保安局内に居る弁護士さんがいるじゃないですか、その方にですね、毎日毎日同僚の先輩にパワハラを受けてて辛いと相談した所、『保安局にダメージが与えられるなら』と快く弁護士会を紹介していただきまして、あの方はその事務所に詰めていらしたようです」
「おい、パワハラ云々て俺のことじゃないだろうな」
「ヘイリー続けて」
「続けます。そこで、紹介された弁護士会の受付の方にお話を伺いました。先ほど話したとおり、レインさんが怪しいと思いましたので、魔法紙に顔写真を入れて確認したんです」
ヘイリーはレインの顔が映った魔法紙を二人の前に出した。
「こちらを見せた所、直接弁護士会を訪ねて派遣の依頼を出したのはこの女性だ、との言質を取りました」
まさに決定的な証言ではあるが、眉唾感を拭うことが出来なかった。
「気になるんだけど、その受け付けの某が守秘義務を放り投げてあなたに証言した理由はなんなの? 素直に話すとは思えないんだけど」
「わたしたちが[イグラド]を強制捜査した際に押収したお金を使いました。一五〇〇万カークで協力していただいたんです」
さらっと口にした懐柔手法に二人は目を剥いた。今自分たちの前に居る丸眼鏡が、何か別の怪物に取って代ったのではないかと猜疑の目を向けてしまう。こちらにすら気付かせずに大金を押収し、その員数外資金の使い所も確りと押さえている。感嘆の声すら出てしまいそうだ。
「俺の知ってる眼鏡じゃない……」
「見直しちゃったわヘイリー、あたなやれば出来るじゃない! 良い仕事よ」
「え、そうですか? えへへ、そうかなぁ? うふふふ」
褒められてのぼせ上がったヘイリーは身体をくねらせて照れていた。こうしていればいつも通りふにゃふにゃした彼女だが、末恐ろしい資質だ。まさに秘密警察にピッタリの才能ではないだろうか。
「いつもこの位やってくれれば俺も口うるさく言わなくて済むんだ。でも落ち着けお前ら。確かに良くやってくれたが、これだけじゃあの女をしょっ引く材料にはならない。捜査妨害の線で行くには弱すぎるし、共謀罪にはなってない。物証も証人もない。弁護士を呼んだだけなら、権利の行使を手助けしただけだ。それに保安局の方こそ違法捜査に片足を突っ込んでる。クリスの野郎は置いておくとして、課長を動かすのは難しい。あのケットシーの爺さんは、大胆に見えて慎重だ。決定的な何かが欲しい」
昨日の今日でいきなり頭角を見せ始めたヘイリーに驚嘆する一方、話しの本筋から逸れかかっている事をディンゴが苦言混じりに窘めた。
彼の言うとおりだ。この件でわかったことは、レインが弁護士を呼び、テロリストの人権を守ったということ。そして、複数回に渡り外出を繰り返したという事実のみ。
次に当るとするのなら、彼女の『度重なる外出の真意』を確かめる事に他ならない。
重要参考人として、彼女の動向を探る必要があった。
∴ ∴
さっそく六課の大部屋に戻り、レインに探りを入れようと来てみたが――。
六課は静かだった。昨日今日と事件を追い続け、疲れ果てた職員達は机に突っ伏して眠っていたり、姿の見えない者もあった。殆どが仕事を終えて帰宅してしまったようである。
目的のレインもこの場に姿が無く、彼女の机は綺麗なものだった。人目が少ないのを良いことに、引き出しを漁ってみるが、めぼしい情報は残っていない。
いつもべったりであったクリスの元を再び訪れるも、やはり彼女の姿は無かった。
「ドナルドソン、ふらついてないで報告書を出してくれ。いつまでも待てないぞ。これは君のために言っている。今後の君の処遇に関しても、大いに活用されるものだ。その自覚を持って、早く、提出したまえ」
