魔女アリシアと秘密警察 序幕
分割しました。
ご不便ご迷惑おかけ致します。2016/10/18
アルトロモンド
序幕
夢とも現実とも区別が付かない微睡みの中で不快な一夜を過ごし、アリシア・ドナルドソンは目を覚ました。。
昨晩は頭が起きているのに身体が眠っているという心身の不一致が引き起こす、一種の金縛りに見舞われていたのだ。その他にも、身体を誰かがまさぐってくるような感覚にもにも苛まれ、実に気色悪い一夜であった。
やはり身体を伸ばして眠ることが出来なかったのが原因なのかもしれない。
「ふわぁ」と一つあくびをして、寝ぼけ眼を擦る。
目の前には白い壁。柔らかい材質で、自分を全周に渡って包み込み、これが寝袋の役割を果たしている。雨風を凌ぎ、寒さに強く、柔軟性に富む強靱な一品である。多少寝苦しい事に目を瞑れば……。
その場で立ち上がると、頭上の柔らかい内壁を押し上げ、ちょうど戦車のキューポラハッチのような感覚で外に頭を出せる。
遠くに聳える山々から、自分と同じように朝日が顔を覗かせていた。
その眩い光に、黒薔薇のような深い赤の瞳を細める。空気が冷たい。吹きすさぶ風に乗って白い息が流れていく。肩口に掛かるほどの黄金色の髪が乱れ、朝日に照り輝いた。
アリシアはぐっと背伸びをしてから、寝袋に捕まって南方を見据えた。
青々とした緑の大地からは白い靄が立ち昇り、付近を流れる川が朝の日差しを乱反射させ、湖からは水鳥たちが餌場を求めて飛び立っていく。
自然の織り成す絶景を独り占めにしながら、次に真下に目を向けた。
視線は下へ下へと降りて行き、まだ下へ。寝坊して出遅れたように漂うのろまな低層雲を突き抜けまだまだ下へと視線を送り、ようやく地表へ辿り着く。
そうだ。現在彼女が野営しているのは、目の眩むような高さの断崖絶壁である。
女性が壺を掲げているような形状をした島国『アルビオン王国』。その北方に位置するシラス地方。農業が主体の地域で、自然が多く残されているこの土地に於いてとりわけ目立つのが『巨人の盾』という巨大な岩山である。
その名の通り、古に伝わる神代の巨人が持っていた盾のような形状をしている事から、近隣住民達からそう呼ばれるようになり、人伝に広がったことで正式名称となったのだ。
アリシアはこの岩山の中腹を越えた辺りで、空中ビバークを行なっていた。
それだけでも狂気の沙汰だというのに、彼女は涼しい顔で白い寝袋に腰掛けていた。
そのイカれた様子を傍で静観する眼があった。
彼は大きな複眼と大きな櫛のような触手を備えた愛らしい顔の持ち主だ。全身が真っ白な体毛で覆われており、前翅と後翅からなる一対の翅を持っていた。一般的にそれは家畜化された昆虫として有名な蚕そのものだが、にしては少し大きすぎた。
彼は大王蚕と呼ばれる妖精種で、成人男性ほどの身丈があるのだ。
「ボク、ソロソロ行マスネ」
舌っ足らずな声が聞こえて、アリシアは振り向いた。
「ええ、行ってらっしゃい。この繭、ありがとうね。お陰で凍えずに済んだわ」
「素敵ナ口説キ文句ヲ教エテクレタオ礼デス。コイツデ雌ヲ引ッカケテ、子孫繁栄デス」
「あなたならやれるわ。一発かましてきなさい」
「ハイ、ソレデハ。アリシア殿モ、良イ出会イガ有リマスヨウニ」
大王蚕は翅を羽ばたかせるとその場から飛び立った。朝日の受けた白亜の身体が、後光を放ち光に溶け込んで行く姿は幻想的ですらあった。雄壮で力強い彼の飛翔に眼を奪われていると、強烈な突風が巻き起こった。一瞬だけ目を閉じると、もう彼の姿は無かった。
未来に向って飛んでいったのね、と詩的な感慨が頭に浮かび、一期一会を感じたアリシアは微笑んだ。
錐揉みしながら落下する大王蚕が深い森の中へと消え行くまで。
大王蚕の繭の上で胡座をかきながらアリシアは身支度を整える。
歯を磨いてから、水で湿らせたタオルで顔を拭き、風に乱れる綺麗な髪を後頭部で結う。
