第六章 雨と風だけが嵐じゃない
小梅がマネージャー見習いになって数日が過ぎた。今までは関係のなかったマネージャーとしての仕事はそれなりに新鮮で、それなりに面倒でもある。一般的に想像されやすい洗濯もなかったし、部室の掃除や日誌は当番制でそれなりに片付いている。会計管理は基本的に顧問に任せているが、消耗品管理はマネージャーの仕事だ。イメージしているものとの差異を頭に叩き込むのが意外ときつい、と小梅は思う。
「桃園さん、先にこっちね」
「あー、最初にお茶作るんだっけ?」
「そうそう。一人でやると重くてちょっと腕痛いんだけど、二人なら楽だよねぇ」
二つのウォータージャグに部室の冷凍庫で作り置きしている氷をぶちまけながらマネージャー、蓮川柚子はのんびりと笑った。夏は二つとも冷たい飲み物だが、冬は片方を温かい飲み物にするという。小梅的には冬まで覚えていられるかどうか怪しい。備品入れの中から取り出した麦茶のパックを小さい方に三つ、大きい方に五つ放り込み部室の外にある水道から水を注ぐ。ぬるい水道水で氷の角があっという間に丸く融けていくのを見ながら適当なところで蛇口を捻って水を止めた。
「ワゴン出しとくから、クーラーボックスと救急箱の準備して」
「あ、蓮川サン、紙コップが今日の分出したら残り一袋」
「じゃあ、明日一緒に買いに行こ? 備品買う場所とか先生にお金貰う時にしなきゃいけないこととかまだ教えてなかった気がするし」
「それ、教えてもらってないと思うし普通にこんなん買いに行ったことないから助かる。ついでだし、他に買う物あればまとめて買っても良いんじゃね? あたし、荷物持ちするし」
小さなクーラーボックスに氷を詰め終えると、救急箱と一緒にワゴンの下段に乗せた。上段には先程使ったウォータージャグ。袋詰めされている紙コップとゴミ袋をウォータージャグの間に押し込むと柚子が部室の扉を開けた。じんわりと温められた空気が生温く吹き込んできて小梅は眉を顰める。柚子が能天気にも聞こえる口調で空を見上げた。
「今日も良いお天気過ぎてあっつい!」
「まだ春のはずなのにな」
「だねぇ」
がらがらと耳に優しくない音を立てながらワゴンが進む。その先では運動場の片隅で団員達がそれぞれに体力作りに励んでいた。ワゴンを押す小梅を見つけた紅葉がひらりと一つ手を振って、同じワゴンを引っ張る柚子に睨まれた。
他校の応援団や応援部がどうなのかは小梅にはわからないが、この学校の応援団の体力作りに関しては共通メニューがほとんど存在しない。基本的な柔軟体操とグラウンドを十周、腹筋と背筋を三十回ずつ。それだけが共通メニューで他は自分で自分に不足しているところを見つけて補うようになっている。全体的に体力が足りないと思うものは走り込みをしてみたり、声に張りがないと思えば腹筋を鍛えてみたり、と一人一人が自主的にメニューを組み立てている。
体力作りが終わると一旦休憩を挟んで発声練習に入る。大会によっては喉が潰れるまで声を張り上げるため、普段から鍛えるのは応援団としての必須事項だ。
「腹から声出せぇ!」
「押忍!」
普段は緩い紅葉が硬質な空気を纏うのは発声練習に入ってから。何度か見学に来ていてその豹変振りを知識として知ってはいたものの、そんな紅葉を見る度に何処か遠くへ行ったような気がしていることは柚子にも告げていない。
「相変わらず声出しになると人格変わんのな」
「それが団長の良い所なんだもの。仕方ないでしょ」
「いわゆるギャップ萌え?」
「うん」
楽しそうに笑う柚子に紅葉譲りの緩い笑みを返すと団員達の傍から少し離れた場所にワゴンを固定してゴミ袋を一枚括り付けた後、声出しをしている団員の後方へと歩き出した。柚子も反対の方向へ歩き始める。発声練習中の声が意味を伝えられる距離を測る為の行動なので、ただの怒鳴り声にしか聞こえなくなったら歩みを止める。腕を伸ばしてひらひらと柚子に向かって手を振ると同じように立ち止まった柚子が手を振り返してくれた。
しばらくその場で待っていると紅葉が右手を上に上げて戻ってくるように声を張り上げる。発声練習はその時点で終わり演舞の練習に入る。メインリーダーの振りとリーダーの振り、その他の振りは異なるものなのでワゴンを中心としてグループごとに分かれた練習を行うことになる。関わってから日の浅い小梅は割合簡単なものしか覚えきれていないが柚子はほとんどすべての振りを覚えており、振りがおかしいグループを見つけると指導に飛んでいく。その間小梅は全体の振りを覚えるのに必死になっていた。一つ一つは複雑な振りではないが場面に応じて変わるものがあってややこしい。