「ハッカー分析官? 彼女の母親は身体が不自由なんだ。泊まり込みでの捜査だったから心配だというので、つい先ほど帰したよ。他人に構ってないで、自分のやるべき事をやりたまえ」
余計なお小言を貰いながらも、そういう事らしい――。
クリスには悪いが、元より彼の言うことなど聞くつもりは無い。
自分の読みを信じるのなら、バルドゥは生きている。誰よりもあの男を知る自分だからこそ、その前提に立って迷うことなく物事を推し進めるられる。これが他の事件であればこうは行かないことも理解している。正論や常識、そして良識が障害となって立ち塞がるのは至極真っ当で、社会はそうあるべきだ。
だが、それではきっとあの男の後手に回ってしまうだろう。
同じ庭師だからこそわかる。世の安寧を願い、秩序を守るために連綿と受け継がれてきた大切な物事――禁忌、延いては憲法、法律となって規定され共同体の中で共有されてきた『常識』の数々。この尽くを排し、嘲笑うのが『庭師』の仕事だ。
他人につけ込み、他人を利用し、他人から奪う。人々が忌避することを平気でやってのける無頼の輩。ようするに[王国の庭師]という集団は、諜報機関などというご大層な肩書きを貰って悦に浸る人倫の敵なのだ。
そういう組織だからこそ、あんな男を作り出した。こんな女を作り上げた。
無法者の始末は無法者が負わねばならない。
つい先ほど帰宅したというレインの動向を追うため、ディンゴとヘイリーを連れて大急ぎで保安局から飛び出した。出掛けに警備員から聞いた話によれば、あの高慢ちき分析官様は出てまだそれほど時間が経っていないらしい。今ならばまだ追いつけるかと思ったが、仕事終わりの時間帯ということもあり、ボタン街は帰路を辿る人で溢れていた。
「こりゃあ、ちとまずいぞ。この中から見つけろってのか」
「見つけるのよ! あの女がバルドゥに繋がるの最後の鍵だ。誰かと接触する可能性がある。そこを押さえないと」
アリシアは道路に飛び出すと、通りがかりの箱馬車を強引に止めさせた。
悪態を吐き迷惑がる御者を無視して、三人は車内に転がり込む。しかしどうして馬車に乗り込んだのかと、ささやかな疑問をヘイリーが口にする。
「あの、どうして馬車に? レインさんを追うんじゃないんですか?」
「この人数じゃ人捜しも厳しい。別々に動いたら連絡の取りようがないしね。ここは千里眼に頼るべきよ」
出来るでしょ? というアリシアの視線を受けるディンゴは「だと思った」と口を歪めながら〈灰の書〉を取り出した。
「ハッカー分析官はまだ保安局からそう離れていない筈よ。この一帯にあるゴルゴンに侵入して彼女を見つけ出して」
「へいへい、わかっておりますともお姫様」
軽口を叩きながらも手を動かし、速やかに〈灰の書〉が魔力を帯びる。ディンゴが手にする羽ペンに操られ、ボタン街の〈ゴルゴンⅡ〉が観測している情景が紙面に投影された。こうした各独立魔導端末が視た様子を〈灰の書〉が両面のページに小窓を作り、多数の情景を一度に観測出来る環境を整えた。
「丸眼鏡が拵えたレインの写真が転写された魔法紙を使う。これなら、人の目が観測するより確実だ」
ディンゴは説明口調で呟きながら、ヘイリーが用意した魔法紙に羽ペンを当て、スライドさせるように〈灰の書〉へと移動させた。すると、即座に変化が現れる。
〈灰の書〉の右下にあった小窓が拡大されて紙面に大きく映し出される。情景が暗くなり、レイン・ハッカーと思しき人物のみを明るく際立たせた。
「見つけた。保安局の裏、二ブロック西。デルナック通りだ」
「まだ近い。デルナックに向って!」
アリシアは車内の小窓を開くと、御者に目的地を伝えた。ため息混じりの承諾が返ってくると、程なくして馬車は動き出す。