朝食には携帯食にと採ってきた『メウの実』を三粒。コリコリしていて少し酸っぱいのが特徴で、身体の疲れを癒してくれる効果がある。
そんなささやかな食事が終れば、そろそろ出発だ。
彼女は繭に立つと真上を見やって壁の凹凸を掴む。目指すは更なる高みであった。
そもそも、どうして命綱も無しに、このような無謀な登攀に挑んでいるのか。
その原因は一つや二つではなく、実に様々な要因が複雑に作用し合って彼女をこんな風に追い詰めてしまったのである。
先頃、アルビオン王国議会にて、魔術師保護法が改正された。
それにより、魔術師特別手当が廃止となったのが事の発端かも知れない。
この制度は、魔術取扱資格の一種から三種までのずれかを取得している魔術師の研究生活支援の為に設けられた制度であり、権利者は月々二〇万カークを受け取る事が出来た。けれども、アルビオンは度重なる戦争と、新世主義国の台頭により財政が圧迫。
増税に対する世論の反感が強まった結果、やむを得ずこの制度を廃止した。
それでも国内の魔術師の殆どは、民間企業、国立研究機関、軍や諜報機関など引く手数多である。さしたる反発も無く、悪影響も少なかった。アリシア以外は。
アリシアは元々、諜報機関の魔術師だった。
数年前のある事件を切っ掛けに、彼女は精神を患って自宅に引きこもった。
それからは実に惨めな顛末がある。まずは同性愛に溺れて爛れた生活の末に捨てられ、自棄になった彼女は現実を忘れられる魔法のお香にハマり、妄想世界にトリップしたまま街に繰り出した。そして「半裸のカマドウマ星人が押し寄せてくる!」と幻覚に惑わされて半狂乱のまま拳銃を乱射し、御用となったのだ。拘束具付の患者着を着せてベルトでグルグル巻きにしてくれる病院に押し込まれ、投薬と洗脳に近いカウンセリングの毎日を過ごした。そして帰宅を許されると、魔術師特別手当で大好きなウイスキーと博打に興じる生活を送っていたのだ。
このような経緯があり、手当の廃止は非常にナーバスな問題だった。
手当による貯金は馬券と共に宙を舞い、日々の糧にも事欠く有様。生きるのが辛かった。
困ってしまったアリシアは、『銀行強盗』か『密猟』かの二択を自らに提示して、後者を選んだのだ。「密猟なら困るのは動物だし良いよね」なんて卑劣な考えで。
獲物は絶滅危惧種に指定されている希少な飛竜、ゴールデンピット・ドラゴンの卵だ。
黄金横穴竜――略して金穴竜。まさに金穴の者にピッタリである。
空中ビバークをした地点から暫く登ると、横穴が穿たれている箇所がいくつかある。
その内のどれかに、目的である金穴竜の巣があるはずだ。
飛竜種の中でも小型の金穴竜は、蝙蝠のような翼を持ち、身体全体が金色をしている。胸元には溶解液を溜めておく袋があり、彼らはそれを使って天敵を追い払ったり、巣穴を開けたりするのだ。一度の産卵で産み落とす卵は一つ。光り輝く金の卵を手に入れることが出来れば、違法であろうと好事家に高く売れる。闇オークションに出せば数十年は遊んで暮らせるかもしれない。
生活が守られるのだ。
「頑張れ、あたし」
常に両手両足の内、三点が確りと岩壁を噛んでいる事を意識しながら登り進める。
この辺りは元々金穴竜の活動域でもあるので、岩壁には彼らの天敵である翼竜が金穴竜を狙ってほじくり返した凹凸も沢山ある。積もりに積もって数百年分だ。そのお陰で、登攀は無謀という程の難度ではない。ただ、度胸だけは必要である。
額に汗を滲ませ、ふと思う。自分は生き方が下手クソだ、と。
どうして普通に生きられないんだろう。
もっと楽な生き方はあった筈なのに、昔から命を放り投げるようなことばかり。
自分の生活力の無さを恨めしく思っていると、横穴が見えてきた。しかし、あと少しと言うところで次の動きに迷ってしまう。岩肌が変質していた。しっかりとした凹凸は極端に減って、流水で洗われ滑らかになった川石のようなポイントに直面してしまう。