「あっちー……ホントにまだ五月か、コレ」
「んだよ、紅葉。またサボりか? 蓮川サンに怒られっぞ」
練習中の水分補給、と答えると紅葉はワゴンの上のジャグから紙コップに冷えた麦茶を注ぐ。それに視線を向けない小梅を横目で見ながら、ぐい、とほとんど一気に飲み干してゴミ袋に潰したコップを投げ込んで得意げに笑った。
「あんまり見つめられると穴開くかもしんねーから止めてあげてよ、小梅サン」
「確実にお前には開かねーだろ、紅葉サン」
新しく引っ張り出した紙コップに紅葉の手によって麦茶が注がれる。
「んだよ、妬けるとか言っても信じない癖にさー」
「真面目に嘘臭ぇし」
緩く笑った小梅の首筋にひんやりと湿った紙コップが押し付けられる。思わずびくりと肩を揺らして振り返った小梅の表情に紅葉は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。右手で紙コップを奪い取ると紅葉の後頭部めがけて小梅の左手が振り上げられる。
「人が一生懸命覚えようとしてんのの邪魔すんな、馬鹿」
「いやーん小梅ちゃんこわーい」
「きめぇよ、駄目団長」
ぱすん、と紅葉が頭を叩かれた軽い音が響き渡る。もしこれが柚子だったらもう少し重く鈍い音が響くのだが、幸か不幸か小梅はそれを知らないので若干やり過ぎたかも、と緩く首を傾けた。傍から見ればただのバカップルなのだが、本人達にその自覚はない。
「とっとと練習に戻れ、サボり魔」
「うぃーっす」
二人のやり取りを目にした柚子が戻って来る前に自分のグループへ戻る紅葉に、小梅は緩い苦笑を浮かべた。
「まったく……ちょっと目を離すとすぐサボるんだから」
「あんま怒んないでやってよ。多分、あたしを気遣ってくれてるだけだからさ」
「……分かってるんだけど、やっぱり示しつかないし」
大人しそうな顔立ちなのに発言は体育会系な柚子になんとはなしに既視感を覚えつつ小梅は視線を練習中の団員達に向け直した。まだまだ、覚えなければならない振りはたくさんあるのだ。時間は無駄には出来ない。
紅葉に注いで貰った麦茶を飲みながら小梅は集中力を総動員して演舞を覚えようと視線に力を込めたのだった。
下校時刻までにはまだ余裕がある時間に応援団の部活動は終わる。着替えと部誌の記録時間から逆算した結果である。
「紅葉」
「んあ?」
「早く書き終われよ。待つの飽きた」
数日前桃香に薦められて借りた文庫本を眺めながら小梅はどうでも良さげに呟いた。それに生返事で返し、紅葉はノートにシャープペンシルを走らせる。若干罫線からはみ出すダイナミックな文字は小梅のそれにも似ている。既に二人とも着替え終わり、あとは紅葉が部誌を書き終えるのを待つだけ、というだらけた時間を小梅は満喫していた。
「なあ、それ面白ぇの?」
「意外とハマる」
「ふーん」
最後に自分の名前を書き、記録が終わる。がたん、と音を立ててパイプ椅子から立ち上がると小梅の顔を覗き込むように視線を合わせた。
「ん? 終わった?」
「終わった。構って構ってー」
「はいはい。あ、ちびっ子は?」
「先に図書室行くってさ。初々しいねぇ」
へらりと緩い笑みを浮かべた紅葉は荷物を手に小梅を待つ。この様子だけ見ていればまるで恋人同士なのだが、今のところはそうではない。そうではないのだが、なんとなく、落ち着かない。ぱたん、と音を立てて文庫本を閉じる。大して教科書が入っていない薄い鞄の中に放り込んで立ち上がると、そのまま軽く伸びをした。
「明日さー、蓮川サンとお買い物行ってくるわ」
「なんで?」
「備品の買い出し。顧問から金貰う時のやり方とか全然わかんねーし、ついでに色々買う所教えてくれるってさ」
「俺も行きたい」
「紅葉は練習」
「ちぇー」
いつもの他愛無い会話を繰り返しながら部室を出ようとドアノブに手をかけて、動きが止まった。タッチの差で小梅の方が先だったのだがその手の上に勢い余った紅葉の手が重なった所為だ。思わず二人で目を見開いて、同時に手を引く。小さな頃には特に何も感じなかったそれが、とんでもなく気恥ずかしいことになってしまったのはいつ頃からだろうか。紅葉がドアノブをチラ見し、小梅が顎をしゃくる。結局、扉は視線に負けた小梅が開き、かちりと鍵をかけた。
「……んだよ」
「……何でもねぇし」
