忍術射撃
二人は城の北側にある三の丸門で、藍婆坊と黒歯坊は別れた。
藍婆坊は蓮池門とその堀周辺を探索するため、黒歯坊はそのまま三の丸にあるという武器蔵に向かう。
本丸へ続く伊賀門にはできる限り近づかないようにしてだ。
何故かというと、伊賀門はその名の通り伊賀組与力と呼ばれているものたちが警備している門である。
彼らは根来同心と同様にもともと本多家の家臣ではなく、幕府から派遣されてきたものたちだが、その立場と心情はまったく正反対であった。
七十人ほどが派遣されているのだが、下総葛飾の猟場の管理を任され、その際に正純の組子として仕えていたこともありそれ以来殿様に心服しているのだ。
伊賀という名こそもってはいるが、忍びの術にたけているわけではないが、城内の普請についても文句ひとつ言わずにこなすため、生え抜きの家臣団との仲もすこぶる良好であり、第二の家臣団といっても過言ではないぐらいに正純に愛されていた。
当然、立場が似通っているはずなのに犯行的な根来同心とは折り合いが悪い。
むしろ憎しみ合っているともいえた。
その伊賀与力の守る門には近づきづらいというのが、法師たちの結論であった。
それに、先日、仲間の一黙坊の腕を叩き切った本多家の忍びの存在がある。
優れた忍びである一黙坊を凌駕したというのであるから、その素性としてはおそらく伊賀か甲賀であるだろう。
主家滅亡の際に消えた風魔や武田忍びではないはずだ。
もしや自分たちが知らないだけで、伊賀与力の中に凄腕が潜んでいたのかもしれない。
そうなると危うきには近寄らずだ。
法師たちはそれぞれ用心して目的の場所に向かう。
ただし、まだ昼の真っただ中であったことから、適当な木陰を見つけて、夜まで昼寝と洒落込んだのである。
さすがの忍びも昼の明るい中、厳重な警備をしている城に入り込むことは難しい。
宇都宮城がまだ工事をしていてたとしても、彼の目当ての場所は武器蔵だ。城にとって戦いのときにはもっとも重要となる場所なのだ。
警備もそれなりなのは間違いない。
だから、時間をつぶして夜まで待つことにしたのであった。
その様子を遠くから窺っていたものがいた。
糸のように伝わる髪を額から離し、持参した遠眼鏡でじっと凝視を続ける一人の少女だった。
夕顔のように沈潜した美貌の持ち主であり、レンズ越しの冷たい視線はまさに氷のようだ。
少女の名は桐。
城主正純の息子正勝の正室・圭の侍女である。―――その正体は伊賀与力鈴木平九郎によって鍛え上げられた女忍びなのだが、そのことについて知っているものは正純と正勝のみである。
もともと陰ながら奥の警備を任されていたのだが、前回の根来法師の侵入に気が付かなかったこと自責の念を覚え、奥からしばらくのあいだ離れることを決めていた。
正純本人は彼女のことを一言たりとも責めてはいない。
自分を狙った根来忍びのことを相当の腕利きであるとわかっているからだ。
だが、桐にはその無言の赦しが痛すぎた。
忍びとしての矜持を傷つけられたと感じていたのだ。
その失地回復のためにも、今日は朝から城下を探索していて、その途中で不用意に町中を練り歩く二人の法師を見つけたのである。
二人が三の丸門で別れると、片方―――彼女は知らないが黒歯坊である―――を追ってここまでやってきた。
木陰で昼寝を始めた法師を確認すると、桐は遠眼鏡から目を外して考える。
(あの根来坊主……。私だと到底敵わない)
女ではあるが桐とて忍びの端くれ。
忍びとは究極のリアリストである。仮定でさえ最悪に即して考える。
彼我戦力差についても冷徹すぎるほど冷徹に分析ができるのだ。
桐はあそこでだらしなく寝転んでいる法師が、その姿に反して、ただの忍びではないことは見抜いていた。
