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泥濘に沈む

作者: 黒漆

 部屋の片隅で男が震えている、まるで何かの驚異にさらされているようで、その実、部屋の中には変わったものは何もない。それでも男はただ膝を抱え、顔を青くして震え続けていた。どれほどの時間そうしていたのかわからない、やがて部屋の中央に変化が起こり始める、地震の前触れのような僅かな揺れが床を揺らしていた。男の顔にも変化が見える、はっとして表情筋が歪む、引き攣れを起こしているようだ。両手を床につき、僅かに後ずさった。

 一瞬だ、部屋の電灯が落ち、床が黒ずんだと思うと、そこからごぼごぼと泥水が湧いた。「止めろ、許してくれ」喉の奥から絞り出された声に応えるように水の勢いが増し、瞬く間に広がると、男の素足、爪先に触れた。

 男は壁の角へじりじりと後ろへと下がり、逃げようと足掻くが、腰が抜けているのか素早く動けない。泡が吹き上がりそれが割ると追って枝が泥の中から突き出した、違う、指だ。中指、人差し指と増え、腕までが姿を現し、足の甲を泥手が掴んだ、やがて波打つ泥から楕円の頭が浮かぶと突き上がり、伸びでた腕と半身がすがり付き、べたべたとまとわりついてくる。


 佐嵜さざきは泥の中にいた、頭から足の先までぬるま湯のような泥の中に。とはいっても本物の泥、例えば沼に浸かっているわけではない。余りに大きすぎて受け止めきれない現実から、少しでも目をそらし続けたいがために、馬鹿みたいに飲み続けている酒の効果から、どんよりと曇った空気感に身をゆだね続けている。そんな状況が泥の中と最も似ていた。

 かつて佐崎は泥に溺れたことがあった。雨の日のグラウンドで厳しい監督の命令に逆らえず、ぬかるんだ土の上で腕立てを強いられた時だった。命令された回数に達せず、最も遅いスピードで運動を繰り返す佐崎を、監督は足蹴にし、背に乗ると押し潰した。

 「続けろ」そう命令され、痛烈な罵詈雑言を浴びせかけられるが、佐崎には余力は残されていなかった。普段監督に抱いていた反抗心もその時、泥の中に突っ伏した佐崎には、呼び起こす事ができなかった。もとより体はずぶ濡れで息も絶え絶え、痛みも感情も麻痺していた。口に入り込む雨と土の味を噛み締め、息苦しさの中、ただ生暖かい泥の中で記憶が遠のいてゆくのを人事のように感じていた。その際に不意に起きた事だった、肉から意識自体が剥がれ落ちるように、佐嵜の芯のような何かが抜けて泥の中に沈み込んだ。それはゆっくりとやわいだ土に溶け込んで泳いでゆく。するとじわじわと佐嵜の中でどこか懐かしさにも似た安心感のようなものが浸透しんとうしてゆくのだった。

 

 泥の水たまりが寝ている間にできる、そんな異常が何日も続く中、男は対処しようとあがいた、御祓いや水漏れの点検、建物への検査、それらを行なっても一向に治る気配はなく、異常も消えなかった。それどころか時が経つにつれ、異常は激しさを増している。「もう許してくれ、俺が悪かった、悪かったから」ヒステリックに叫ぶ男の声はただ、静寂に包まれた部屋に一瞬の騒音を与えるだけだった。しがみついた腕が徐々に腰へ、肩へ、そして顔へと上がってゆく。やがて頬に辿りついた両手が、男の頭を固定してせり上がる頭が下から追いついてきた。その顔は波打つ泥があるばかりで目も鼻も、何も有りはしない。やがて顔と思われるものの中心が膨れ上がり、泡がひとつ弾けた。

 

 目が覚めた時は部室のベンチの上で、横になっていた。それからは監督が懲りたのか、佐嵜への見る目が変わり、部活でしごかれる事もなくなったが、あの夢のような感覚は根元に食い込み、二度と離れることがなかった。以来、辛い出来事が起きる度、佐崎の脳裏には何故かあの泥中の時間が甦った。それを思い起こせば何故か辛さにも耐えることができた。極限の辛さの中であの時感じた安らぎは何だったのだろう。何もかもを受け入れられたような、奇妙な安らぎ。恐らくもう一度感じたいと思っていても、そう簡単に再現できる状況ではない、それに自らそんな状況に陥りたいとも思わない。だいの大人が死にかけるためにぬかるみの中に寝るわけにも行かない、それに佐崎には人並みの嫌悪感も備わっている。衛生的に良くない泥に自ら頭から漬かるようなまねを好んで出来る訳がなかった。

