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第一章

土の匂いがする。自然の匂いがした。虫の声がうるさいくらいに響き渡っている。遠くで蛙の声がする。少女は暗闇の中ではっと目を覚ます。少女はなぜか見知らぬ林の中に居た。少女は自分の置かれた状況が分からないまま、数秒経ってはっとする。慌てて体を動かそうとして、体が引きつった。少女は自分が何かテープのようなもので縛られていることに気づかざるを得なかった。

「何よ…これ」

自分がおぼえている最後の記憶をたどりながら、震えた声で呟く。それに反応したかのように静寂の中で不気味な野鳥の声がする。少女は少し怯えながらも最後の記憶を絞り出した。

そうだ、あたし誰かに呼ばれて…

最後の記憶を絞り出しても、自分の置かれている状況に対して説明にならないことに気が付いた瞬間、彼女の肌は泡立った。

まさか…誘拐犯…とか

少女の心拍数が一瞬にして早まる。

 「誰か、助けて,誰か!」

考えるより先に行動が出た。彼女は無我夢中で叫んだ。虫の声がやむ。静寂の中で彼女の声が響く。枝を揺らす音。野鳥の飛び立つ音。それらが続いて聞こえ、彼女の恐怖心をあおった。心なしか寒い。

「誰か…助けて…」

懇願するようにつぶやく。気が付かないうちに頬を生暖かい涙がつたう。

なんであたしはこんな目に合ってるの…あたし何も…

そう思った瞬間、ある一つの情景が思い浮かんだ。まさか、アレじゃ。…

顔が大きく膨れ上がった汚らしい男の姿。一週間前、彼女は深夜に友達と浮浪者に暴力を加えた。その報いなのだろうか。わからない。少女には何もわからなかった。

なすすべなく、うつむいていると、遠くで何かうごめいている音がした。

「ひっ…」

草をかき分け、枝が折れる音が近づいてくる。彼女は身をかがめ、息をひそめた。

熊とかだったら…どうしよう、そんな不安が頭をよぎる。顔から血がひいていく。

神様、神様、神様…

息をひそめ、名も知らぬ神に懇願した。願いがかなったのか、近づいてくる物から光が発せられている。あれは間違いなく人間だ…。そう思った少女は力いっぱい叫んだ。

「誰か助けて、ここ、助けて」

その声に反応して、

「ルミか、ルミなのか」

知り合いの男の声が返ってきた。安堵でため息が出る。自然と涙が出た。やったあたし解放されるんだ…。

「ここ、早く来て」

一瞬強い光が目に入り、視界が白くなる。ルミと呼ばれた少女は、目を細めた。

「大丈夫か、ルミ…」

ゆっくり目を開けるとそこに居たのは、友人たちだった。

「何やってんのあんた…」

ぶっきらぼうに、女友達のユリが訊く。

「知らない、気が付いたらここに居たの」

気が付くと、いつもの強い口調に戻っていた。

「早くこのテープ切って」

「誰がこんなこと…」

テープをちぎりながら、恋人の修也がつぶやく。

テープがちぎられ、手足が自由となった、ルミはポケットに手を突っ込んで、

「警察、警察…」

はっとして手を止める。自分達は先日、浮浪者を暴行した。警察が目撃者を探しているというのが、学校にも届いていた。やっぱサツに言うのはやめよ、と通報するのはやめたのだが、まず携帯が見つからない。

