奇怪な先駆け
元和八年。
なにごともなく正月が過ぎ去り、春を迎えるころになると、宇都宮城の普請のほとんどは完成していた。
二代将軍の日光社参も四月半ばということに決定し、そのための最後の仕上げも滞りなく始められる。
それは今まで倹約していた費用を惜しげもなく費やすことで、将軍が宿泊することになるお成り御殿を立派な美しいものにするためのものであった。
宇都宮城の他の部分は、本多家の気風にあった質実剛健そのものであるのに対し、お成り御殿の華麗さ、豪勢さはまばゆいばかりであったという。
荒木又右衛門のような山猿ですら、あまりの立派さに物怖じしてしまうぐらいに、柱も梁も黒漆でぴかぴかと輝き、極楽浄土かと思わせるほどに立派なものであった。
畳の建具職人、表具屋、錺職人などの新顔が頻繁に出入りするため、怪しいものがいないか見て回るのが又右衛門の主な仕事であったせいで、さすがの野人も美的感覚が磨かれていくように錯覚するぐらいである。
「うーむ、いつみても惚れ惚れする出来栄えだな。喃、桐よ」
「その言葉、もう飽き飽き。いい加減、黙って」
「手厳しいのお」
風呂敷包みを両手に抱え、彼の後をついてくる桐の辛辣な口調を受け流し、又右衛門はお成り御殿の内部を見廻る。
時折、顔見知りとなった職人や大工たちと挨拶を交わしたり、どうでもいい諧謔を飛ばしながら、二人は怪しいものはいないか、異常は見当たらないかを確認する。
秋の根来同心成敗以来、一度も顔を見せない根来の忍術僧たちの動向が気になるということもあり、特に最後の仕上げの段階においてはこれまでとは違う種類の職人たちに目を光らせる必要もあった。
得物の鉄砲ばかりが強調されるが、根来同心も卓越した忍びである以上、職人に化けて入り込んでくるおそれがあるからだ。
とはいっても、出入りの職人に関しては万事そつのない本多家の家臣団が身元を確認している以上、そうたやすく忍び込めるものではない。
単に又右衛門の顔が知られる散歩のような日課とはなっていた。
桐の同行も周囲には似たように取られていたようである。
「二年半におよぶ工事も終わるときはあっけないものだな」
そう又右衛門が呟くころには、仕事場も資材置き場も撤去され、庭師による最後の手入れが終わり、将軍が宿泊する際の寝具や調度品などを新しく調達し運び込むと、ほとんど用意は終わっていた。
二月の末には、秀忠の江戸城出立は四月十二日と決まり、十四日に宇都宮城に宿泊し、そのまま日光まで行く予定が伝えられてくる。
復路も二十日に泊まる予定であり、それらの予定に合わせて、宇都宮藩たちは様々な仕事に忙殺されることになった。
又右衛門たちとは違い、忍び対策以外の諸々の仕事に追われた正勝などは目の回る忙しい時間を送っていた。
まさに猫の手も借りたいほどではあったが、又右衛門だけは仕事らしい仕事は与えられず、ある意味ではのんびりと過ごしたといえる。
むしろ、彼の仕事の本番は秀忠の宿泊する当日であった。
将軍に扈従する人々の中には、水戸中納言頼房ら徳川家の門葉、藤堂高虎などの大名諸侯の名前があるのだが、問題は老中・土井大炊頭利勝の存在であった。
幕府の閣僚である以上、将軍に扈従して当然なのではあるが、約一年ほど続いた暗闘のことを考えると本多側としてはその名に警戒せざるを得ない。
そして、正勝たちが気にしていたのは、なにより宇都宮に来る前日に古河に将軍が泊まるということだった。
(なにか嫌な予感がする)
又右衛門としては胸をよぎる黒いものに、不安にならざるをえない。
亀姫こと加納御前は秀忠のたった一人の姉であり、古河宿泊の際に姉弟が顔を合わせないはずがない。
その際にどのようなことが話し合われるか、例の根来同心の成敗がどのように響くのか、彼には見当もつかなかった。
きっと本多家にとって悪しざまに告げられるであろう。
あの事件の黒幕の一人が加納御前である以上、絶対に利用してくるはずだ。
かなりの時間をかけた謀略であるのだから、最初から図面がひかれていたのは間違いないのだから、それを秀忠がどう捉えるか。
二代将軍本人を知らない又右衛門にはどうしても読み切れなかった。
だから、そちらの対策は正純本人か、正勝に任せるしかない。
彼にできることは、残る二人の根来僧がたとえなにかをしようとしても事前に察知し、叩き斬ることしかないのである。
歯がゆいと言えば歯がゆいが仕方がない。
したがって、その意味でも又右衛門はぼんやりと浮いた立場にあったと言ってもいい。
将軍秀忠が宇都宮城にやってくる前日、四月十三日の朝の時点での彼の立ち位置はそんななんともいえないものであった。
◇◆◇
一方、本多家の女忍び桐は、前日の朝には宇都宮の国境にいた。
将軍家が来る一日前だというのに、宇都宮に少なくない人数が先行して向かってきているという情報を聞きつけたからだ。
正勝の指図でこの先駆けの行列が誰のものであるか確認するため、忍びらしい俊足を生かしてあっという間に国境に赴くと、持参した遠眼鏡で確認をする。
あまりに近づくと悟られるおそれがあるからだ。
桐が見つけたのは十頭の馬とそれに従う五十人の徒歩の家臣たち、守られるように中心位置した籠が一つだけというものだった。
おそらくはあの籠の中にそれなりの身分の者が乗っているのだろう。
籠などの紋所を見れば誰の家臣なのかは一目瞭然。
桐は紋所を確認した。
(丸に六つの杓子がついた、六つ水車の家紋……。老中・土井利勝の紋所!)