金穴竜が巣作りの為に吐き出した溶解液が周囲に飛散し、付着した為だろうか。
どうしたものかと入念に辺りを見回すと、斜め右上に穴あきチーズのような微かな出っ張り穴を発見する。あの穴をベースに組み立てていけば、お宝は目の鼻の先だが、手が届かない。
「ハァ、はぁ、ハァ――ふぅ、ふぅぅ……」
呼吸を整えてから、腰にぶら下げたチョークバッグに左右の手を順々に突っ込み、滑り止めの炭酸マグネシウムを付着させた。
いつもこうだ。いつもこうして、自分を大事に出来ないんだ。
両手で身体を支えながら腰を落とす。
目指す小さな穴を見据え――彼女は跳躍した。
僅かな距離であったが、断崖絶壁を命綱無しの状態で身体を宙に放ったのだった。
巣穴に腰掛けながら、綺麗な黄褐色をした卵にアリシアはキスをした。
琥珀のように半透明で、中には竜の妖精体が丸くなっているのがわかる。
達成感に自然と顔も綻ぶ。苦労した甲斐があったというものだ。
後は卵を持ち帰るだけなので、小型の背嚢からライ麦パンとニシンの塩漬け燻製を取り出し、絶景を眺めながら早めの昼食を摂ることにした。
ニシンを囓り、これからの計画を立てる。
「お金が入ったら海外に移住しよう。新しい土地で一からやり直すのよ、アリシア」
自分に言い聞かせるように呟いた。
だがこれらを一般的に訳すと『卵を金に換えたら足が付かないように国外逃亡しよう』となる訳だが、彼女は真性のピュアなので俗世の思考に侵されることはないのである。
パラパラと、頭上から砂が落ちてくる。
ここは切り立った崖だ。落石もあるので注意しないといけない。
大丈夫かな? とアリシアが覗き込むように頂上を見上げると、岩壁に対して垂直に立っているヒツジと目が合ってしまった。
奇妙な光景に一瞬だけ夢を見ているのかと逡巡したが、そのヒツジはシルクハットを被り、蝶ネクタイを巻いて、あまつさえ紺の燕尾服を羽織っている。
随所に散りばめられた異常を隠そうともしないヒツジに対して、ため息をついた。
「ここは放牧には向かないわよ、マスタング。っていうか人の上で草食べないで。落ちてきてる」
マスタングと呼ばれた紳士気取りのヒツジは、食んでいたものを嚥下した。
「それは失礼。キツネ狩りに興じていたら小腹が空いてしまってね。そうしたら君が見えたんだ。どうかな、これから近場の牧草地で一緒に食事でもしながら話さないか?」
面白くも何ともない。この巫山戯た生き物を睨み付けてやった。
彼――マスタングはごらんの通りただの仮装趣味のヒツジではない。
アルビオン王国の秘密諜報機関|王国の庭師]の人事部長を務める歴とした魔術師だ。
そして[王国の庭師]こそ、年若なアリシアを工作員として育てた組織だった。マスタングとはその頃からの顔見知りで、事有る事に過酷な人事で彼女を苦しめた張本人である。
「こんな所まで来て何の用? あたしはもう働かないわよ。そう決めたの」
熱い無職宣言に、マスタングはそのヒツジの広い眉間を微かに動かした。呆れたのかもしれない。
「君の気持ちは理解出来る。今まで厳しい仕事ばかりを押しつけ、その所為で精神疾患を発症するまで追い込んでしまったのはこちら側の非だ。だから逮捕記録を消し、入院費も負担して、長期休暇として好きにさせていたんだ」
「[王国の庭師]は他にも優秀な人材を沢山抱えているでしょ。あたしみたいな社会不適合者の居場所なんて無い。スパイごっこなら身内でやってよ」
「何故そうまで自分を卑下する。子供みたいな事を言うべきではないし、我々を狭量な老人のように思っても欲しくない。君が違法薬物に手を出そうと、些細ないざこざで逮捕されようと、同性愛者だろうと、評価が変ることはない。君はそれだけの価値がある」
「あたしは同性愛者じゃない」