隙だらけのように見えて、抱えた鉄砲からは決して手を離そうとはしない。
火薬に使う火種も常に手中にしてあるようだ。
しかもあの場所は周囲が容易に見渡せて、近づくものを感知しやすい。
遠眼鏡で遠方から観察することはできても、うかつに接近することはできない用心深さだ。
(あの調子では夜までは動きそうもないし……。じゃあ、あの男を呼ぼう)
桐の脳裏にはつい先日紹介されたばかりの大男が浮かんでいた。
小柄で童女のような彼女とはまったく正反対の、熊のような大男のことを。
そのくせ発する気配は野性味にあふれてオオカミのようであった。
忍びの常として警戒を怠らなかったが、単純で竹を割ったような正勝だけでなく、正純までがあの男のことを簡単に信用したのが少し不思議だった。
人好きがするとは言い難い風貌のくせに、妙に愛嬌のあるところが気に入られたのだろうか。
だが、正勝のような蒲柳の質で繊細な心の持ち主が好みである桐にとって、あのむくつけき野生の大男はとうてい受け入れられるものではない。
ただし、腕前は別だ。
彼女程度の忍びでもわかるほどの、忍びとしても剣士としても一流であることは明らかだった。
ゆえに、桐はあの法師を切り捨てるための介錯人として、件の大男を呼びに行くことに決めた。
荒木又右衛門と名乗るあの男を。
◇◆◇
烏が夕空に鳴き喚き終わろうとしたころに、黒歯坊は目を覚ました。
たとえいぎたなく寝ていたとしても、瞬時に覚醒するのが忍びである。
どうやら、城勤めの者たちも城下に戻っていったらしく、内部には夜番の藩士たちだけが残っている状態になっているようだった。
これなら黒歯坊ほどの術者ならだれにも見咎められることなく武器蔵に侵入できるだろう。
さすがに用心して、実際に動き出したのは深夜になってからではあったが。
三ノ丸の太鼓門の前には三日月形のさしわたし九十間ほどの堀がある。
半円形なので名前もそのままの三日月掘という。
大手門から敵が侵入した際に、太鼓門と二ノ丸門を守るために掘られたものであった。
そのほかにも幾つかの内堀があり、いざいくさとなったときの正純らしい用心深さが表れているといえた。
とはいっても黒歯坊のような忍び相手にはどうということもない。
橋のげたを猿のように這って、堀を抜けると、見張りには気づかれることなく土塁に食いつける。
ところどころに阿含坊の言っていたマキビシが撒かれていたので、それだけに気を付け、なんなく石垣もとびこえ三ノ丸に入り込んだ。
二ノ丸は城主一家の居住区なので夜も警戒が厳重だが、三ノ丸までなら鼻歌まじりでもとりつける。
黒歯坊は目指す漆喰の武器蔵に行く手前に、やけに新しい別の蔵が建てられていることに気が付いた。
様式といい、大きさといい、彼には馴染みのある造りの蔵だった。さらに石垣で高く囲まれている頑丈さだ。
どこの城に行ってもまず同じものが建っているからだ。
(焔硝蔵ではないか。こんなものを新しく拵えるとは……)
焔硝蔵とはすなわち火器につきものの硝薬やら弾丸やらを保存するために、湿気がこもらないように工夫された蔵のことである。
やたらと棚が多いのが特徴だ。
地面というのは意外と湿気っているもので、直に火薬等を置いてダメにするわけにはいかないので専用の蔵が必要なのであった。
このような焔硝蔵があるということは……
(やはり大量の鉄砲を買い入れたということだな。新城に武具を揃えるのは当然だが、別におれにはどうもしないことだ。よしよし、それは謀反の心があるという口実になるやもしれぬ。これは案外簡単に上野介を失脚させることができるやもしれぬぞ)
黒歯坊はひひと呻いた。
