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斬ってはならぬ

 翌朝、陽が姿を見せる直前の薄暗い中を荒木又右衛門は出発した。

 編み笠を深くかぶり、視線を遮るようにして。

 一年以上の時を過ごした宇都宮城であったが、まるで逃げ出すかのような出立であることは、誰とも言葉を交わさなかったことから明らかである。

 あいにくの曇り空で、しかもわずかだが小雨まで降っていた。

 主君の出張中に、その不在を狙うかのように通達された悲報によって、一夜明けてもいまだ騒然としている城を抜け出すのは難しいことではなかった。

 顔見知りになった門番を避けるため、東の通用門へわざわざ遠回りして、それから又右衛門は城下に出た。

 まだ畑仕事に出る百姓たちの半分働き出してはいない。

 そんな中を小走りに歩く。

 荷物はほとんどない。

 大切にしたいのは、大殿―――本多上野介正純から頂戴した伊賀守金道のみであった。

 鈨本で幅一寸余、長さが二尺七寸、重ねの厚いこの太刀だけが、人外の化生どもと一年余りを戦った又右衛門に与えられた報酬だったのだ。

 日光街道を抜け、もう住民の家すらも見なくなるだろう場所まで辿り着いた時、道ばたから声をかけられた。

 一瞬、地蔵か道祖神の類かと思ったが、そこにいたのは旅姿の小柄な女であった。

「……又右衛門殿」

「なんだ。お桐か」

 ここしばらく城内にも姿を見せなかった女忍びである。

 砂や土で汚れた足元を見るまでもなく、どこかへ旅に出ていたのであろう。

「どこへ行かれるのですか?」

「おまえの知ったことではない。ちぃとした野暮用よ」

「……城を出られるのですね」

「―――そうだ」

 久しぶりの会話ということもあり気まずかったが、又右衛門ははっきりと答えた。

 もうこの女忍びと会うこともないだろうと考えると、多少の寂しささえも覚える。

「何をしに」

「それこそ、おまえの知ったことではないな」

 取り付く島もないとはこのことだ。

 だが、強い拒絶に対しても桐は衝撃を受けたようには見えなかった。

 むしろ、淡々とそれを受け入れた。

 とうの昔に納得済みとでもいうかのように。

「……江戸に行く気なら、その前にこれを」

 桐は懐から丁寧に畳まれた書状を取り出して、又右衛門に差し出した。

 思わず受け取ってしまうが、宛名は書かれていなかった。

「なんだ、これは」

「正純さまから、又右衛門殿に」

「大殿から!」

 予想もしていないことであった。

 山形で拘束されているという正純から、彼あてに書状があるというのは。

「なぜ、おまえが……」

「私はいざという時の使い走りで正純さまについて行っていたから」

 正純は自分がいまだに幕閣からつけ狙われていることを理解したうえで、宇都宮の正勝らと連絡を密にするために忍びの桐をつれていったのであろう。

 城にはもう一人忍びはいたが、それは又右衛門のことであり、陪臣である彼をつれていくわけにはいかないので当然の選択ではあった。

「どうして戻ってきたのだ。今こそ、おまえの助けが大殿には必要だというのに」

「正純さまはおっしゃられていた。もう、自分は罪人であり、家人を雇う必要はないのだと……。私はお暇を出された。この書状をあなたに渡して、正勝さまたちに言伝を届けたら私の仕事は終わり」

「そうなのか」

「私もお役御免。叔父さまとともに江戸に戻ることになる」

「おまえは伊賀同心の娘であったからな」

「そう。これを又右衛門殿に届けたら」

 又右衛門はじっと手の中の書状を見た。

 自分にとってどうしょうもない窮状の正純が、彼のためにわずかでも時間を割いて書き記してくれたということが嬉しくて仕方ないと同時に寂しかった。

 まだ、遠い山形の地で彼は政治で戦っているのであろう。

 すぐにでも駆けつけたいところであったが、彼よりも忠義ものであった桐でさえ暇を出されたということは、彼など押しかけても迷惑以外のなにものでもないだろう。

 もう又右衛門にできることなどほとんどない。

 昨夜、決意した通りにことを働き、最期の面目を施すことだけを考えよう。

 又右衛門は書状を開き、目を通した。

 そこにはほとんど一言しか書き記されていなかった。

 正純らしい几帳面な字で、

「又右衛門、斬ってはならぬ」

 と、あった。

 誰をとは書いてない。

 彼以外の誰かに盗み見されるおそれがあったから、曖昧にされているのだが、この一言を読んだ途端又右衛門は震えた。

(大殿はご存知なのだ)

 遠い地の涯においても、やはり本多正純は明敏な頭脳の持ち主であり、彼のために尽くした又右衛門の心中を読み解くだけの器量を備えていることを示す証拠であった。

 又右衛門が江戸に行く目的はただ一つであった。

 彼を利用し、正純を失脚させた土井利勝の首を採る。

 もう柳生の弟子であることも構わない。

 清廉潔白な本多正純を地の底に叩き落す原因を作り出した土井利勝。そして、裏で糸を引いていたであろう、二代将軍に対して痛烈な恨み言の一つもぶつけたいと思っていたのだ。

 その途中で例え師匠や兄弟子と戦うことになろうとも。

 幸い、彼は正純の家臣ではなかった。

 成功し、又はしくじったとしても責めを負うのは彼を派遣した本多政朝だけだ。

 すでに彼は播磨龍野藩に戻るつもりはなかった。

 本多正純との出会いが彼にとっては得難いものであった結果として、かつての主君である政朝に対する失望が強く残ってしまったのだ。

 彼が宇都宮に来たのは政朝の命によるものであるが、そもそもその派遣自体が柳生宗矩と土井利勝が糸を引いていたものであるということは、政朝とて事情を知らないはずがない。