〈灰の書〉に投影されているレインからは、特に不審な点は見あたらない。背信行為に手を染めていながらも、いつも通りの居丈高な振る舞いを続け、何食わぬ顔が出来るのは大したものだ。そう思う反面、微かな疑念が頭を過ぎる。病気の母親を抱え、職場を追われる事を覚悟の上でスパイ行為に手を染めるだろうか。もちろん、親孝行な娘を演じているだけかもしれないが、性向を分かつ二つの要素がどうにも気がかりだった。
「まずい」
その呟きはディンゴだ。視線を戻せば、レインを投影していた〈灰の書〉には、彼女が小路へと消えていく様子が映っていた。ディンゴはあれこれと観測地点を変えて彼女の姿を捜すが、如何せん位置が悪かった。
「きっと誰かと会うつもりよ。ここで逃がしたら何の意味も無い! 早く見つけて!」
語気を荒げて発破をかけるも、目まぐるしい速さで観測地点を飛び回り続けるディンゴは額を手で覆った。
「うるせえ、集中させろ。メインから外れた通りにゴルゴンなんて設置してないんだ! どこかの通りから覗ける場所を探さないと」
いっそのこと自分の足で踏み込み、強引に吐かせてしまおうか。その方が手っ取り早い。それでも、この手法が常に正しい答えをくれるとは限らない。拷問は相手の心を暴力によって挫くものだが、見え透いた動機に基づくこの行為は、逆手に取られる危険がある。
「この情報が欲しいか。でも自分を殺せば二度と手に入らないぞ」と言う事になりかねない。その上、強靱な精神力の持ち主はこれに抗うだけではなく、仕掛けた側へのカウンターを用意することもある。バルドゥが背後に居るという考えに基づけば、この手法は決して確かではない。やるにしても、相手の弱みを握る必要があった。
走行中の馬車のドアを開き、アリシアは身を乗り出した。行き交う雑踏の先にあるデルナック通りまであと少しだ。どうするか――。
「見つけた!」
ディンゴの声に引き戻され、アリシアは車内に戻る。〈灰の書〉に目をやれば、それはかなり高所から路地裏に向けられた映像だ。かなり小さくなっているが、路地を歩いているレインらしき人物が確認出来る。
「政府系の建物だ。屋上にあるゴルゴンからしかこの場所を捉えられない。中央合同庁舎の別館だな。大型飛竜の発着場だ」
だが、やはり距離が開き過ぎだ。これをレインだと言うには無理がある。これでは人物確認や検証作業で手間取り、即効性が薄くなる。言い逃れの余地を与えてしまう。
そして、レインの向かい側から一人の男が歩いて来る。
「誰か来た。ディンゴ、これじゃ使えない! もっと拡大出来ないの?」
「マナが他のゴルゴンに分散供給されている。これ以上強力な遠見の魔術は使えない。エギル・ローエンがやったみたいな完全独立型には普通ならないんだよ! あ、いや――」
途端に言葉に詰まると、ディンゴは思案顔になる。
「手段があるのね?」
「でもこれは……下手したらクビどころじゃ無くなる」
事ここに至って尻込みし、煮え切らない態度をするディンゴ。それがなんであろうが、これから起きようとしている事に比べれば、きっと物の数ではない。
「そんなの今更でしょ! チャンスをみすみす棒に振る気? 六課の連中を見返したいって気概はどこへ行ったのよ。意気地無しのまま泣き寝入りして終っても良いの!?」
その『喝』に唇を噛み締めた彼は、何か重大な決断を嚥下するように喉を鳴らし、天井を見上げた。
「ああ……わかったよ畜生! どうにでもなれ!」
