パレード
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僕は泣いていた。
ただ、静かに泣いていた。
「あれ……」
不思議な、気持ちだった。
まるで、今までの全てが、どうでも良くなるような。
それでいて、今までの全てが、惜しくてどうしようもないような。
涙を止めようとしても止まらなかった。別に良いけど。困らないから。
別にこの気持ちを、誰かに分かって欲しい訳ではない。同情して欲しくも、ない。
それでも、僕は、そして横にいる彼女もいつの間にか、泣いていた。なんで、とはとても問えなかった。
今更ながら、自分は愚かだと。そして、醜いと思った。もう遅いけど。
僕は泣く。
この苦しさを忘れないように。この辛さを忘れないように。
この幸福を、永遠に忘れないように。
…………………………
余命半年だと告げられたって、別段何とも思わなかった。
だってそれが日常だったから。今まで何度も、生と死のぎりぎりをくぐり抜けてきた。
これは強がりだろうか。いいや違う。何の確証も無く『何とも思わない』なんて確信して、そして――いや、それだけだ。ただ確信した、だけ。
生まれつき、身体が弱かった。
そして、重い病気だった。難病、らしい。
でもそれがどんな病気なのか、母さんや父さんは教えてくれない。ただ、涙を流すだけ。どうしてそんなに涙が出るんだろう。僕は欠伸した時ぐらいしか出ないのに。
僕はどこか心が冷めているんだろうか。分かんない。分かんないけど、別に分かる必要はないや。
僕は今までの人生の殆どを、病院で過ごした。
白い空間は、自分の色を際立たせる。するとどうにも、自分が汚く見えるから、病室は苦手だった。それも今では慣れたけれど。
そしてその白い空間に、僕は大抵、一人でいた。勿論親が居ることもあったけれど、大抵、一人でいた。
そして今も一人でいた。何をする訳でもなく、随分と薬臭い布団の中に潜り込むように、仰向けで寝転がっていた。
息が苦しくなってきて、顔を布団の中から出す。静寂に包まれた室内は、しかし夜に比べると随分と喧しい。
廊下から、壁の向こうから、何らかの雑音は必ず伝わってくる。それは別に会話であったり、何かを落とす音であったり、ぺたぺたと暢気に上履きで床を打ち鳴らす音とは限らない。
一人の命が散り逝く音かもしれない。
――未だにそんな音は聞いたことないけれども。
「くぁ……」
欠伸が生まれる。暇すぎる。とはいえ、喧騒に包まれた世界で生きたいとも思わないが。
なんか良いことでもないかな……。
「暇してる?」
そんなときに、病室の扉を開けて、彼女は入ってきた。
…………………………
「君はさ、夢とかは無いの?」
緑の高い金網に囲まれて、端の方では物干し竿に引っ掛けられたまっさらな布切れが風に吹かれて揺れている、病院の屋上で。彼女は僕に、屈託なく訊いてきた。夢か……。
強いて言えばこの病気が治ることだが、
「無いね」
そんな夢でも叶わないことは、夢として持つべきではない。
「そっか」
そして彼女は、屈託なくそれを受け入れた。
彼女と会ったのはいつが初めてだったか。
別に特別な出会いなどは無く、ただ廊下で軽く言葉を交わしたのが初めてじゃないだろうか。
彼女がどんな病気かは全く知らない。
知っているのは、彼女が僕と同じ、この病院の患者であるということだけだ。それ以外は、何も。
短い栗色の髪は端の方で軽く波打ち、目はぱっちりとしていて、どうにも好奇心が強いようではある。けれど、微妙な空気も読めるようだ。背は……僕と同じくらいだろうか。
再び彼女が口を開く。
「じゃあさ、……何もしないままに死にたいと思う?」
「いいや、」
即答出来る。それだけは絶対に嫌だ。
でも口から飛び出す言葉は曖昧で、尻込みした感じのものばっかりだ。
「少なくとも、何か……なんでも良いんだけど、」
人の役に立ちたい。
産まれておよそ十五年。今まで、僕が人の役に立ったことはあるだろうか?