 同じ本多家の血筋でも、仲の良くない傍流の親戚を陥れるのに一役買ったこときまちがいないのだ。

 政朝のやり口は正純のそれと比べて明らかに陋劣であり、まっすぐな性根をもつ又右衛門には耐えがたいものとなっていた。

 だからこそ、正純は彼への言伝を桐に託したのだ。

 斬るな、と。

 殺すな、と。

 言いがかりといってもいい三か条により罪に問われ、讒言したものたちに恨みを晴らしたいのは彼だというのに。

 それを堪えて、家臣でもない又右衛門を諫めようと書状を届けさせたのだ。

 なんという深い心なのだろう。

 又右衛門は一瞬だけすすり泣きの声を漏らした。

 桐は自分よりもずっと背の高い大男を見上げた。

 優しい眼だった。

 他人を斬ることしか考えないぶへんの若者であることを思い出したかのように。

「……では、桐はここで」

「ああ、正勝さまによろしく頼む」

 懐に書状を仕舞い込むと、編み笠を被り、又右衛門はもう一度背筋を伸ばした。

「まだ、江戸に行く気なの?」

「どのみち東海道を使うには江戸経由の方が早いからな」

「そう」

 興味なさそうに答えると、桐は又右衛門とは反対側へと歩き出した。

 もう本多家のものではない宇都宮城に向かって。

 一方の又右衛門は江戸へ。

 共に戦った二人の忍びは振り返ることもなく互いの道を行くのであった。

 ……だが、そんな又右衛門の前に再び立ちはだかるものがいた。

 これも彼にとっては既知の相手であった。

 最後に顔を見た時とは異なり、慣れた無紋の袖なしの墨染めの衣、脛の半ばしかない葛袴、そして山伏のような総髪をしていた。そして、両手に握った二丁の馬上筒。

 憎しみと蔑みに満ちた眼をした根来の忍術僧、最後の一人。

「―――藍婆坊か」

 又右衛門はその名を呼んだ。

 一年以上も暗闘を繰り広げたある意味では親しい間柄である。

 彼の失意と悲しみに満ちた旅路の見送りに相応しい相手でもあった。

「久しぶりだな、荒木よ。上野介を守り切れずに何処に行く?」

故郷さとに戻る」

「引かれ者の小唄、負け犬の遠吠えをほざかぬのか? 貴様はおれたちに負けたのだぞ」

「そんなことを大殿は望んでおらぬ」

「ククク、確かにそうだな。潔さだけは、上野介の美徳であるからなあ」

 嘲り笑う藍婆坊を又右衛門はじっと視た。

 今となってはもうこの生臭坊主になんの興味も湧かなかった。

 雌雄を決したというよりも、敵として認識することすら面倒くさいと感じてしまったのだ。

 又右衛門にはもう守るべきものはないのだから。

「……そこを退け。拙者はもうおまえたちになんの用もないのだ」

「そうはいかん」

「……なんだと」

 退けと言われても、藍婆坊は悠然と立ち尽くすだけだ。

 その身には勝者側についたものの余裕があった。

「貴様には我らの同胞を六人までも屠られた恨みが骨髄まで達しておる。たとえ、すべてが終わったとはいえど、貴様をここで見逃してしまっては仲間たちの魂が成仏できぬのだ」

「意趣返しという訳か。ふん、坊主のくせに相変わらず生臭いの。それだけのために、こんなところで見張りをしておったとはな」

「ぬかせ、伊賀もの」

 合図と同時に、周囲の茂みの中から数十人の墨染めの衣をまとった法師姿が現われる。

 全員が藍婆坊とよく似た獣じみた雰囲気を醸し出していた。

「……集めたのお。それで幾人ほどだ?」

「おれを含めて三十六人よ。いかに、貴様が剣の達人といえどこの数を相手に回して万が一にも生き残れるとは思うまい!」

 高らかに藍婆坊は叫んだ。

 確かにその通りだ。

 一人二人ならばともかく、三十六人もの敵を相手に命あるものがこの世に居ようとは思えない。

 しかし、荒木又右衛門は莞爾として笑った。

 初めてこの宇都宮の地に降り立ったときのように、不敵極まりない笑みを湛えて。

「よかろう、藍婆坊。その程度の雑兵を集めた程度でこの又右衛門を始末できるというのならばやってみるがいい。―――この伊賀守金道の錆にしてくれるわ」

 腰に佩いていた刀を引き抜き、無形の位をつくる。

 藍婆坊の忍術射撃「大威徳撃ち」についてはわかっている。

 二丁の馬上筒をまるで猿楽のように回して舞いながら撃つ、奇怪な踊りめいた業だ。

 だが、もう何度も見ている。

 ただの外連でしかないと割り切っていた。

「吠えたな、荒木。では、死ね!」

 藍婆坊が愛銃をもって挑みかかる。

 背後の三十五人の根来僧も同時に動いた。

「ぐおおおおお!」

 又右衛門は吠えた。

 土井利勝やその他の正純を陥れたものたちを斬ることはできぬ。

 それは君命だからだ。

 だが、彼と同じように手ごまとなって働いた根来衆までは斬るなとはいわれておらぬ。

 だから、又右衛門は容赦なく苛烈な戦いへと飛び込んでいった。




 三十六人対一人という、死闘は誰も知らぬ場所で繰り広げられ……。






 そして、終わった。



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