笑い顔なのだが、どうみても猿にしかみえない。
(よし、この程度の警備ならば武器蔵の方もたいしたことあるまい。上野介の買い揃えた鉄砲が何丁あるか正確に勘定しておくとするか。ひひひ、お手柄だぞ、黒歯坊)
増長しつつも、油断ばかりはしないようにして、黒歯坊は城の奥へと進む。
だが、彼ほどの忍びとしては気が緩んでいたというべきだろう。
いくら普請中とはいえ、見回る藩士の数がやや少ないということに気が付かなかったのだから。
藩士の数だけではない。
この城には彼の仲間の腕を奪った剣士がいるということをすっかり忘れていたのであるから、やはり油断していたのであろう。
目的の武器蔵を見つけると、ひらりと跳躍して壁に取り付き、そのまま空気窓から中を覗き込む。
意外と中は広い様子だった。
真っ暗に近く、さすがの忍びでも見通すことはできない。
(屋根あたりに入れそうな天窓があるかもな)
黒歯坊が内部に忍び込むことに決めて様子を窺い、屋根までなんの出かかりもない壁を登ると予想通りのものがあった。
天窓だ。
そこから忍び込む。
中はかなりごちゃごちゃしていて、木箱がたくさん積み重ねられていた。
そのうちの一つを開ける。
木屑に保護された鉄砲が入っていた。
鉄砲方でもある根来法師の黒歯坊はそれが泉州は堺の品であることを看破した。
名だたる鉄砲の名産地でもあるし、根来寺でも使われているから見慣れていたということもある。
数は五百ほど。
藩士の数からするとやや多いが、いざいくさとなれば多すぎて困ることはない。
本多正純の用心深さが表れていると黒歯坊でさえも感心するほどであった。
そのとき、後ろの棚の隅でガタと音がした。
ただの荷崩れの音ではない。
蔵の真ん中に人間大の大きさの頑丈そうな櫃が無造作に置かれていた。
明敏な黒歯坊の五感は、その櫃の裏にあたる位置で生き物がたてた音だと判断していた。
誰かがいるのかと思い、瞬時に殺害を決意する。
そこが人外の化生と呼ばれた忍びの冷酷にして計算高いところでもある。
(ちっ)
黒歯坊は背中の革袋の中から鉄砲を取りだす。
馬上筒ほどではないが、三尺四寸(約一メートル)ほどの銃身を持つ鉄砲であった。
先端には例の音を消す仕掛けがついている。
それを音が聞こえてきた方角とはまったく異なる直角に銃口を向ける。間違いなく、あらぬ方向に狙いをつけているというのにまったく気にしていない。
それどころかもう一度似た音がしてもそちらを見向きもしないのだ。
いつのまにか火縄には火がついている。
火の粉が散っているのが、点火が完了していることの証明だ。
恐ろしいまでの速度で鉄砲―――火縄銃を発射可能な状態にもっていったのだ。
だが、この忍術僧の本当の凄まじさはそこではなかった。
引き金にかかった指が撃鉄をコトンとひく。
本来、発さられるはずの鉄砲の轟音はせずに、パンという程度の破裂音がなった程度で終わる。
そして、銃口から炎をまとって飛び出した弾丸。
カカカ、と奇妙な擦過音も響く。
「シャ!」
何かのうめき声がした。
それを聞いて黒歯坊は眉をひそめる。
「ん、なんじゃ?」
そう呟くと、鉄砲を担いだ法師は声のした方向へ行く。
人間大の櫃が置かれていて、その奥を覗き込んではじめて黒歯坊は自分が撃ったものの正体を知った。
「なんじゃ、猫か。……まったく、鼠をとるためにここに忍び込んだということかよ。まぎらわしいことをしおって。見張りかと思ったわ」
櫃の後ろに隠れるように死んでいたのは黒い猫であった。
毛皮が薄汚れているので藩士の誰かの飼い猫ではないようだ。
胴体をものの見事に鉄砲が撃ち抜かれ、その威力のためか半分に引きちぎれかけていた。
「まったく邪魔な畜生じゃのお。弾を一発だけ損した」