半ば自棄っぱちの様相でディンゴは羽ペンを振るった。〈灰の書〉に精霊文字をつらつらと書き殴り始めると、記された文字が追って発光をし始める。全ての文字が〈灰の書〉に刻み込まれると、文字全体が青白い光へと変じ、そして――馬車の近くにあった〈ゴルゴンⅡ〉の水晶が破裂して砕け散った。通行人達がそれに驚いている間にも、その通りにある〈ゴルゴンⅡ〉が次々と爆発四散して各所で悲鳴が上がる。変化はデルナ通りだけに留まらず、周辺地域にまで広がってちょっとした騒ぎが巻き起こった。
「俺の給料じゃ弁償しきれないな」
悟りを開いてしまったかのようにディンゴは目が座っていたが、その甲斐もあり、全てのマナが合同庁舎屋上の〈ゴルゴンⅡ〉へ注ぎ込まれた。観測点はそのままに、投影された映像はレインと男の顔がわかる距離まで拡大することに成功している。
映像がより近く、鮮明になったことで男の姿も確り捉える事が出来、顔の確認も出来た。
「この男、昨日から見かけてた。保安局の前で浮浪者に混じって屯していた奴よ」
「何者なんだ?」
「セオリー通りなら連絡役と考えるのが自然ね」
二人の邂逅はほんの僅かだ。二、三言葉を交わすと、レインが男に簡素な封をされた手紙を手渡し、そのまますれ違っていく。接触は数秒程度でしかなかった。
「手紙を渡した場面を転写して。それを一枚ちょうだい」
その要求にディンゴは「はいよ」の一言で応えた。今の一場面を〈灰の書〉の白紙ページに転写すると、それを千切ってアリシアに渡す。
受け取った魔法紙には、レインが手紙を渡す様子が克明に映し出されている。彼女の後ろ姿と、帽子を被った男の顔も見分けが付く申し分のない出来だった。
「レインは後で良いわ、どうにでもなる。次はこの男よ。彼の正体を暴きましょう」
アリシア達の尾行は、ターゲットを変えて続けられた。
次なる目的は、レインから手紙を受け取った男の正体。手紙に書かれている内容。そして、手紙の行き先だ。彼の行動、身元次第で、今後の方針が決まる。まずは泳がせることから始め、魚が針を深く呑み込むのを待った。
デルナック街の表通りに出てきた男を確認すると、今度は目視での追跡が始まる。近辺の〈ゴルゴンⅡ〉は先ほどの荒技で全滅してしまったので仕方ない。これまでの経緯から客の正体を何となく察していたであろう御者に、男の尾行を依頼すると、彼は少々興奮気味に答えた。
「へへ、いいねぇ。一度やってみたかったんだ、こういうの。今年の映画で観て憬れてたんだよ」
男は暫く黙々と歩き続けていた。〈ゴルゴンⅡ〉が軒並み破損している光景を目の当たりし、訝しんでいる様子を見せた時は冷やっとした。人だかりが出来てそこへ警官が集まり、さらにゴルゴン社の社員が駆付け原因調査を始めている。これにはディンゴも気が気でない。顔が割れている訳ではないのに、腰を落として隠れていた。大胆な行為が徒となった嫌いがあるものの、当の男は平静を保ち通り過ぎていった。
怪しまれたかもしれない――その矢先であった。
ローム河に架かるロンデニオン大橋から更に上流。シーラ街方面へと通じる西南大橋に差し掛かると、男は立ち止まってポケットから何かを取り出した。
「ディンゴ、橋のゴルゴン使って」
「あいよ」
直ぐさま彼は西南大橋の〈ゴルゴンⅡ〉で、男の右隣にある水晶から映像を拾った。
彼がポケットから取り出したのは、木彫りの鳩だった。その木細工をどうするのかと思えば、手で二つに割ってしまう。中は空洞だ。そこに、レインの手紙を折り曲げて差し込むと木細工を元の形に戻した。
「何をしてるんだ、あいつ」
「ああ、そうか。魔導具だ。伝書鳩の魔導具で手紙を何処かに送るつもりよ!」
言うや否や、男は鳥の木細工を宙に放り投げる。放たれた木細工は、一瞬にして真っ白な鳩の姿に変化して空へと羽ばたいて行く。
「まずい見失う――ヘイリー、後を追って!」
「えぇ!? そんな無茶なぁ!」
