不動撃ち
荒木又右衛門は亀姫の屋形のすぐ傍でじっと機会を窺っていた。
彼の推測によれば、屋形の中にいる忍術僧は二人。
驚異的な狙撃術を誇る毘藍婆坊と、剣士の彼にとっては厄介極まる相手だと認識している藍婆坊である。
一日、様子を探っても他の忍術僧は姿を見せる気配さえない。
おそらくは例の噂を流すために宇都宮に留まっているのだろうと思われる。
そちらの方は正勝と桐に任せるとすると、又右衛門としては四人同時に相手にするよりはかなり有利な状況であった。
一人を相手にしたとしても、いつ何時命を奪われるかどうかわからないほどの危険な使い手揃いなのだ。
出来ることならば屋形の中で気を休めているときにでも寝首を掻きたいぐらいだ。
だが、屋形の中に忍び込むことはなかなかできそうにない。
物見やぐらの上からの例の狙撃が恐ろしいからである。
屋形の塀を飛び越えることはどうということはないが、万が一、あの物見やぐらの上にいる毘藍婆坊に見つかり、獣のようにでも撃たれでもしたらさすがの彼でも死ぬことは免れない。
東西南北どの方向から探っても、あの物見やぐらからの監視を逃れることはできそうもなかった。
しかも、夜になると高張り提灯が煌々と掲げられ、警備も増えるので、気取られずに侵入することはいかに彼でも至難の業であった。
もっとも、又右衛門の目的はあの忍術僧の命そのものであり、無理に奥平家の屋形に忍び込む必要はないのではあったが。
そして、ある程度勝算の高い策を練った後、又右衛門はおもむろに屋形に向けて走り出した。
出来る限り、目立たないように。しかし、確実に物見やぐらに陣取っている狙撃主に見つかるように。
又右衛門の疾走は二町(約220メートル)を越えたあたりでさらに加速する。
当然、すでに発見され、その身は種子島の照準に捉えられているはずだった。
いつ撃たれるかわからない緊張の中、又右衛門は自分と物見やぐらとの距離を胸中で測り、正確に以前『空蝉』の傀儡が撃ちぬかれた地点にまで達したと同時に横に跳び退った。
間髪入れずに地面が弾け飛ぶ。
ギリギリで躱した弾丸が大地を抉り、土煙が立ち上る。
まさに髪の毛一本で命を拾ったといえる。
勇気を振り絞って危険に挑んだからこそ、近づけた距離である。
おおよそ一町半(約160メートル)。
しかし、彼が必要としていた距離よりもやや遠い。
せめてあと十歩分は稼ぎたい。
しかも、銃声を聞きつけて、前のように他の忍術僧がやってくるまでの時間も少ない。
又右衛門はバクバクする心臓をこらえ、隠れていた木の陰から飛び出し、あと十歩分を前進する。
弾込めの時間があるはずと思っていても、もしかしたら予備の鉄砲を用意していたかもしれないのだ。
そこはギリギリの賭けであった。
だが、又右衛門が前進しても、次弾が放たれることはなかった。
まだ、運がある。
そして、今度はその運が、相手方よりも強いかを勝負しなければならない。
大きく息を吸い、それから吐く。
剣士としての自分ではなく、忍びとしての荒木又右衛門と、狙撃手との一騎打ちが始まろうとしていた。
又右衛門は絞めていたたすきをかけなおした。
汗が目に入らぬように鉢巻をして、動きやすい股立という恰好は、のちに彼が鍵屋の辻で敵討ちに加勢した時のものと同じであったが、この時の又右衛門はまだ知らない。
懐からだしたものをギュッと握りしめた。
すべてはこれにかかっている。
それから、物見やぐらを見る。
忍びの鋭い目は物見やぐらの上で、こちらに向けて鉄砲を腕に抱いて構える法師姿を捉える。
物見やぐらの高さは十状(約30メートル)。
昨日、なんどか試してみたが、なんとかなる距離と高さではある。
「では、やるとするか。―――見ておれよ、この俺がよっぴいてひゃうと投げてみせようぞ」
又右衛門は再び息を吸うと、そのまま、木の陰から躍り出た。
しかし、今度は前に出ることはしない。
そのまま、横に出ただけだ。
