第九章
数日間、美鈴がべったりだったので俺は家から出られなかった。
ある日出る機会に見舞われたので、俺は行く当てもなくはなさんの家の近くをぶらぶらしていた。するとおじいさんが家から出てきて俺を無理やり招き入れた。
「俺たち今日は行くとこがあるんだ。悪いねぇ」
そう言っておじいさんは笑った。
俺はどうしていいかわからず曖昧に微笑んだ。
「これからちょっといくところがあるから」
二人は穏やかに笑った。
はなさんがきたらどうしよう。
そんな心配はすぐ立ち消えた。
「あいつは今出かけてるよ」
おじいさんは俺を見てニヤニヤ笑った。
おじいさんは機嫌がいいのか、
「これはなのアルバムだ。特別に見せてやるよ」
そう言って古い冊子を俺に貸してくれた。
俺は二人が去るまでまでそれを見ることにした。
早く出かけてくれ…
アルバムには赤ちゃんの頃から様々な年代のはなさんの写真がのっていた。
笑っていたり、泣いていたり、はなさんは今と全然変わらなかった。
しかし背景はこの家とは違うものだった。どこの物だろう。
写真の下には丁寧に日付や題名が書いてあった。
というか、俺ははなさんを小さいころから知っていた。
あの救急箱の少女。あれは、はなさんだ。
隣にいる少年。俺に帽子をかぶせてくれた男の子。いや、こいつは女の子だ。
「引っ越し・タチバナちゃんとお別れ」
と言う写真から背景はこの家になった。俺はこの写真を凝視した。
こいつは…橘
コイツの他の写真を探そう、そう思った時だった。
玄関が開く音がした。俺は少しだけアルバムを眺めていようと思ったのだが、すれ違いに誰か入ってきたので俺は身構えた。どうしよう…
声からして、はなさんと二宮だ。俺は少し安心した。
俺は急いでアルバムを閉じ、二人をびっくりさせようと立った。
すると二人の間を重い空気が流れた。
鍵のしまる音。
「あなたは美晴とつながっていますね」
二宮が言い放った。
「そんなことありません…」
俺は悪いとは思いながら立ち聞きしてしまった。
「実は俺、あなたを見張っていたんですよ。悪いとは思いましたがね」
はなさんが後ずさる音がした。
「嘘…」
「いえ本当です。それでわかりました。あなたは美晴の治療を行うために深夜遅く不定期に家を出ている。そうですよね」
「いいえ」
「嘘をつかないでください。」
「嘘なんて…」
「もうやめろ」
俺は耐え切れず出てしまった。
二人は驚愕した。
「びっくりするなぁ居たなら居たと早く言えよ」
二宮が俺を強くにらみつけた。
はなさんは怯えて震えている。
「はなさん…本当なのか…」
「それは…」
「はなさん!」
俺は大声を出してしまった。
一体誰が正しくて誰が正しくないんだ…
美晴のふりをしてるやつだけじゃなく、周りの人間でさえわからない…
「彼女は嘘をついてる」
「そんなのは、わからない」
クソ…ここに三奈美が居たら…。
「悪いが俺たちは今日そこに行く。もう遊びは終わりだよ。はなおさん」
「いかないで…」
「はなさん…」
「ごめんなさい…もう終わりなんですね…わたしってほんとドジだわ」
はなさんはそこで崩れ落ちた。
「君も行くのか?」
二宮が俺を睨んできた。
頭の中で美鈴の叫び声がこだまする。
「俺は…行けない」
「そうか。まぁいいさ。草薙さえいれば平気だ」
「ああ、じゃあな」
俺は逃げるように帰った。
二宮は、はなさんを見張るつもりだろう。
俺は本当はどうしたいんだ?
