桐と又右衛門殿
女忍びの桐は、普段は正勝の妻である圭の侍女を勤めている。
圭からすると、無口でときおり辛辣なことを言うが、よく気の利く働きものだという認識である。
まだ数えで十六という年なのもあり、圭は彼女のことを妹のように可愛がっていた。
もっとも、ただの侍女というだけでなく、桐は二ノ丸にある本多家の奥屋敷を守るという役目も担っていた。
彼女を雇い入れた正純の意図は、息子の嫁や幼い孫を警護させるだけのつもりであったのだが、まだ若い娘にしては随分と優秀な彼女は屋敷全体を守ることができていた。
幾つかの忍び対策の罠も彼女の自作だ。
奥屋敷を絶対に守りきるというのが、彼女の矜持となっていた。
だが、その彼女の矜持は六月の根来坊主の侵入によって汚されることになった。
おかげで桐はひどく落ち込んだ。
侵入を許してしまっただけならまだいい。
問題はそんな彼女の失態をたった一人の新参者に助けられたという点にあった。
奥屋敷の回り廊下を歩いていた桐は、正勝の部屋に続く縁側にその新参者が寝っ転がって日向ぼっこをしているのを発見した。
左腕を枕にして寝ているが、右手は腰の脇差に伸びている。
完全に気を緩めてはないのがそれでわかった。
確かに寝ているが、何かあればすぐに覚醒し、脇差で反撃できるように右手は自由にしているのだ。
ここに来た時に着ていた旅姿ではなく、飄々とした着流し姿だ。
武士らしい袴などは履いておらず、浪人としか思えない風体だった。
桐は何度か注意したのだが、本人はおろか主君の正純までが「荒木はそれでよい」と甘やかすのでそのだらしない恰好で城内をふらついている。
本丸に上がる時だけは、羽織袴を正勝より借りて着るものの、普段はまったくもってただの素浪人そのものだ。
忍びではあるが、身分としては武士でもあるのでもう少ししっかりせいと言いたくなる。
「……又右衛門殿、邪魔、迷惑」
桐がつま先で突くと、ぎょろりと目が開く。
野生の獣の目覚めのようであった。
だが、すでにひと月程度の付き合いがあると、これがただのこけおどしだとわかる。
殺気がなければ又右衛門はほとんど気を張ることがない。
でかくて邪魔なだけで無害そのものなのだ。
「武士を足で小突くやつがあるか」
「どうでもいい。そんなところで寝ている又右衛門殿が邪魔」
伊賀与力の娘である桐の方が身分的には下である。
男女が平等ではない時代なので、女の方がへりくだる必要もある。
だが、桐としてはどうしてもこの大男に礼を尽くす気にはなれなかった。
「……おれは仮にも武士なのだぞ。侍女の分際をわきまえろ」
「もっとどうでもいい。とにかく邪魔」
今度はもう少し強く蹴った。
口答えをしている暇があったらとりあえず退け、という意思表示だった。
上から蔑んだ目で睨まれるのが嫌なのか、又右衛門は渋々という感じで上半身を起こす。
それだけで桐の胸のあたりに頭がくる。
六尺半(190センチメートル)ほどの身長と仔牛のような肩幅をもつ大男だと、座高だけでそこまで高いのだ。
桐がなんとなくむかっ腹が立つ原因の一つは、この無意味なまでの巨躯である。
いくさ人にならば大切かもしれないが、一般の生活を送る上では邪魔くさくて仕方がない。
襖をとりはずした部屋までが心なしか狭く感じられてしまう。
「わかったわかった、退く、退く。で、おれは何処で寝ればいいのだ?」
「庭にでも行けば」
冷徹に切り返されると、又右衛門はむすっとした。
「庭は暑い。今はもう夏だ。お天道様がおれには辛く当たるのだ」
「だったら、寝ないで仕事すれば。正勝さまのお手伝いでもしたらどう」
「ふーむ、そういうのはおれの得意ではないのだが……」
「ここにいる間、扶持、貰っているんでしょ。それなりに働けば」
扶持とは武士の給金を米で支払うことだが、もともと本多家の家臣でない客分の又右衛門には本来与えられない。
そのかわり、正純は三十俵二人扶持相当の金を直接渡すことで、又右衛門に忍びとしての仕事をさせることにしたのだ。
三十俵二人扶持は捨扶持に近いが、今回の又右衛門の場合にはただの必要経費として渡している意味合いが強い。
又右衛門自身、本多家に仕官したわけでもないので特に文句はなかった。
しかし、毎日ダラダラしていてももらえるとなれば仕事をしなくなるのも人間である。
「しかしなあ、おれの仕事は根来組の見張りであって、昼間はたいしてやることもないのだ」
「根来組は昼間だって動いている。探るのなら昼夜問わず働けば」
「口うるさい女子だのお。まあ、仕方あるまい。正勝さまの手助けでもするとするか。……で、その正勝さまは今どこにおられるのだ?」
「本丸。お成り御殿」
お成り御殿とは、奥殿に新規に構築された殿舎である。
将軍家の東照宮参拝の際に、その将軍の宿舎として立派に構築されたもので、宇都宮城の普請の中でも最も費用がかけられている。
