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将軍家、来ず

 元和八年四月十二日、二代将軍徳川秀忠は江戸城を出発した。家康公の七回忌御社参のためである。

 翌十三日には、古河城に泊まり、十四日には宇都宮に到着し、本丸西寄りのお成り御殿に一泊することになった。

 城中の広場には篝火が焚かれ、二ノ丸、三ノ丸にも同様に赤々とした篝火と警護の兵士たちが配置されていた。提灯や松明も随所に揺らめいていた。

 とはいえ、火気厳禁のおふれはまだ続いており、城内でも屋敷の内部には篝火は使われないということになっていた。

 とはいえ、城内の重臣の屋敷はおろか、一の筋、二の筋、三の筋から四の筋に至るまで、家中の屋敷のほとんどは将軍家の行列のお供の面々の宿舎に当てられていたこともあり、家臣たちはほとんどが夜を徹して見張りをしていたこともあり、月明かりしかない状態でも十分ではあったのだが。

 正純も秀忠との謁見をして、和やかな饗宴を催したという。

 その秀忠一行は翌日には宇都宮を発足し、またも延々と長蛇の人波を作って日光街道を下っていった。

 榎町大手門を出た先触れが伝馬町、新田町、戸祭村、上戸祭村、野沢村という各地域を抜けてもまだ城内にお供が残っていたといわれているほどの大行列であった。

 記録によれば、約二十万人以上。おそらくは七万人は動員されたであろうと推測されている。

 それが二列縦隊になり、ゆっくりと進むのであるから、日光街道の混雑は相当なものであったはずだ。

 ただ、一行さえ過ぎれば宇都宮は今までと同じ静けさに戻る。

 日光へのご社参を終えた秀忠がまた帰りに一泊するまでは緊張感を保たねばならないとはいえ、一息つくことができたとはいえた。

 城内の藩士たちはわずかに気を休めたのである。

 もっとも、そうはいかないものもいた。

 師である柳生宗矩との邂逅以来、本多家の奥屋敷の離れに閉じこもってしまった荒木又右衛門がそれである。

 彼は最低限の報告を正勝にあげると、その足で離れに自ら入りでてこなくなったのだ。

 ただし、事情については又右衛門を二重尾行していた桐が目撃していたこともあり、正勝も把握はできていた。

「……その無厭坊の死骸はどうなったのだ? 鉄砲の音を聞きつけた他の者たちが駆け付けた時には消えていたというぞ」

「おそらく、柳生の十哲という忍びが始末したのだと思います。それ以外、考えられません」

「……死んだという三人の遺骸が各屋敷にいつのまにか届けられていたということの謎はそれで解決という訳だな」

「又右衛門殿と同等の手練れというのならば、その程度はしてのけると思います」

 又右衛門という名前を聞いて、正勝は沈痛な面持ちになった。

 侵入していた無厭坊は確かに彼が倒した。

 だが、その後の行動が不信を招く以外の何物でもなかったのだ。

 血に濡れた刀を手にして根来同心たちのもとへと向かい、その途中で柳生宗矩に平伏した姿を目撃されたという点が。

 会話についても、桐は盗み聞きできていた。

 おそらくは桐の存在に気が付いていながら、わざと聞かせたのだろうと女忍びは推測していた。

「……又右衛門は本当におれたちの敵の手下だったということか?」

「わかりません。柳生宗矩の下知に従っていたのは確かなようです。ただ、納得はしていないようではありました」

「それも演技かもしれんぞ」

「忍びならありうることです」

 とりあえず最初の難関は越えたといっても、本多家に対する土井利勝一党の攻撃が止んだわけではない。

 その最中にもっとも信頼していた仲間が敵の手ごまであったかもしれないという疑惑は、どうしようもなく正勝を傷つけていた。

 信頼を裏切られた。

 それだけでは言い尽くせない断腸の想いがあった。

「おれは又右衛門が徹頭徹尾裏切っていたとは思わない。だが、もうこれ以上信じて頼ることはできない」

「お察しいたします」

「……将軍家の復路でのご宿泊が終わったら、あいつには出て行ってもらおう。斬ろうとまでは思わん。だが、腹に何かあるかもしれぬ忍びをこのまま宇都宮に残す訳にはいかないからな」