桐の全身に警戒を促す稲妻が走る。
それはそうだろう。
彼女の主君を陥れようとしている陣営の、最大の敵―――それが土井利勝なのだから。
しかも、六つ水車の紋は利勝の代から使われだしたもので、他の土井家に由来のあるものという間違いもない。
ただし、幕府の老中の一行にしては人数が間違いなく少なすぎることから、土井利勝本人ではないだろう。
規模からいってもその家老格というところか。
ざっと一行を見渡してみた桐の視線がある一か所で止まる。
そこに彼女にとっての知己を発見したからだ。
「あいつら……」
知己といっても親しい訳でもなく、会って嬉しがれる相手でもない。
彼女が見知ったときとは違い、墨染めの袖なしの衣もまとっておらず、脛の半ばしかない葛袴も履いていない、山伏のごとき総髪もそれなりに髷として結われている。
一見、ごく普通の武士のように見えるが、まとっている雰囲気は大名付きのしっかりとした身分の侍のものではない、あからさますぎる妖気そのものであった。
ぎらりとした眼光は獣に近い、剽悍な山の生き物だった。
桐はそいつらの名を知っていた。
背中に担いでいる鉄砲を見なくともわかる。
「無厭足坊と藍婆坊……。土井利勝の家来に化けているの?」
忍ばない忍びというものも少数ながら存在するが、このように堂々と武士に化けている事例は稀だ。
まともな武士は、陰仕事をする忍びと相並ぶということを嫌がるからである。
ただし、主君の言うことならば聞かざるを得ない。
つまり、この一行の場合、主君・土井利勝の命があれば、あの根来僧たちを身内として扱わなくてはならないのだ。
土井大炊頭の狙いはわからないが、ここしばらく音沙汰のなかった忍術僧たちを自分の家臣として宇都宮城に送り込もうとしていることは明白だった。
桐は舌打ちをした。
土井家の家臣ということになると、おいそれと手を出すことができないからだ。
その正体はともかく、表向きは土井家に所属するものを本多家がどのような手段でも殺してしまえば大きな問題となる。
そして、こんな形で身の安全を図ったうえで、以前のような謀略を図られてはなかなかに対処することが難しい。
「ん、なに?」
ふと、二人の忍術僧から目を離すと、彼らとは違う武士がこちらを見ていることに気が付いた。
目が合った気がしたのだ。
見えている、はずがない。
桐のいる場所から、一行までの距離は十一町(約1200メートル)あるのだから。
当然気のせいかとも考えたが、彼女の故郷の伊賀には二十町先の飴屋の看板を読み取れるものもいたことを思い出す。
こちらを見ている武士がそのぐらいの視力を備えていたとしても不思議ではない。
だが、それにしては異様だ。
あの化け物じみた根来の忍術僧ですら気づかない距離にいる彼女の存在を悟ったというのだろうか。
しかし、次の瞬間、桐はさらなる恐怖を味わうことになる。
彼女を見ているものはひとりではなかったのだ。
一際身分の高そうな人物が乗っているに違いない籠の周りのいる、十人近い武士たちが、揃ってこちらをじっと凝視していることに気が付いたからだ。
指をさすでもなく、仲間に告げる訳でもなく、ただじっとこちらを凝視している。
何か奇妙な獣でも見つけて、それを観察するかの如く。
桐は思わず、遠眼鏡を外し、周囲を窺った。
傍に夥しい敵が潜んでいるかのような錯覚に襲われたのだ。
彼女にとって喜ばしいことに、誰一人、獣の一匹とて潜んではいなかったが。
もっとも、それだけ視線に乙女の姿態にまつわりつく粘り気のようなものを感じてしまっていたということであった。
「―――いったい、なんなの!?」
桐は思わず叫びたくなった。
あの十人の武士たちはいったい何者なのだと。
主家と彼女にとっての宿敵となっていた二人の生き残りの忍術僧以上に不気味な存在が、宇都宮城に近づいていることに桐は震えた。
あんなものをお城に入れてはならない。
一刻も早く、大殿さまと正勝さま、そして又右衛門殿にお知らせせねば。
……桐は走り出した。
その彼女の後ろ姿を、例の武士たちが無言で睨み続けていたことに気が付かないままに。




