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春嵐前線  作者: なゆ
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第五章 黒雲は嵐を呼んで

 小梅が応援団のマネージャーになることを決めた頃、桜は図書室の片隅で恐慌状態に陥っていた。理由は二つ隣の椅子に座る男子生徒。

「ああ、梅木は読書?」

「あ、あの、えっと……はい」

 間に荷物が鎮座する椅子があるとは言え昨日までは接点すらなかった異性が間近に居てにこやかに語り掛けてくるというその状況は、桜が恐慌状態に陥るには十分すぎる出来事だった。がちがちに強張った桜の様子に苦笑した椛野は鞄の中から一枚のプリントを取り出して机の上に広げる。学校で配られる類のものとは違い、上質紙にカラー印刷されたそれには『オープンスクールのお知らせ』の文字が穏やかに踊っていた。

「これ、柚君に。日付や必要なものなんかはこれに書いてあるから」

 一般的な図書室という概念にふさわしい密やかな囁き声と共に一枚のプリントが桜の前まで滑らされる。背中に汗をかきそうなほど緊張していた桜は紙一枚を滑らせてきた指が全体の印象よりも骨太なことにも気付けない。読んでいた本の栞代わりに置いていた貸し出しカードを挟み込み、音がしないようにそっと机の上に置くと、そろそろと指を伸ばしてプリントを手に取る。夏休みに入る少し前の日付が書かれたプリントを妙に真剣な表情で見つめ、丁寧に二つ折りにしてから静かに鞄へと滑り込ませた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 簡単な言葉を交わして椛野が桜が荷物を置いた席の隣の席に腰を下ろした途端、桜の表情が一気に強張った。自分への用は済んだしすぐに立ち去るものだとばかり思っていたからだ。何がどうしてこうなっているのか、桜にはさっぱりわからない。気持ちを落ち着かせようと読みかけていた本を開いて文字を追ってみても意味が頭の中を素通りしていく。ちらりと様子を窺ってみれば椛野はやけに真剣な顔つきでノートを見下ろしていた。参考書も教科書も開いておらず何のノートなのかほんの少しだけ気になったが、それよりも何故ここに座っているのかという疑問の方が強い。どうして、と椛野に問うのもなんだかおかしい。何か会話が出来れば少しはマシなのだろうが、桜が今座っているのは図書室の読書スペースであり話をするには若干不適当な場所だ。そもそも話題らしい話題がない。口に出せない思考は巡り巡って桜の脳内を無限に連鎖する。思考回路がオーバーヒートするのは時間の問題だった。

「梅木」

 注意を引くように微かな力で叩かれて、びくり、と桜の肩が跳ね上がる。恐る恐る視線を向けると椛野がカウンターを指して微笑んだ。人差し指が指す先では桃香が真剣な顔で桜に小さく手招きをしていた。

「荷物、見ておくから行っておいでよ」

「あ、あの、でも」

「ほら、桜井、物凄くこっち見てるし、早く行った方が良いよ」

 ひらひらと手を振る椛野に小さく頭を下げて桜はカウンターへと小走りに急いだ。今日の桃香は目力が半端なく強い。突き刺さる視線が痛みを伴う錯覚を起こすくらいに。理由はわからないが危機感に煽られて出来得る限り急いで桃香の前に立った桜に、目の前のアンティークドールにも似た美少女はにこりと微笑みかけた。笑っているようで笑っていない眼差しに、慣れてはいても桜の肩が怯えたように竦められる。

「あのね、桜」

「な、何?」

「頼みがあるの」

 桃香が浮かべる無邪気に見える微笑みは何か企んでいる時のものだと親しい中の者達は知っている。無論、桜とて例外ではない。こくりと唾液を嚥下して視線で次を促すと、桃香はカウンターに置かれていた文庫本を一冊差し出してきた。明朝体で書かれたタイトルは書店でもかなり大きく取り上げられている有名な時代小説のもの。