手の中のもの―――ただの石だった―――を握りこむと、そのまま一度腋を絞めて胸に引きつけ、上半身を大きく開き、右手を振りかぶりつつ、後方にしなるように掲げる。
左手は前に向けて重心の均衡をとりつつ、左足を大きく踏み込んだ。
全身を捻り、螺旋を描き、矢のように右手を振った。
その右手から放たれた手のひら大の石は、指先をかすめて逆回転をしながら、一直線に凄まじい勢いで飛んでいく。
空気を裂く風切音とともに、石はまっすぐな軌道を描き、唸りをあげた。
目標は物見やぐらの上の毘藍婆坊。
「!」
種子島鉄砲を『不動撃ち』によって撃とうとしていた毘藍婆坊は、自分目掛けて飛んでくるものに気が付いたが、魔技ともいえる忍術射撃に精神を集中していたため、まったく避けることができなかった。
代々、又右衛門の家の系統は人間離れした怪力を持つものが多い。
又右衛門の叔父など背中に米を二俵くくりつけた牛の四足を抱え、河を渡り切ったというほどの尋常ならざる力の持ち主であった。
この叔父にかかればそこいらの木が棍棒となり、大石が礫となり、五人十人程度では相手にもならないと噂されるほどだったのである。
同じ血を継いでいる又右衛門もまた怪力であった。
したがって、その又右衛門が大きく振りかぶり、力の限り投擲したとなれば、ただの石ころではなく必殺の凶器となりうる。
遠距離からの狙撃に対するために、又右衛門が考え出した手段が、この石の遠投なのであった。
たかが石投げと侮ることなかれ。
戦国最強と呼ばれる武田軍の中で、ある意味で最も恐れられたものは投石のための部隊であったともいわれているし、近年でも学生運動が盛んなころに鍛えられた機動隊を生命の危機に陥れたのは剥がされたタイルを投げつけられることであったという。
また、投石はコツさえ掴めば種子島以上の距離を命中させることも不可能ではなく、現代の野球選手の中でもイチローなどは130メートルほどを正確に投げることができ、世界記録は槍投げの選手による160メートルである。
さらに、ただの石であったとしても頭にぶつかれば致命的な重傷を負わすことのできる攻撃となるのだ。
そして、又右衛門が渾身の力を込めて投げた石は、忍術射撃のために身動きのとれない毘藍婆坊に向けてまっすぐに伸び、左のこめかみに激突した。
あまりの衝撃に毘藍婆坊がのけぞった。
鈍い音とともに毘藍婆坊の視界が真っ赤に染め上がる。
頭蓋骨に罅が入り、血管の一部が切れた結果だった。
脳漿の一部も噴き出していた。
同時に忍術僧の意識は吹き飛び、くるりと回転したかと思うと、そのまま頭から物見やぐらを落下していく。
受け身も取れず頭から墜落した毘藍婆坊の首の骨が、衝撃に耐えきれずに粉砕され、そのまま忍術僧は即死する。
屋形の中から仲間の藍婆坊が現われた時には、十丈の高さから落下した毘藍婆坊は完全にこと切れていたのであった……。
「ふう、うまくいったようだな」
屋形の傍から再び離脱しながら、又右衛門は安堵の吐息を漏らした。
残った藍婆坊が奥平家の家臣を引き連れてくる前にできるかぎり遠くに逃げ出さねばならないからだ。
自分の石投げの結果については確認せずとも手応えを感じていた。
石が命中し物見やぐらから落下する毘藍婆坊が、おそらくは死亡したであろうことを彼は確信していたのだ。
それに、例え投石が致命傷程度で済ませられようとも、命中後のふらつきようとあの落下の仕方では確実に無事には済むまい。
又右衛門は強敵を斃しきったと自負していた。
惜しむらくは剣士として刀で仕留めたかったところだが、彼がしているのは戦いなのだ。
決闘ではない。
手段を選んでいられる余裕はなかった。
何よりも、すでに数日間宇都宮から離れているのが心配であった。
面倒事が発生していたとしても、遠く離れた古河から羽が生えてすぐに戻れるという訳ではないのだから。
正勝と桐にすべてを託すしか道はない。
「あと、三人か……」
だが、又右衛門は知らない。
彼が毘藍婆坊を倒したのと同時刻の宇都宮城において、もう一つの魔戦が繰り広げられていたということを。