「……バイであろうと、我々の見識を揺るがすには至らない。我々が求める君の価値は、諸所の問題を鑑みてもなおお釣りが来る。帰ってきたまえ、アリシア。才能を発揮する場を用意できるのは我々だけだ。そうすれば、今のような無様な渡世を送らずに済むし、その手の中にある犯罪の種を警察なんぞに報せる必要も無くなる。長いこと好き放題やって、世の世知辛さに辟易しているかもしれないがね、塀の中に戻るのは今よりも惨めなものだ」
何も言い返せない。ただ手中の卵に目を落として唇を噛み締める。
今の生活がじり貧なのは誰よりも自分が理解している。牢屋の中は寒いし、飯も不味いし、出来ることは何もない。このヒツジは性格が悪いので、密猟の件は本当に通報するだろう。
「何したらいいの」
気づけばアリシアは、意気消沈した声音でそう発していた。
「二日前、君の元クライアントが消息を絶った。覚えているか? エギル・ローエンだ。彼はアルビオンに亡命してからロンデニオン大学で召喚魔術の講師として働いていた。最近学会で召喚術に関する発表をしたところ、魔術評議会の興味を惹いたようだ。『賢天』の選考にもノミネートされる召喚魔術の実力者となっている」
「本題に入って」
「潜入員が大陸で入手した情報を精査した。このアルビオンで近々何らかのテロ攻撃が計画されている。確度の高い情報だ。エギルはこれに巻き込まれた可能性が高い。それに先立ち、国家保安局も捜査に乗り出す。君はここに加わって捜査に協力するんだ。だが、保安局は汚染されているとの報告も庭師から届いている。今回、君の任務は二つ。テロ攻撃の阻止。そして保安局の除染だ。いつも通り我々からの支援はないものと思ってくれ。黒子みたいなものさ、目立つわけにはいかないんだ」
「黒子の方がもっとマシな仕事をしてくれるわ」
「ははは、確かに確かにその通り。ではね、良い結果を期待しているよ」
一人残されたアリシアは、穏やかな青い空を眺めていた。
自分は誰かに監視され続け、どうあっても利用され続ける人生を送る他無いらしい。それでも必要とされるのなら、社会のはみ出し者で居るよりも幾分マシか。
そう思えば慰めにはなるが、自嘲気味な笑みが口元を歪ませる。
子供の頃はもっと人生が素晴らしいものになるのだと夢想していたものだ。でも現実は辛いばかりで思うようにならない。いつしか必死に逃げ道ばかりを探すようになった。
子供の頃はどんな夢を持っていただろう。
贅沢なものじゃなく、もっと積極的で、楽しげな未来を抱いていたはずだ。
昔大好きだった物語、アルトロモンドの童話を思い出す。
魔導師カイロ・メジャースが著した有り触れた児童文学だ。主人公のバーニィが、アルトロモンドへ至る鍵として、世界中に散在する神代の宝である《創造器》を集める旅を綴った冒険譚。幼い頃はその物語に夢中で、自分も大きくなったらこの主人公のように世界中を旅して回る冒険家になりたいと、そう夢見ていたような気がする。
アルトロモンドが結局なんであるのかは明らかにされなかったが、作中で主人公は『この旅の出会いと、この記憶こそが何物にも代え難い大秘宝だった』と語った。釈然としない思いを抱きつつも、いつか自分も彼のような大冒険をして、こんな台詞をビシッと決めてみたいものだと子供心に憧れていた。
だが未来の自分はそんな夢の残滓でしかない。夢破れ、残りカスとなった哀れな女は、斜に構えて世界を睥睨し、国の狗と成り果てた。外国での世論誘導、内乱の誘発、要人暗殺の下準備。姑息で、アコギで、神様に顔向けできない所業の数々。嘘と裏切りの限りを尽くして、結局、手元には何一つ残らなかった。カネも、友達も、家族も、何も無い。
下手糞な人生に嫌気が差す。
希望の光を見出せず、自分はまた糞溜めをかき回す仕事を始めるのだ。
アリシアは身体を宙に放り出した。彼女は落ちていく。底へ底へ、煩わしい現実へ。
今度はせめて、ほんのちょっぴりでも良い事があるように願いながら。