俺は自分の気持ちでさえわかっていないことに気が付いた。
俺はどうしたい…俺は…
「お兄ちゃん食べが悪いね」
「あ…ああ、ちょっと体の調子が悪くてね」
美鈴は俺を疑うような目つきで見てきた。
「食べないのか?あたしが全部食べちゃうぞ」
千歳が豪快に笑って行った。
結構豪華な肉でしゃぶしゃぶをやっているのに箸が全然動かなかった。
俺はすこしつついてやめてしまう。
俺はどうするべきなんだ…
右手がうずきだす。
俺は約束したんだ。あの日、美晴と。
一気に記憶が鮮烈によみがえる。
数年前のあの日、俺と美晴はいじめっ子退治に熱中していた。
美晴は強かった。だからいつもいじめっ子を腕っぷしで従わせていた。
これまでもこれからもそうなる、俺はてっきりそう考えていた。でも違った。
その日の相手は美晴でもまるで歯が立たなくて、俺はボコボコにされた挙句、そいつらの秘密基地に捕えられてしまったのだ。そのいじめっ子は美晴に挑戦所を送った。素手の殴り合いでどちらが勝つかなんて、なんてはじめからわかっていたことだった。
でも、美晴は来た。金属バット持って。
視界をよくするために、少し広いおでこを晒して。
でもそれはだめだ。子供心にも俺はそう思った。
美晴を止めなきゃ、そう思った時には金属バットは振るわれていた。
俺は最後に力を振り絞って走った。
いじめっ子を突き飛ばしたその刹那。
そいつのびっくりした顔がスローモーションで見える。
俺の右手を感じたことのない激痛が襲った。
「うわぁぁあああ」
俺は右手を押えて悲鳴を上げた。
「あわわわわ…」
いじめっ子が退いていく。
俺は自分の手を見て、一瞬幻想じゃないかと思った。
それを右手に伝わる激痛が現実の物とはっきり伝えていた。
「わぁぁ!!」
美晴は叫び声をあげ、いじめっ子が逃げていく。
涙がとめどなく出る、痛い。痛くてたまらない。
「びょ…病院…早くっ!!」
美晴は俺を抱えるようにして走りだした。
鼻水と涙が止まらなかった。
もう泣かないって決めたのに。
おとうさんとおかあさんが死んでから、もうなかないって決めたのに。
「わあああ」
俺は泣きじゃくりながら美晴に病院に連れられた。
本当はたまたま公園に居た高校生が事態を飲み込んで連れて行ってくれたのだが。
「手、痛い…?ごめんね…ほんとうにごめんね」
手当を済ませた俺が診察室から出ると、美晴が駆け寄ってきて泣きながら言った。
「大丈夫、痛くないよ」
美晴が泣き崩れる。
「ごめん…ごめん」
「ねぇ美晴、ぼくと約束してくれる」
俺は泣き疲れて落ちついたのか冷静に言う。
「なにを…?」
美晴は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げる。
「もう、いじめっこを懲らしめる時に殴ったり蹴ったりしないで。ぼくもしないから」
「うん。うん。わかったもう絶対。一生しない」
また泣き始める美晴をそっと俺は左手だけで抱きしめる。
「じゃあ約束げんまんしよ」
「うん、約束だよ」
俺たちは指を切り、約束を交わした。
「ねぇあと一つ約束して」
俺は雰囲気に任せて言ってみる。
「何?なんでも言っていいよ」
「これからもずっと友達、ずっと一緒だからね」
「うん。いいよ。あたし学のお嫁さんになってもいいよ」
えっ、俺は一気に赤くなった。
「約束ね」
美晴も恥ずかしそうに言った。
「あ…うん。約束だからね」
俺たちは指を固く結んで指切りをした。
それからすぐ。美晴は死んだ。交通事故だった。
幼い子供を救おうとして、道路に飛び出したのだ。
即死だった。
冷たい雨の中、俺は物言わぬ美晴に泣きながら訴えた。
なんで、なんで死んだんだよ。なんで…。
嘘つき…俺のお嫁さんになるんじゃないのかよ。
ずっと友達なんじゃないのかよ。
俺はそっと美晴の手を拭いた。
約束したじゃんか。
俺は固くなった美晴の手を強く握りしめた。
ずっと一緒だ…。
俺は拳を強く握りしめた。
ああ…ずっと一緒だ。
今も感じる。たまに考えてしまう、美晴はどこかで生きているんじゃないかって。
「なぁ美晴俺はどうしたらいいのかな?」
ふとずっと思い出したくても思い出せなかった美晴の死に顔が浮かぶ。
生きてるみたいに微笑んでいた。
携帯が鳴る。俺は思い出から引き戻される。
取るかどうか迷う。取ったらあの日交わした約束を破ってしまうかもしれない。
美晴なら美晴なら今どうする?