江戸城の御座の間に模して造られ、場合によっては天皇上皇の使いが泊まることも視野に入っているらしい。
「ふむ、おれは入ったことがないな」
「あたりまえ。素性のしれない又右衛門殿などいれてもらえるはずがない」
「酷いことをいう。扶持を頂戴している以上、おれも宇都宮藩の藩士といっても過言ではないのだぞ」
「まだ、寝ているの? 又右衛門殿なんて歴史ある本多家の家臣になれるわけない」
だが、又右衛門はそんな桐の言葉を鼻で笑った。
「ふふん。おれはこう見えても、もともとは播磨龍野藩の本多甲斐守政朝さまの家来なのだ。養父とともにな。桐、うぬは知っておるか、政朝さまのことを?」
「知らない。偉い人?」
「うぬはそれでも本多の配下か。……いいか、甲斐守政朝さまは有名な本多忠勝さまのお孫さまなのだ。忠勝さまのご長男忠政さまのご次男として産まれたからだ」
本多忠勝については桐も知っている。
徳川四天王として徳川家康ともに戦国を勝ち抜いた名将だ。
敵将から「家康に過ぎたものが二つあり、唐の頭に本多平八」と狂歌でもって称賛されたほどの武勇を誇っていた。
ただ、主君である正純の父親正信とは同じ一族でありながら折り合いが悪かったともきいている。
直情径行が多い武将の常として官僚型の正信に対しては、馬のあわないところがたぶんにあったのであろう。
そうとう表だって激しい批難をしていたと言われている。
ゆえに正信の息子に仕える桐からすると、忠勝という男に対して親しみを覚えるはずがない。
「それがどうかしたの?」
「おれも播磨龍野藩にいたのだがな、少し前に故郷の伊賀から使いが来た。そやつがいうのには、宇都宮の殿のご一族である正純さまのところに紀州の根来寺から忍びが放たれたということであった」
「……?」
「うむ、養父がな、その知らせを殿に伝えたのだ。それからすぐ、おれに宇都宮まで行くように使命が発せられた」
「なんで? 又右衛門殿とは関係がないじゃない?」
又右衛門は自信満々に胸を張った。
「おれはな、桐よ。新陰の剣士であると同時に優れた忍びの達人として、月ヶ瀬では有名なのだ。これまでも政朝の殿のご言いつけで幾つもの忍び働きをこなしてきた。ゆえに、同じ忍びとして根来の売僧どもが不穏な動きを見せたということでその探索を命じられたのだ」
「自慢たらたらでうっとおしい……」
「それにな、宇都宮は殿の母上であらせられる熊姫さまと仲のよい亀姫さまがおられた土地だ。殿にとってもいささか思うところがあられたのであろう」
亀姫の名には桐は覚えがあった。
それだけでなく何か引っかかる部分も。
もしこのとき、桐がさらに又右衛門から真剣に話を聞きだしていたのならば、その後の悲劇はたぶんに防げていたかもしれない。
ゆえに桐はこの時のことを生涯悔やむことになる。
「あとだ、伊賀に連なるうぬならば、おれたちと根来の因縁は知っておるだろう。確か、江戸でも甲賀とともに同じ警護役として仲はよろしくないと聞いている。おれたちと根来は信長公の頃からの宿敵よ。きゃつらの目論見によって、本多のご一族が窮地に陥るのを防ぐのは家臣の務めだな」
又右衛門の言い分には確かに理があった。
つまりは、これは本多一族と他の幕閣の権力者との闘争なのだ。
正純が敗れることがあれば、三河以来の名門本多家が江戸の幕府中枢での権力を喪うことになる。
それだけではない。
これまで家康とともに歩んできたかつての三河の直参旗本たちも同じように力を無くすだろう。
すでに酒井、土井といった二代将軍秀忠の側近たちに居場所を奪われ、唯一幕府に残っていたといっていい正純まで宇都宮に転封させられている。
まだまだ五十代の正純なら巻き返しができるとはいっても、それはかなり先のことになるだろう。
となると、宇都宮において何らかの陰謀が企てられて正純が失脚すれば、本多一族だけでなく、三河以来の直参旗本にとっても正念場なのだ。
ただし、根来忍びの目的がはっきりしない以上、本多政朝も自藩の忍びを多く割くわけにはいかない。
そこで若く実力もある又右衛門一人を先遣させたというわけである。
「……わかった。又右衛門殿の言い分は」
「ならば、今度からおれのあつかいをもうちぃとよくするように図ってくれ」
「やだ」
「なぜだ!」
「―――又右衛門殿、おっきくて邪魔だから」
そういうと、今度こそ桐は又右衛門を飛び越してスタスタと回り廊下を歩き去ってしまう。
いくらしゃがんでいるとはいえ、男一人を難なく飛び越えるあたり、桐もさすがは伊賀の忍びである。
わりと真面目に説明したのに、「でかいから」の一言で切り捨てられた又右衛門はなんとも言えない渋い顔をした。
「女子の扱いは難しいのお」
むくつけき野生の大男にとっては、若い娘の方が根来忍びの鉄砲よりも面倒くさい代物なのであった……。