話術を望む正常な思考
「君はこの世界に疑問を持った事はないかい?もしくは、違和感を感じた事は?」
違和感ならいつも感じている。顔の無い人間、ただ闊歩する道路、肥大化する何か、そして自分自身の感情。どこかおかしい気がする、これは正常なのか。いや、あるべきものはそうあるべきだ、然るべきであって現実だ。
相も変わらず流れる機械音、とても心地いい音だ
「君はこの音が気に入ってるみたいだね、ボクもだよ。周りの人間なんて気にしなくてもいいよ、大音量で聴いたって、顔のない人形なんかは気にしないさ」
顔の無い人形か、何処と無く妙な言い回しだが、同意できる。個を殺して、意思を殺して、ただの歯車を人間と言い表せるのだろうか。
植物は生き物だ、細菌も生き物だ、それらは生きていると形容できるのか?個なんて無い、意思なんて無い、ただ環境の中の歯車として存在する。
それを、ただ生きているだけと、生きているとも言い難い
「二人とも、なに言ってるんだかわからないわ。人間に顔があるのは当然じゃない、機械音なんてうるさいだけだわ」
どうやら、クローエンとは価値観が合わないらしいな。顔があること無いことにどうといった意義は無い。重要なのは結果で無くて経緯、外見なんてみてくれに過ぎないのだから
「ナナにはこいつらに個性を見いだせるの?」
「個性もなにも、顔が無いなんておかしいでしょ?鼻や口が無いと呼吸できないし、目がないと何も見えないわよ。常識よ」
そうか、常識か。クローエンも同類だ。常識とは案外曖昧で、そのたびそのたびに変化していくもの。一般的に、常識とは現代社会の仕組みに適合するものだ。現代の常識と過去の常識は違うし、地域によっても変化する。ちっとも常なる意識とは言い難い。
つまり、常識だからと言って縛られるのは愚かでしかない。多数派は本当に愚かなんだ、常識なんていう所詮は人間の思い込みのルールに縛られているんだから。考える事を止めて、流れに任せるなんて僕は嫌だね。
そして少数派はただの自己中だ。自分の意思の中に生きて、周りと合わせる事ができないんだから。その考えが現代の常識、下らない固定概念に受け入れられるかは知らないし
「僕らはProjectNULLと名乗っているんだ。何もない何かから何かを見出だそうとする愚か者集団。またいつか会おうね」