親に、そして色んな人に支えられているだけだった。ずっと。
「良いんだけど……」
でも、それを言葉に出来なかった。してしまえば、それは自分を縛りつける鎖に変わってしまうような気がしたから。
人の役に立ちたいのは本当だ。でも、それを言葉にすると、それを果たせなかったときに僕は、死ぬほど悔やむことになってしまいそうで。へたれな僕にはそれは無理だった。
そんな僕を見て、彼女は屋上に張り巡らされた転落防止用の金網に凭れ掛かって、微笑みつつ、ゆっくりと人差し指を僕の唇に当てて、そして目を閉じた。
辛いなら、もうそれ以上言わなくても良いよ。
なんて言われている気がした。
大丈夫。言いたいことは分かるから。
そんな風に言われている気もした。
どちらにせよ、僕に取っては好都合なので、それ以上僕は言葉を紡がなかった。
彼女は再び目を開けると、
「じゃあさ、」
驚くほどきらきらとした瞳で僕に詰め寄り、包み込むように僕の両手を取った。
「わたしの願いを聞いてくれないかな?」
「君の……願い?」
「そう。わたしの、願い。少し前からの、本当につまんない、願い」
「へえ……どういう?」
「祭りを見に行きたい」
「祭りを?」
この辺りで祭りと言えば……恐らくは、すぐそこの川である花火大会か。もう、あと数日もすればその祭りはやってくる。
でも、
「それなら別にすぐに叶えられるんじゃ……」
医師に頼めば、余程危険な状態でない限り行けるのでは。それに、彼女が重病かなんて分からない。ただお腹を壊して、入院しているだけ……かも、知れない。
勿論、医師に頼んで許可が降りたとして多少制約はつくだろう。職員の同伴が必須とか。
そう告げると、彼女はゆっくりと首を振って、そして身体を180度回転させて、川の方に視線を向けた。
彼女は金網に指を掛けると、溜め息を吐いた。
「それじゃあ、駄目なの」
そう言うと次は、上半身だけ、こちらに向けた。
「わたしはねぇ、職員なんかと一緒には行きたくない。わたしは、君と見に行きたいの」
「え、でもそれは……」
無理だ、と言おうとしたところで、先に彼女が言葉を紡いだ。
「君さ、いつでも悲しそうな顔をしてるよね?まるで全てを諦めているような。或いは……全てへの関心を亡くしてしまったかのような」
事実だから否定はしない。出来ない。
心なしか、彼女の明るい瞳が少し、哀しみに曇ったような気がした。
「だから、笑ってほしいなって。別に笑わなくてもいいや。なんか……人間的な表情を見せてほしい。これが、わたしの願い」
「…………」
「だからね、本当は祭りなんてどうでも良いの。笑ってほしい。そうしたらわたしは素直に君に……」
そう言うと彼女はゆっくりと、屋上から建物内部へと繋がる扉に向かって歩き出した。
そうして、僕の横を通り過ぎるとき確かに、
「『好き』って言えると思うんだ」
そう言葉を紡いだ。
その後、何か柔らかいものがそっと、優しく頬に触れ、そして離れていった。
異性の甘い香りが鼻孔をくすぐった。彼女の栗色の髪が随分と顔の近くにあって、それは頬から柔らかいものが離れるのとほぼ同時に、やはり僕から遠ざかっていった。
僕は暫し呆然と立っていて……
「え……?」
暫くしてから振り返っても、彼女はもうそこにはいなかった。
後には静かに、白すぎる布がひらひらと風に靡くだけで。
…………………………
数日後。花火大会の当日。僕と彼女は、再び屋上にいた。
「で、上手く笑えるようになった?」
「いいや、」
そんなことはないけれど。
そう言おうとしたが、口からは別の言葉が飛び出た。
「でも君の願いを叶えるためなら、出来る気がするよ」
すると彼女は暫しきょとんとした後、
「ふふふっ!大分変わったみたいだね!」
とても楽しそうに言った。
花火は意外と遅くなってからやっと撃ち上がる。