美晴なら、約束を破るにきまってる。
そして、また「ごめんね」なんて言ってくる。
俺は携帯を取ってしまった。
「もしもし」
荒い息と草をかき分ける音だけが聞こえる。
「もしもし?」
「…あ、学…」
雑音の中に囁く声で三奈美の声が聞こえた。
「どうしたんだ」
「皆やられちゃった…」
三奈美の声は恐怖で震えていた。
「どうしたんだ。美晴と会ったのか」
「あたしもじきやられる…だからあいつが来るまで話しよう」
「どこにいる。助けに行く。早く言え」
俺はそのころにはもう立ち上がっている。
「ねぇあたしってほんと馬鹿で…」
「何言ってるんだ、早く場所を言え」
俺は三奈美に怒鳴りつけながら部屋を出る。
まだ飲んでいた、千歳と美鈴がびっくりする。
「早く!」
二人には構わず、飛び出す。
「お兄ちゃん!」
美鈴が立ち上がる。
「ごめん美鈴。俺行かなくちゃ」
俺は靴を履いてあわただしく出ていった。
美鈴もついてくる。美鈴はすぐに俺に追いつき手を握った。
「行かないで…」
瞳が潤んでいた。
「行かなきゃ」
俺が手を放そうとする前に、手がするりと離れた。
千歳が美鈴の手を握っていた。
「行けよ。少年。ミーちゃんは私が面倒みてやる」
「ありがとう姐さん」
俺は全速力で走りだした。
「おい、三奈美!どこだ」
「いきなり居なくならないで…お願い…」
「ああ、すまん。もういなくならない。だから今いる場所を言うんだ」
俺はなだめるように言う。
「小さな森…って言ってもわからないか…」
「もっと詳しく」
俺は記憶の中から可能性のある場所を見つけ出し、そこに向かっていた。
俺には分かる、俺たちの始まりの地。あそこしかない。
「早く、詳しく言え!」
勘が外れていた場合を考えて俺は三奈美に訊く。
「もういいの…ねぇあたしって」
「はやく言うんだ。お前ならできる」
「あたしさ…あんたの事…」
鼻をすすったような音が聞こえてから、三奈美があきらめたように呟いた。
「なぁそれは後で聞こう。だから約束してくれ」
「何を」
「俺が付くまで、がんばるんだ」
「わかった約束ね」
「ああ、頼んだぞ」
「あたしからも約束良い?」
「ああ」
「もし、生きて帰れたら…」
そこで電話は切れてしまった。
俺は必死に掛けなおしたが、誰も出なかった。
人に少ない道を通り抜け、俺は美晴とよく遊んでいた広い公園についた。
もともと子供が少なかったこともあり、遊具はほとんどぼろで奥は小さな林になっている。
ここであってくれ…
俺はつぶやいて、林へと進んでいった。
あたし、こんな見知らぬ林で死ぬんだ…
三奈美は何者かに首を絞められながら、ぼんやりと思った。
抵抗しても、勝ち目がないことが分かっていたが、それでも必死に手足をばたつかせる。
ごめんね学、約束守れそうにないや…
まぶたがそっと降りる。
消えかかった意識で三奈美は学に詫びた。
ふと意識が消えかかった、そんな時だった。
聞き覚えのある声が聞こえた。
でも、なんて言ってるかわからないや。
生意気で、ばかで、でも悪いやつじゃない。
もう一度あえたら、そう思った相手の声だった。
いきなり、意識が戻る。
「約束守ってくれよな。もう破られるのはごめんだぜ」
目を開くと、そこに学が居た。
「ばか。守ったわよ。あんたも、もっと早く来なさいよ」
嬉しくて涙が出た。
ずっと信じていた、きっと誰かが自分を救ってくれると。
勉強と規律で縛られた家から。
学力だけの学校生活から。
馬鹿丁寧な言葉と、「私」なんていう縛られた一人称の世界から。
やっとその時が来たんだ。
「まだ終わっていない。泣くのは早いぜ。」
そう言ってあいつはあたしを軽く抱きしめた。
もう、ばかなんだから。ホント。