 だからこその酒だった。酒があれば簡単に泥の中に浸かれる。何もかも忘れ、この感覚にずっと囚われていたかった。


 小さく空いた穴がろくろの上の粘土陶器の口のように徐々に大きく広がってゆく、同時に顔の面積が穴によって減らされていった。徐々に陶器の口が男の顔に迫りつつある。「止めてくれ、もう止めてくれ」そう戦慄く男の頭をもう少しで飲み込もうとしていた。不意に男の記憶の中で一つのシーンが光を帯びて頭蓋の中を満たした。


 佐崎に幸せな時間が無かったわけではない。人並みの家族を持ち、良妻と子供に恵まれ、何不自由なく暮らしていた。しかし、世の中は佐崎には冷たかった。友人の借金の連帯保証人を断りきれず、受けてしまった佐崎に、友人が姿をくらませる事で降って湧いた借金は幸せな家庭を一瞬にして地獄に陥れた。連日訪れる借金取りと電話に妻は精神をやられてしまい、それが原因で学校でいじめを受ける子供が自殺し、何とか借金を返そうと前向きだった佐崎の心を折り、自己破産以外を選べなくさせてしまった。後に残ったのは二度とは戻らない家族間のひび割れだった。佐崎の妻は旦那の顔を見るだけで恐慌に陥るような精神的不安を抱えてしまい、結果的に離散を迎える。

 それからの佐嵜は目が曇ってしまった。現実の何もかもが暗く鬱陶しい煙の中だ。真新しい感情は何も浮かばず、ただ只管別れてしまった妻への贖罪のため、機械的に仕事をこなし、働き続けているような有様だった。自分が生き続けることに興味が失せ、先のことは何も考えなかった。

 けれども夜の間、佐嵜に独りの時間が訪れると不意にあの地獄のような日々、痛烈な映像が脳裏に張り付き、佐嵜を苛むのだ。あの幸せな日々をぶち壊した全ての責任はお前自身にある、子供を殺し、妻を壊したのはお前なのだ。そんな言葉が頭の中をめぐり、身に突き立てられる。だから酒を頼った。始めは僅かな酒の量が徐々に増えていっても、止めることができなかった。

 初めてそれ程に酒を口にしたのは子供が亡くなった日だった。その日、度を超える飲酒を行なった時、極度の微睡みの中で佐嵜は昔の感覚を思い出した。あの日、グラウンドでの奇妙な感覚を追体験したのだ。抵抗のある空気感、体にまとわりつく怠さ、似て非なるものの筈なのに佐嵜には同じもののように感じられた。そして再び佐嵜の芯は泥の中を泳いだ。目が覚めたときに残るのは僅かな陶酔と、圧倒的な不快感、それに体の痛みだけだ。

 押し寄せてくる現実の中で、僅かに明晰さを取り戻した佐嵜の脳は妄想に取り付かれる。俺はあのグラウンドに沈められた瞬間から、ずっと泥の中で夢を見ているに違いないと。そうして佐嵜は光を捨て、再び曇り目に戻り、煙の中、泥の中へと身を投じるのだった。


 学生時代の放課後、雨の日のグラウンド、苛烈な練習に苛まれる部員たち。男はそこに混じり、雨に打たれながら腕立てを続けていた。目の前で友人が崩れ落ちる、それを見計らったように監督が背中に腰を下ろした。それきり起き上がれなかった。口の中には泥水が入り込んでいる、自分はああはなりたくない、そう思い疲れた体に鞭をいれ、余計に力が入った。あのままだと本当に死んでしまう、そう心配した時だ。監督が慌てふためいて立ち上がった。友人が瞬きの間に消えていた。するとすぐに監督の背が半分に縮んだ、始めは座ったのかと思ったが、どうやら違う、監督は腰まで土の中に沈んでいた。うおおという奇声をあげた監督のまわりに部員たちが集まる、すると消えたはずの友人がいつの間にか隣に仰向けで横たわっていた。それは自分が見た目の錯覚だと思っていた、見たものが信じられなかったからだ。あの時たしかに水溜まりの中から監督の足にしがみついたものがあった。あれは確か今に見たあの泥の手ではなかったか。