これまで固唾を呑んで事の推移を見守っていたヘイリーだが、突然の無茶な命令に驚嘆を発した。無茶は百も承知。彼女を引っ張り出して馬車から出ると、同時に影が揺れてハティがヘイリーの真下から現れた。
「えっ? え?」
必然的にハティの背に跨らざる負えないヘイリーは困惑しているが、そんなことはお構いなしだ。鳩が見えなくなってしまう。
「ハティが居ればあたしと念話が通じる。行き先を突き止めたら報せなさい!」
「ま、まってくださいアリシアさん! わたしそんなのむりぃいいいいいっ――……」
聞く耳持たずハティの尻を叩いて速やかに後を追わせた。狼の巨体が人目を憚らず街を疾走するので、驚いた市民が腰を抜かしたり悲鳴を上げている。実際にはその悲鳴はヘイリーの物だったかもしれない。ハティがタウンハウスの壁を駆上がり、屋根伝いに目標を追いかけていく様子を見てから馬車の中へ戻った。
「大丈夫かね、あいつ」
「あの子はやれば出来る。信じましょう。それより男の方は?」
「また動き出した。橋を渡るようだ」
男が西南大橋を渡る様子を遠巻きに観察する。
御者が気を利かせて、行き交う馬車の邪魔にならない位置に付いてくれたので、距離を取りながら安心して尾行が続けることが出来た。
この先にはシーラ街が広がっている。スラムも多く、[イグラド]のような連中が屯している地域もある。犯罪者にはお誂え向きの街であるが、果たして今以上の情報を得られるだろうか。同様に感じていたのか、その疑問をディンゴが呈してきた。
「奴をこれ以上泳がせて意味があるのか? お前はあの男を連絡役だと見立てた。だとしたら、ここから先は――」
「時間の無駄になる。確かにそうね。めぼしい情報は鳥の傀儡にあるのは間違い無い。となれば、手っ取り早く彼の素性を明かして、レインの対応に舵を取った方が懸命ね」
方針が固まる頃には男は橋を渡り終えていた。そして十字路を直進して直ぐの小路に進むと、視界から消えてしまった。路地裏へと入られた。
「よし、確保する!」
勢いよく扉を開くと、アリシアは車外へと飛び出した。それに追い縋るようにディンゴが上半身を乗り出して声を掛ける。
「おおい! 一人で行くのかよ!?」
相変わらずの猪っぷりに、ディンゴは呆れるしかなかった。
決めた事に躊躇はしない。即断即決こそ自分の持ち味だし、これまでも直感を頼りに生きてきた。その所為で迷いを生じさせたり後悔する事は多々あるが、やらなければならない環境に身を置いてきた時分――こういう生き方しか知らなかった。
「動くな! 保安局だ!」
路地裏へと入り込んだ男の後を追って駆け込んだ先。タウンハウスに挟まれた路地を行く男を発見すると即座に銃を構えた。男は一瞬虚を突かれて振り向くが、その反応もまた一段と早かった。直ぐに懐から拳銃を取り出すと、発砲を始めてきたのである。
何とか確保の方向に持って行きたい。素性を知るためにはその必要性が認められた。反撃を控えて近くにあった木箱に身を隠すが、勘が良いのかセンスが有るのか、男は踵を返して逃走する。
「素人じゃないわね」
ニヤリと、こんな状況なのに口元が歪んだ事に気付かないまま、アリシアは追いかけた。逃走する男はジグザグに動き回り、障害物を巧みに利用してくる。そして、曲り角で山積みになっていたガラクタを崩すと、補修用の足場を巻き込んで道が塞がれてしまった。
「そんなんで――逃げられるかッ」
崩れて道を塞ぐガラクタの山に片手を着くと、アリシアは障害を滑りながら乗り越えた。
ゴミ山から飛び降り、逃げる男が姿を消した曲がり角に目をやると、彼はなんとそこで待ち伏せをしていた。動きにしても戦略にしても、街のゴロツキに出来ることではない。