「当然です」

「お桐。それまで、あやつの見張りを頼む」

「わかりました」

 桐は裏切られたなどとは思っていない。

 忍びがそんな情を持つはずがない。

 ただ、虚しさだけは感じていた。

 大切な友を失くしたかのような。


 だが、事情はまたも変わっていく。

 今市の宿舎をあとにした将軍秀忠の一行は、日光に到着し、十七日には祭祀が執り行われた。

 十八日は登山して中善寺に参詣し、東照宮に戻ると舞楽を堪能して、大僧正天海が導師となった円頓戒を授けられている。

 秀忠は十九日までにはすべての法施法要を済ませると東照宮本坊を出発し、またも今市へと車駕を進めたのだが、突然、手輿を騎馬に乗り換えると一息に南下し始めたのである。

 夜陰までに日根野良明の守る壬生城に入御し、二十日には岩槻城に辿り着き、二十一日の午後には江戸城に帰還したのだ。

 行きには四泊五日をかけた道のりを、たった二泊三日の強行軍で飛ばしたのである。

 その理由としては、「御代さま御付与のため」とされていた。

 つまり、正妻であるお江与の方が病気になったために身を案じたということであるが、あまりに唐突な行動すぎて騒然となった。

 特に帰路の宿泊の準備をしていた本多家と奥平家にとっては肩透かしも当然な結果だったからだ。

 秀忠とともに江戸に戻ったのは数人の近習のみで、ほとんどのお供はまだ日光街道で右往左往している状態であり、将軍がほぼ単騎で路上を駆けるなどということは到底あり得ない暴挙なのだった。

 いったい、なにがあったのか。

 それを探るために正勝たちは必死になっていたこともあり、又右衛門の存在はしばらく棚置きということになってしまったのだった。

 そして、いざ又右衛門の処遇について取り掛かろうとしたとき、正純が再び彼を召した。

「荒木に話がある」と……。



 ◇◆◇



 数か月前と同じ、書き物で埋め尽くされた部屋であった。

 丁寧に整理されているというのに、城主自らが目を通さなくてはならないものだけでも幾つも山を築いている。

 その中で正純は一心不乱に花押を押し、署名をしていた。

 荒木が部屋に入って来ても、すぐには顔を上げない。

 ただ、来訪については気づいていたらしく、ぴくりと耳が動いていた。

 しばらくして、

「荒木、しばらくだな」

 と、顔を上げた。

「はっ、大殿もご機嫌うるわしゅう」

「やめろ。そういうのはおまえには似合わん。……出羽守から、おおよその事情は聞いている」

「弁解のしようがございません」

「おまえは柳生宗矩の意に従ってここに来たのか」

「いいえ。ただ、拙者の動きはすべて師の掌の上での出来事でござったようです。釈迦の掌の斉天大聖ていどでしかなかったわけです」

「そうだろうな。おそらく図面をひいたのは柳生宗矩ではなく、土井利勝あたりであろうが」

「面目次第もございません」

 又右衛門は頭を畳に擦り付けた。

 自分の行動がなにをどうしたのかはわからない。

 ただ、すべてが正純の敵を利するために行われていたのではないかと思うと頭を下げることしかできないのだ。

 この宇都宮の城で忍術僧相手に戦ったことが、本多家にとって良いことであったのかどうかもわからなくなっていた。

 あくる日の師との邂逅が、又右衛門の心に深い疑心という傷跡を残してしまっていたのである。

「……拙者は大殿や本多家のために剣を振るいましたが、それとて師の思惑の内でしかなかったと考えるともう何が何やらわからなくなるのです。忍びであるか、剣士であるか、それさえも曖昧となり、自身の信じる道すらもわからなくなり申した」

「そうか」

「大殿は拙者を公儀の隠密として処分されるべきだと思いまする」

「……それが筋ではあるな」

 だが、正純はふっと笑った。

 万事堅物な彼らしくない温かい笑みであった。

「おまえの働きによってわしらは救われたことは疑いようがないのだぞ、又右衛門」

 又右衛門の眼が見開いた。

 性でなく、名を呼ばれたのだ。

 初めてのことであった。

「おまえの命がけの働きをわしは決して忘れぬ。おまえは底抜けに義信に満ちた男よ。そうだな、あえて言うのならば、荒木の前に荒木なし、荒木のあとに荒木なしといったところかの」

 諧謔めかしてはいたが、それはらしからぬ賛辞であった。

 冷徹な官吏だと恐れられた本多正純からの心からの言葉であった。

 又右衛門の目に男泣きの涙が滲んだ。

「おまえが自分のなした働きに自信を持てるようになるまで、この宇都宮にいればいい。あえてわしの家臣になれとは言わぬが、おまえが望むのならいつでも言い出すがいいぞ。おまえはそれだけのことをこの宇都宮藩のために尽くしてくれたのだ」

「大殿……」

 その言葉を聞き、又右衛門はもうこらえきれずにはらはらと落涙するのであった……。


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