 後もう少しという所で泥の頭がどろりと崩れた、そのまま泥は床に飲み込まれると後にはナメクジが這った後のように茶色の波模様が残るばかりだ。今夜もなんとか乗り切った、しかし、もう余り時間が残されていない、男は切実にそう感じていた。


 暗い部屋の中でぼんやりと佇む男の家にチャイムの音が鳴り響く。重い腰を上げ、顔を見せるとそこに居たのはかつての友人だった。しきりに何かに怯えている友人、高岳は地獄に陥れた原因を作った張本人だというのに、佐嵜には何故かかける言葉が浮かばなかった。感情を全て泥の中に置いてきてしまったようだ。

 「頼む、お前なんだろう。もう勘弁してくれ、許してくれ」

 再び目の前に姿を現した友人の虫の良い願いも聞き流し、佐嵜は曇りきった目でただ一言「泥の外には興味がない、ただ、あそこで友人を増やしたいんだ」そう答えた。佐嵜の爪の間は泥にまみれて真っ黒だった。どこかで泡がごぼごぼと音を立てる。音を気にして部屋の奥に視線がたどり着くと、高岳はドアから身を投げ出すようにして離れ、すぐに立ち上がると走り去った。佐嵜の背、部屋の奥には何体もの人の影が立っていた。


  その日、数年に一度の貯水池掃除が行われた。年々貯水池に堆積する泥の総量は増えてゆく、その分貯水できる量も減ってしまうからだ。五年に一度の掃除が二年も早まったわけは、その年は例年にないほどの大雨が降り、貯水池に大量の土砂が流れ込んだからだった。水の抜かれた貯水池には沢山の魚が息苦しそうに跳ねていた。そんな中、数人の少年が泥のそばへと降りてゆく。大人たちには危険だから近づいては駄目だと釘を打たれていたが、彼らにとってその言葉は寧ろ近づいてみろと誘っているようにしか聞こえない。気がつかれなければ大丈夫だとたかをくくった。だからこそ、早朝を選んでこっそりと水の抜けた貯水池を訪れたのだった。

 「凄いな、この池ってこんな魚いたんだ」

 「でもさあ、ここって釣り禁止じゃん。だからこんなに魚いたんじゃないの」

 「知らねえよ、でも今なら網さえあれば捕まえられるだろ簡単に捕まえられるだろ」

 そうした掛け合いの中、一人の少年が草を掴み、網を手にもって魚を救おうと体を横にした。すると、支えていた草の葉が体重に耐え切れず抜けてしまう。少年は「あっ」と言葉を漏らす周りの友人を置いて、一瞬で泥に飲み込まれた。人型に空いた泥の穴が、すぐに何もなかった元の姿へと戻っていくのを、友人たちはただ唖然と眺め、しばしして火の付いたように泣き、大人の元へと走り去った。

 血相を変えた大人たちが貯水池に足を踏み入れた時は、既に遅すぎて少年の姿は埋もれ、見当たらなかった。泥に没して二度と生きて浮き上がることは無いだろうと思われた。

 数日かけて泥を掻き出しても少年の体は見つからない。泥も残り底まで数十センチとなり、これは別の場所で溺れたのでは、そんな言葉が大人たちの中で出始めた頃、翌日の朝に余りにも異常な姿で発見され騒然となった。泥の上には夥しい数の泥人形が立っていた。立ち上がり、泥の中を流動して歩く姿が乾いて残る波の形でありありと見て取れた。半ば乾き、崩れかけた泥人形の中、池の斜面で寝転がる一体が沈んだはずの少年だと解ったのは後の事だ。

 少年は生きていた、そして意識を取り戻した時落ちたことなど忘れていて、ずっと友達と遊んでいただけだと、そう言った。

 少年は年を経るとそんな事は全て忘れてしまった。けれど、少年の事を彼等は忘れず、ずっと覚えていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 相変わらずお見事な小説です。 発想から全体の構成、文章に至るまで、さすがに黒漆先生の作品は瑕瑾がありません。 泥を軸として場面の時空が変わっていき、最終的な落ちが提示されるわけですが、短篇な…
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