荒木又右衛門
荒木又右衛門保和は、慶長四年(1599年)に伊賀服部郷の荒木村で、服部平左衛門の次男として産まれた。
後にこの誕生した村の名を苗字として使い、剣の師匠である柳生宗矩の前名を頂戴し、「荒木又右衛門」と名乗るようになる。
十二歳のときに、本多政朝の家臣である服部平兵衛の養子となり、この本多政朝が姫路城主となった時期に理由は不明だが養家を離れて浪人となっている。
その後、大和郡山藩の松平忠明(別名で奥平忠明)のもとで家臣として取り立てられている。
有名な鍵屋の辻での敵討ちの際に、この郡山藩を出ていくことになり、最後は鳥取藩で頓死することになる。
―――荒木又右衛門はこれから綴られるべき物語の主人公ではあるが、その生涯が実はこの数行の説明の中に存在するいくつもの名によって大きく左右されていたということはまったく知られていない。
そのすべてが、彼がまだ若かりし頃、養家を離れて故郷の伊賀に引き込んだとされている時期のことであることも。
……では、江戸初期に綺羅星のごとく生まれた剣士たちの中においても、決して劣らない勲と武名を誇る大剣士の、歴史の闇に隠れた死闘をこれから綴っていくことにしよう。
舞台は、梅雨を過ぎたばかりの歴史ある土地・宇都宮。
元号は元和。
大阪における戦が終結してから約七年後のことである……。