黒歯坊は自分が撃ち殺した猫の死骸を蹴り飛ばした。
とても僧形の人間のすることではない。
忍術を極めた時点で彼はすでに僧侶であることをやめているのだ。法師の恰好はただの衣装にすぎない。
だが、真に恐るべきは、自分が手を下した小動物をゴミ同然に扱うその冷酷な心よりも、あらぬ方角へ向けて発射したはずの弾丸が、こともあろうに人間よりも大きな櫃の後ろに潜んでいた猫を射殺したという事実であった。
銃口から発射された弾丸は当然前にしか飛ばない。
勢いが落ちて下降することがあったとしても、射線が曲がったりすることはない。
現代において、かのナチスドイツが物陰に潜んだまま相手を撃てるようにと曲射銃なるものを考案したことがあった。
曲射銃は価格の面での折り合いや精密さに問題があったらしく実用されなかったが、それとてもともと陰に隠れたまま相手を射撃するというので、射線そのものが曲がるわけではない。
また、弾が壁などに跳ね返って飛ぶことを跳弾というが、それとて物理的には九十度直角には曲がらない。
だが、黒歯坊の放った弾丸は完全に陰に死角に隠れた猫を一発で仕留めたのである。
カカカという擦過音は弾丸が壁にぶつかり跳ね返った時の音だろう。
それが三度。
弾丸は三回跳ね返って、黒猫の命を奪ったのだ。
もし狙ってやったとするのならば、なんとおそるべき魔技なのであろうか。
「ヒヒヒ、まあ、我ら七忍の使う根来流忍術射撃。しかもおれの「降三世撃ち」の的になれただけ、畜生にしてはマシな死に方かもしれんな。仏法に感謝することだな、猫よ」
猿のように下卑た笑いを浮かべながら嘯くと、黒歯坊は再び鉄砲を背中に回す。
猫の死体は懐からだしたズタ袋に仕舞い込んだ。
忍び込んだことが発覚すると厄介だからだ。
吹き飛んだ血肉はどうにも処理できないので捨てていくことにする。
「さて、証拠は掴んだ。これで鉄砲の関所破りで上野介も終わりだろう。まったく、さっさと殺してしまった方が楽だというのに面倒なことよ」
そして、そのまま入ってきたのと同じように天窓から出ていった。
……数秒後、猫が隠れていた櫃の蓋がどういうわけか独りでに開きだした。
もし黒歯坊がそのまま留まっていれば、即座に鉄砲を取り出したに違いないが、もう根来の法師はとうの昔にいなくなっていた。
その間隙を縫うように、中から現れたのは、痩せてはいるが切れ長の目をもつ官吏そのものの武士―――本多出羽守正勝であった。
いくら人間と同じ大きさとはいえ、男が一人入っているには狭すぎる櫃から窮屈そうに顔を覗かして外に出てくる。
「おい、又右衛門、まだそこにいるのか」
と天井付近に向けて呼びかけると、その声に招かれたように、蔵の高い位置にある梁から大きな黒い影が落下してきた。
着地の音はまったくしない。
正勝が目を丸くするほどにとんでもない身軽さであった。
降りてきたのは荒木又右衛門である。
「ここにおりまする」
「さっきのが、例の奴輩か?」
「そのようですな。きゃつらがどうやら根来から派遣された忍術僧。―――きゃつの独り言からすると、およそ七人というところでしょうか。伊賀で、拙者が仕入れてきた情報と同数でござるので、まず間違いはないところでしょう」
正勝は猫が撃たれた場所を見下ろしていった。
「あれが、おぬしの敵か?」
「いいえ、正勝さま。違いまするぞ」
「なんだ、何が違うというのだ?」
又右衛門はにやりと口の端をゆがめた。
「あの根来の外道坊主どもは、拙者と大殿、正勝さま、そして宇都宮に暮らす民草すべての敵なのでございまするよ」
これから先に待ち構えている屍山血河を意に介する様子も見せず、伊賀の若き忍びにして剣士は不敵に言い放つのであった。