ぎくしゃくと小梅が歩き始めるとその後ろを紅葉が歩き始める。追い付いたり、追い越したり、それを繰り返しながら二人ともどうにもそわそわと落ち着かない。いつもと違って軽くて緩い会話もない。
「あのさ、紅葉」
沈黙を破ったのは小梅だった。
「こういうのおかしいと思うんだよな、あたし」
「どういうの」
「なんかこう、あたしと紅葉みたいな、曖昧なの」
ずっと考えてた、と付け足すと小梅の斜め前で紅葉も一つ頷いた。付き合っているか否かを問い続けられてもう数年経つ。別の誰かと付き合うでもなく、恋人のような行き過ぎた幼馴染のような関係を続けてから、数年。
そろそろ限界だと小梅は思う。自分より紅葉のことは詳しく知っている人間なんていないと思っていたのに、少なくとも自分と同じくらい知っているかもしれない誰かの存在で自覚するのはどうにも腹立たしかった。
「そろそろはっきりさせたい。あたしが紅葉の何で、紅葉があたしの何なのか」
「……確かにもうはっきりさせた方が良いよな。いい加減」
紅葉が、ごほん、とわざとらしい咳払いを一つして緩い表情を若干引き締めた。それを見た小梅も真面目な顔に変わる。茶化してはいけない雰囲気なんて今まではなかったのに、今はどうにも茶化せない。それを望んでいるのが自分なのだから、なおさら。
「まずは、俺と付き合え、小梅」
「……それ、あたしから言わなきゃいけないと思ってた」
「本当はお前より十センチ高くなってから言おうと思ってたんだけどな」
「なんだそれ」
軽く噴き出した小梅に紅葉も表情をやんわりと緩める。普段の緩さとは違うそれに気付いて小梅がほんのりと頬を染めたが夕日の色にかき消された。頬の熱さを誤魔化せていることに気付いていない小梅はなんとなく微妙な表情になり、それを見た紅葉もまた微妙な表情になった。のんびりと歩きながら紅葉は微妙な表情で笑う。
「男のプライドって奴? ヒール履いた彼女より背が低いってなんかアレじゃん」
「そんなの別に気にしなくても良かったのに。あたしヒールなんか履かないし」
「馬鹿、お前だって女だろ。今はそうじゃなくても近い将来ヒールとか履きたくなったらどうすんだよ。俺に気ィ使うとかそんなん小梅らしくねぇけど、実は意外と気ィ使ってくれてんのとか、梅木とか桜井が似合いそうな可愛い服見た後に自分見て溜息吐いてんのとか、お前が知らなくても俺は知ってるし。お前がどんな格好しててもアンバランスにならない男になりてぇの、俺は。だからお前との身長差がもう少し欲しいんだよ」
さも当然のように滔々と紅葉が語る内容に、小梅の頬がみるみる赤く染まっていく。夕日の色でも誤魔化せないほどに染まると、紅葉が楽しそうに笑って小梅の頬を軽く突いた。いつもと同じような、けれど、ほんの少しだけ違う行為に小梅の頬がますます赤く染まる。
「もしかして、あたし、意外と愛されてんの?」
茶化すわけでもなく、馬鹿にするわけでもないその仕草に小梅がぽつりと呟く。
「意外と、じゃねぇし。超愛してんだけど」
大真面目に頷きながら紅葉が答えると、小梅は思わず吹き出してしまった。茶化していないように見せかけて茶化してしまう紅葉の臆病さが好きだ、と小梅は思う。ここで笑い出す臆病な自分と良く似ていて、愛しい。
「ふ……ははっ。その言い方、マジ嘘臭ぇ」
「言ってろ、ばーか。で、返事は?」
「付き合う、付き合う。付き合わせてください」
笑いながら軽いノリで言葉を返した小梅に紅葉も緩い笑みを返す。笑い合いながら紅葉が軽い調子で左手を差し出し、小梅も軽い仕草で右手を乗せる。そのままするりと指先が絡んで二人の距離が縮まった。
「……ちゃんと、好きだから」
「うん。知ってる」
「お前も俺のこと好きでしょ?」
「うん。好き」
幼い頃以来の距離は少しくすぐったい。けれど、どちらもそれを解こうとはせずのんびりと小梅の親友達の待つ図書室へと歩き始めた。桜は焦って何か落としたり転びそうになったりしてくれるだろうし、きっと桃香は眉を片方吊り上げて帰り道を面白がるに違いない。二人揃った性質の悪い笑みは、それでいてどこか幸せそうでもあった。
「あーあ、年貢の納め時来ちゃったなぁ」
「それ、最近読んでる本の影響か?」
「いや、将軍様の影響」
「お前アレ見てんの? 意外ー」
のんびり歩いている間に下校時刻五分前の予鈴が鳴り響き、顔を見合わせた二人は手を繋いだまま下足室に向けて全力で駆け出した。図書室での桜と桃香の反応は二人の予想通りで小梅が大笑いし、椛野の意味深な視線と柊木の恨めしそうな視線を紅葉が素知らぬ顔で無視するのはあと数分後のことである。