軍人崩れか! 心の中の悪態が苦々しい顔となって表に出るよりも前に、自分から体勢を崩して転がり込んだ。
寸でのところで銃撃を躱すが腰を落とした体勢になる。銃口が追いかけてこちらに向けられるが、同時に足を振り上げて銃を蹴り落とした。この勢いを利用して後転から立ち上がる。しかし男は冷静だった。落とした銃に向う事無く、すぐさま腰から抜いたナイフを繰り出してくる。
「長い足だな、クソ女!」
横薙ぎにナイフが振われ、身を退いてどうにか避けるがスーツの上着とループタイが切り裂かれた。男は更に二度三度とナイフで斬りかかりアリシアを追い詰めようとする。しかし、目が慣れた四度目。迫る凶刃を、円の力を利用して絡め取り、男の鼻に掌底を叩き込んだ。踏み込んで小外刈りと同時に顔面を掴み、彼の腰を中心にして円を描くように地面に叩きつけてやった。
肩で息をしながら昏倒する男を見下ろしていると、胸元の赤いヒモが揺れている事に気付いた。地面には切り落とされたループタイの断片が落ちている。
「お気に入りだったのに」
ループタイを惜しみながらも男の拘束を万全にする。〈簡易術式陣〉を地面に敷いて、そこに男を寝かせた。こうしておけば魔術に関する知識の無い者は身動き一つ取れない。
一通り終ったところで、ディンゴが押っ取り刀で駆けつけて来る。
「大丈夫かぁ、アリシア」
「遅い。見ての通り終ったわよ。それよりこいつが何者なのか……」
正体を調べよう。そう言いかけて、何気なく腕を取ってみるとタトゥーらしき物が見えた。そのまま男の袖をたくし上げてみれば、髑髏と蛇のタトゥーが露わとなる。
[血盟旅団]だ。
「調べる必要は無いみたいね」
「そうなると、レインは黒で確定だな」
レインが接触していた相手は[血盟旅団]の構成員だった。彼女が度々外出していたのは、この旅団の連絡役と思しき男と接触し、情報を提供していた疑義が濃厚。
「よし、後は丸眼鏡の報告待ちだ。その前に、課長に報せよう」
「課長は今頃内務省に向ってるはずよ。ディンゴ、コイツを頼むわ。あたしはレインを確保してバルドゥの目的を吐かせる」
「おいおい、また一人で行くつもりなのかよ」
「時間が惜しいの。レインの住所を教えて。高飛びされる前にね」
突撃猪娘の要求に対し、もはや何の感慨も浮かばなくなった。彼女の求める物は必要な物だ。それをこの二日間で、身体に覚え込まされてしまった。違法捜査に対する抵抗の箍はとっくに外されて、順調に染まりつつある自分にほとほと呆れる。
自分を浸食しつつある当の彼女は、前世が鮫か何かだったらしく止まると死ぬようだ。
〈灰の書〉から抜き出したレインの住所を教えると、アリシアはそのまま直行してしまう。
勾留室に居たとは言え、昨日今日と動き回っているのに凄まじい体力だった。
倫理的にはアウトだが、ああいう人材を自分は求めていたんだと実感していた。ヘイリーにも良い影響を与えているようで、まともに仕事が出来るようになった。
資料室でふて腐れていた日々が今では嘘のようで、疲れている筈なのにまだまだ行ける気がする。アリシアはとんでもない女だが、彼女と出会えたお陰で今が生涯で一番活きているという実感を得られた。
柄にもなくそんな感懐を抱いていると、ディンゴは笑みがこぼれてしまった。
「さてと、この男をどうするかね。警察でいいか?」
〈灰の書〉を開き、ロンデニオン市警の《次元書庫》に繋げようとしていると、背後で物音がして振り返った。
「お前……なんでここに居るんだ?」
別段、驚いた訳ではない。ただ意外だっただけだ。そしてその人物が自分に術式杖を向けている事が、どうにも理解しがたかった。何の前触れもなく瞬く閃光を目にするまで、理解出来なかったのだ。