「明日、先生に言おうぜ…どうしたルミ…」

「携帯が…ない」

「何やってんの、早く帰ろ…」

ルミは大きく目を明け、ユリを見た。

「まさか、あんた達に連絡したのって…」

悪寒が、ルミの背中を伝い、全身の皮膚が泡立つ。

「まさか…ケータイ盗まれたのか…」

「きもっ、ストーカーかもよ、気持ちわりぃ」

修也が嫌悪感を隠さず、吐き捨てた。

「なぁさっさと帰ろうぜ」

皆より少し遠くに居た健二が怒鳴った。

「明日先生に言いな」

ユリが心配そうな顔で見つめてきた。

「うん…そうする、もう帰ろ」

歩こうとして、少し足がしびれていることに気が付いた。

「歩けないか…」

そう言って、修也が肩を貸してくれる。

「ありがと…」

少し顔を赤らめて、ルミは言った。

「さったと戻ろうぜ」

やっと帰れる、そう思った矢先だった。

目をカッと見開いてユリが、

「健二が…いない…」

ユリの瞳が恐怖で震えていた。

虫の声が戻っていた。ざわざわと夜の林が揺れる。

「嘘だろ…あいつ脅かしやがって」

修也が大声で健二の名を呼んだが、反応は何もなかった。虫の声が消え、静かすぎる林に声が消えていく。

さっと草むらが動き、皆が振り向く。

「何なのよ…」

ルミの声は震えていた。

「こういうの面白くないよ、健二」

泣き声でユリが叫んだ。

「とっとと出て来いよ、健二」

修也がそう言って、あたりを見回して、大きく目を見開いた。

「あれ…ユリは…」

「嘘…」

最後まで声が出ない。

「ねぇっ、ふざけなでよっ」

涙声で叫ぶ。

「わっ」

修二が声をあげ、ユリをぐいと引っ張った。思わずユリは悲鳴を上げてしまう。

ユリは地面に強く叩きつけられた。

「う…」

立ち上がろうとして、足をくじいてしまったことに気が付く。

あたりを見回すと修二がいない。

「嘘…ねぇみんなやめてぇよお、おもしろくないよぉ」

叫んですぐ、近くの草むらがさわさわと揺れた。

ユリは必死に手を使ってぎこちなく退く。

と、思うと後ろの草むらが揺れる。

「やめてょお」

目から大粒の涙が流れ出る。

ふと、後ろで何かが立ち上がった気配がした。

「もうやめてよ」

叫んでも、一向に気配は消えない。

振り向いてしまえ。そうだ、修也だ、修也め帰ったらお仕置きしてやる…。

そう思いながらも、ユリはがっくりと頭を落とした。

気配は目の前にあった。

もうだめだ…殺される。

頭を落としたまま、ゆっくりと目を開けようとした、その瞬間。顎を掴まれ、がっと持ち上げられた。

涙が止まらない、鼻水も出てきた。しかし、声が出ない。

「ぐぅっ」

真上を向くように頭を掴まれ、そのまま固定される。

恐怖で息ができない。

「やめ…」

口を封じられてしまい、遮られてしまう。

「おねがいします」

必死に口を動かして言う。しかし、それも首を絞められて封じられてしまう。

ユリは悟った。コイツはただのストーカーなんかじゃない。

全く抵抗ができない、まるで万力のようだと朦朧とした意識の中で思った。苦しい。

息ができず意識がもうろうとしてくる。

いきなり緩められ、呼吸が回復する。少しずつ意識が戻り、恐怖が戻ってくる。涙がぽろぽろ流れ出た。そんなことはお構いなしに、強く後ろに引っ張られ、耳にひんやりとしたものがあてられる。

ひんやりとしてやわらかいそれは、間違いなく唇であった。

自分はこれから強姦されてしまうのだろうか、そう思うと嫌悪感を隠せなかった。

「やめて…嫌」

もう一度、耳に口づけされ、ルミは震えた。

自分が強姦されるのを想像して、口にすっぱいものが昇ってくるのを感じた。その刹那、ため息のように小さい声の呟きがルミの耳に聞こえた。

やっぱりアレなのね…

「ごめんなさい…もう絶対しないから」

無言。虫の声と自分の荒い息だけが聞こえる。

「お願い、お願い、お願いします…お願い」

そんな願いむなしく、首を絞める力が強くなる。

苦しげな喘ぎ声が林に響いたかと思うと、すぐに林を静寂が支配した。


人には、人それぞれの正義の味方がいると俺は思う。人はそれに完全に影響を受けてはいないものの、正義の定義に、そいつに多少なりとも影響されているのではないか、と俺は考えている。スーパーマン、バットマン、シーザ、ロビンフット、桃太郎、BB…   

たくさんいるヒーロの中でも、俺に一番影響を与えたのは、間違いなく、切りそろえた前髪をいつも気にしていたあの子。いじめられている俺を助けてくれた、一緒に泥だらけになってくれた、あの子。私たちは友達、君はもう一人じゃない。そう言って手を差し伸べてくれたあの子。セピア色に染まった記憶の中でしか会うことのできないあの子に違いない。もう一度彼女に会えたらと思う。でもそれは到底無理な話なのであって、俺は当の昔に諦めている。そして、俺も彼女からもらった正義の心を多少劣化させ汚して高校生になり、    

