最期
荒木又右衛門は、養家には戻らず伊賀に引きこもり、後に郡山十二万石の松平下総守忠明に仕えることになる。剣術師範として二百五十石を与えられたという。
寛永十年(1633年)ごろに義弟の渡辺数馬に助太刀を要請され、これを快諾して郡山藩を退身した。翌年十一月七日、数馬とともに伊賀上野鍵屋の辻で河合又五郎を討ち、仇討ちの本懐を遂げる。
日本三大敵討ちの一つとされる鍵屋の辻の事件であった。
数馬は又右衛門の妻の弟であったが、様々な事情が介在したことによって、ほぼ孤立無援の状態での闘いを強いられたということもあり、義と情に厚い又右衛門がこれを見放すはずがなかったのだ。
もっとも、又右衛門にしてみても郡山藩を退身することにはなんの躊躇いもなかった。
何故かというと、藩主松平忠明は徳川臣下の奥平信昌と徳川家康の娘・亀姫の間の四男として生まれ、二代将軍秀忠を叔父にもち、彼から「忠」の字を賜り忠明と名乗っているというほどにはっきりとした秀忠派の大名だったからだ。
しかも、宇都宮の事件で敵対していた亀姫の息子であり、本多家のあとに宇都宮に入った奥平忠昌の兄弟でもある。
要するに又右衛門が忠明に仕えたのではなく、本多正純に対する陰謀の核心を知り尽くしている彼を監視するために預けられたというのが正解なのである。
本来ならば、このような秘密をもつ人物は早々に消してしまうのが通常なのだが、又右衛門は宇都宮を出る際に見せた三十六人斬りというとてつもない戦闘力が警戒され、一筋縄にはいかないということと、出羽国由利へ流罪となり、同横手にて幽閉の身となった本多親子が静かに時を過ごしていたために、無理をして暗殺する必要性がなかったからである。
彼を利用した師匠の柳生宗矩の口添えもあったのは確かではある。
又右衛門自身も、もう剣士として身を立てるような振る舞いもせず、じっと剣術師範として大人しくしていたこともある。
それゆえに、大事件の証人としては極めて異例の生存を許されていたのであろう。
もっとも忠明自身にはなんの忠義も感じていなかったこともあってか、又右衛門は郡山藩をさっさと出ていき、数馬とともに探索の旅に出た。
その胸中には、きっと寛永七年(1630年)に長い幽閉生活で健康を害し、三十五歳で死去している莫逆の友本多正勝の最期が刺さっていたに違いない。
そして、渡辺数馬の敵である河合又五郎の背後にいた、三河以来の旗本衆の存在が、なおのこと又右衛門の気に障ったものと思われる。
かつて同じ旗本であった本多正純を、権力争いのうえで失脚させて苦渋を舐めさせたうえ、親友正勝を地の涯で病死させた土井利勝を初めとする三河譜代の旗本への反発が、義弟数馬の侠気に助力することを選ばせたのではないか。
おそらく、鍵屋の辻の敵討ちに挑んだ又右衛門にはそういった複雑な思いがあったものといえよう。
又右衛門は寛永十五年八月二十八日に鳥取で頓死しているが、これは当時から誰にでも嘘だと見破られていた程度のことであり、彼が実際にはいつどこで生涯を終えたのかは定かではない。
やはり想像をたくましくするのであれば、前年の寛永十四年三月十日に、配所の横手で逃亡防止のために住居をすべて板戸で囲まれ、まともに日もささない状態で過酷な生活の果てに七十三歳で死去した正純のもとに向かったのだと思いたい。
……講談で「荒木の前に荒木なし、荒木のあとに荒木なし」といわれた義士、荒木又右衛門。
その半生における最大の影の闘いが、のちの表舞台での晴れ晴れしい敵討ちに影を落としていたということを知るものはいない。