僕らは無言で、その撃ち上がるまでの時間を待った。静かにゆったりのったりと流れる時は、普段ならなんてことないのに、今だけはとても歯痒く感じた。もっと早く進めと、いつの間にか腕時計を睨みながら念じていた。
僕は普段あまり人に接しない。その為、その苛立ちがそのまま、顔に出ていたかも知れない。彼女が僕を見て、くすくすと笑っていた。
軈て。突然、白い何かが宙に上ったかと思ったら、それが何の予告も無しに、開いた。
どーん、と重い音が少し遅れて響く。
でも、それが虚空に溶けて消えるまでを見続けることは残念ながら出来なかった。
「わー、綺麗だね……って、どうしたの!?」
というのも突然、視界が滲んだのだ。
熱い何かが瞼の内から外に流れ出るのが分かった。
初めてだったかも知れない。こんな現象が、僕の身体でも起こるなんて。
僕は、泣いていた。
熱い涙が溢れて、頬を濡らし、顎からぽたりぽたりと滴り落ちた。
そんな僕を尻目に、再び花火は上がり、開いて、散った。屋上の暗闇が一瞬、光に払われた。
なんで泣いているのかは分からなかった。もしかして今更、命が大切に思えたのかも知れないし、純粋に感動したのかも知れない……いや違う。
この涙は……
「今更、さ」
自分の思いを、ゆっくりと噛み締めながら、吐き出す。
「人生が愛しくなったみたいだよ」
それは、命が惜しいのとはまた違う。言葉では言い表せないけど、絶対に違う。
それに対していつの間にか僕の方を向いていた彼女は、
「そっか」
やっぱり屈託ない返事をした。そのまま、彼女は流れるように、
「好きだよ」
思いを僕にぶつけた。
「僕も」
それを僕はしっかりと受け止め、代わりに僕の思いを彼女にぶつけた。
僕の目から溢れ出るものは止まらない。涙は相変わらず流れていた。けれど、僕が見つめる先。涙を流しながらも微笑む彼女の目の奥には、やはり微笑むように笑う僕がいた。
それが自然な微笑みだったことに、僕は少し遅れて、気付いた。
「とっても変わったよ、君は」
彼女はそうしっかりと告げると、再び花火の方を見た。
「綺麗だね……」
彼女は、さっき言い損じた言葉をもう一度、呟いた。彼女がいつの間にか、涙を流していたのに、今、気付いた。
なんで、とはとても問うことは出来なかった。それに、今なら全て分かるような気がした。彼女が泣いている訳も何もかも。だから代わりに、
「うん」
素直に頷く。確かにそれは綺麗すぎた。僕が投げ捨てた大切なものを、全部思い出させてくれるみたいに。
不思議な、気持ちだった。
これを見た今。まるで、今までの全てが、どうでも良くなるような。
それでいて、今までの全てが惜しくて、愛しくてどうしようもないような。
涙を止めようとしても止まらなかった。別に良いけど。この液体の意味をやっと知って、困らなくなったから。
この気持ちを誰かに分かって欲しい訳ではない。寧ろ、分かって欲しくない。同情なんて、何処に同情出来るというんだ。今の僕の、どうしようもないくらい新鮮な気持ちで溢れている心の、一体何処に。
今更ながら、自分は愚かだったと。醜かったと、思った。こんなに周りには暖かい何かが溢れていたというのに。
僕は泣く。
ただ、静かに泣く。
失った大切なものを今更思い出した、この辛さを忘れないように。大切なものを今更愛しく思うようになった、この苦しさを忘れないように。
大切なものがすぐ側にあることをやっと知ったこの幸福を、永遠に忘れないように。
夜空に咲く、火の花。
光に彩られる、暗闇。
それは例えるなら。僕が幸せを知ったことを祝う、
パレードだった。
fin.
こういうタイプの話は苦手なのです……。『病気』と『恋愛』は……。
元々は、夢オチになる予定でした。
ま、今どき夢オチもどうかと思って止めましたが。
文章の書き方はいつもの僕とは違います。少し書き方変えてみました。
そうそうこの話。実は片仮名は……。