彼女からもらったものを何も生かせないまま人生を終えるんだろう。

ごめんよ、美晴。

そんな事を考えていた。あいつに会うまでは。


俺に彼女はいない、姉もいない、妹もいない。では俺の隣にいる二人の少女はいったいなんなのか。一般論で言えば、それは俺にもわからない。幼馴染でも、友人でも、クラスメイトですらない同世代の女の子が、なぜこんなぱっとしない男の隣にいるのか?しかも、一人は艶やかや黒髪、それに包まれた整った顔、健康的な白い肌、大きくて魅力的な目、桃色の唇、そして年相応の抜群のプロポーション、まさにいうことなしの美人。

もう一人は、短いふわふわしたボブの少動物のような愛らしい顔立ちの、くりくりとした目が特徴の少女。それがなぜ俺の隣にいるのか、その理由は二つある。一つは、同志だから。おかしな答えだと思う。一般論からかけ離れていると自分でも思うし、はたから見れば、おかしい事なのだけれど、それは本当で、変えようのない事実なのだ。二つ目を知るためには、少し時をさかのぼることになる。二日前のちょうどこの時間。あの「宣言」の事を。


俺は二日前、いつもと同じく、学校から帰りながらスマホをいじっていた。慣れた手つきで掲示板を開き、それをぼんやりと眺め始める。何の気なく画面を下にスクロールしていた手がふと止まった。どこからか懐かしいカレーの匂いがした。そういえば彼女もカレーが好きだったような気がする。俺はカビの匂いがする記憶の浸食から逃れ、はっとして掲示板の文章を見た。そして何度も文章を読み返す。そこには、俺の学区で有名な不良の無残な姿が張り付けられていた。あの名前がなければ、加工写真だろうと鼻で笑ったのだろうが、そうはいかなかった。その画像を張り付けた者の名前は間違いなく、薄れた記憶の中にしかいないはずの、彼女のものだった。俺は家に帰るまでその関連の掲示板を読みふけった。嬉しいはずなのに。本当はこんな奇跡が起こるんじゃないかと信じていたのに。俺は嬉しくない。何故だろう。雨を予感させる黒雲がゆっくりと、確実に綺麗な夕焼けを塗りつぶしていく。家について、自分の部屋のベッドに転がり込むと、俺は無意識のうちに右手をさすっていた。

次の日、俺は「宣言」のことばかり考えてしまっていた。もちろん学校の授業も頭に入らなかった。

<ミハルに会ったことのある者、彼女の事を知っていると者。私、ミハルは今ここに一つの宣言をする。私は再びこの「世界」との戦いを開始しようと考えている。

不良への暴行は戦いの初めの血祭である。共に立ち上がろう。

この世界の不平等に

この世界の裁かれぬ悪に

この世界の空気に

宣戦布告。

私と共に戦ってくれる同志よ、約束の地で待つ>


これが俺の頭からこびりついて離れない「宣言」の内容。妙に中二臭い内容だが、俺が最後に見た美晴は抜けている子だった。高校生になったあいつがこのような文章を書いても何ら不思議ではなく、俺は過去のことなど忘れて、この文章が彼女によって書かれたものと信じてしまいたかった。抜けてはいたが、彼女は仲間思い出正義感の強い女の子だった。多分それは大人になっても変わらなかったのだろう。俺とは違って。

俺は何度彼女と会いたいと思ったことか。

何度彼女に助言を求めたことか。

しかし、もう彼女はいない。その事実を知っていても、俺は約束の場所に行こうと考えた。

彼女は暴力なんかふるわない。あの日約束したのだ、あの約束を彼女が忘れるはずはない。それなのに、彼女を知らない誰かが、気づかれないと思っているのか彼女のふりをして自分勝手な正義の裁きを下している。それが許せない。そうして学校帰り、友人と別れ渋い顔で俺は「約束の場所」へと向かった。「約束の場所」に指定された、古びた公園は何も変わっていなかった。一瞬だけあの頃に、美晴が居た頃に戻れた気がした。そして、二人と出会った。


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