「何も言わずに、これ借りてちょうだい」

「……桃香ちゃん、これって、いつもの?」

「続刊の入荷希望が結構あるんだけど司書さんが手強くて。今なら司書さんが勝手に時代小説強化週間してるから、助けると思って、ね?」

 何事か、と身構えていた桜はほっとして深々と息を吐いた。差し出された文庫本を受け取ってあらすじに目を通す。今回同様の理由で桃香が本を読めと言ってくることは多々あるが、傍から見れば強引に薦めているものも相手の好みを熟知した上でのことなので読んでみれば意外と面白かったりする。面白ければシリーズ作品に手を出すので桃香の作戦はあながち間違ってはいない。が、強引な部分も大きく今のところは主に桜と小梅、紅葉のみを相手に行われているだけである。

「わかった。カード書いてくるね」

「ありがと、桜。どうせだから副会長にも薦めてきて」

「そ、それは、無理……わかって言ってるでしょ、桃香ちゃん」

 結構本気なんだけど、と悪びれもせず瞬いて桃香が笑うと桜もつられたように笑う。文庫本を抱えたまま小さく手を振って席に戻ろうと振り返ったところで椛野と視線が合った。反射的に足を止めてしまったが緩く首を傾げた椛野の姿を見て焦って歩き始める。ぎこちなくそれまで読書していた席に戻ると手にした文庫本に椛野が反応した。

「梅木、そういうのも読むんだ?」

「これは、あの、桃香ちゃんにお薦めされて」

「俺も読んだけど、結構面白かったよ。殺陣のシーンも良いんだけど、日常のシーンが俺は好きだな。現代日本じゃ考えられないような感じが気に入ってる」

 存外楽しそうに語る椛野の表情に一瞬だけ先程桃香に言われた言葉が脳裏をよぎり、桜はふるりと首を振る。それを別の意味に捕えたらしい椛野が苦笑交じりに、ごめん、と呟いた。はっとして桜はさらに首を横に振った。

「そういう、意味じゃないの。あの、あの」

「いや、俺が無神経だった。ごめん」

「も、桃香ちゃんから、副会長にも薦めてきて、って言われてたから、それで」

「俺にも?」

「このシリーズの続刊を入荷したいから、貸出数を上げたい、って」

 なるほど、と呟いて椛野がカウンターに視線をやるとパイプ椅子にちょこんと座った桃香がにっこりと笑っているのが見えた。一見無邪気なその笑顔もやけに強い目力で少々胡散臭いものになっていた。その笑顔に曖昧に笑い返すと椛野はそっと立ち上がる。なんとなく桜もそれを目で追い、視線が上の方へと動いた。

「ちょっと、俺も行ってこようかな」

「え?」

「せっかくだし、桜井のお薦めってヤツを聞いてみようかな、と思って。悪いんだけど、梅木、俺の荷物見ててもらえる?」

 話の展開についていけない桜が思わず頷いたのを確認して、椛野は人当たりの良い笑顔を浮かべてカウンターの方へと歩いて行った。テーブルの上には広げられたままのノートと筆箱、桜の荷物が置かれた椅子と反対側の隣の椅子に鞄とサブバッグが置かれている。それをちらちらと横目で確認しながら手元の貸し出しカードに小さく几帳面そうな字を書き終わり、ぼんやりと自分と椛野の鞄を眺めていると右肩に何かがぶつかってきた。大して重くもなく、かといって無視できるほどのものでもなく、なんとなく振り返りながら左手で右肩に触れたが特に何か付いているような感触もなかったので首を傾げながら再び鞄の方へ視線を戻す。

「……あ、れ……何か、変?」

 言葉に出してみると違和感は増していくようで、首を傾げながら何が違うのかを探し出そうと桜は必死でほんの数秒前の光景と今の光景を思い返していた。しかし何が違うのかわからないまま違和感だけが膨れ上がっていく。何かが違うのに何が違うのか明確にできない気持ちの悪さと焦燥感だけが募る感覚が桜をじわじわと追い詰める。握り締めた掌にじんわりと汗が滲み、呼吸が次第に浅く、早くなっていくのが自分でもわかった。

「足りない?……それとも多い?」

 どうしよう、と桜は頭の中で繰り返す。答えが出るはずもないと理解していても何度も繰り返してしまうのは混乱と焦燥の所為だろう。震える指先は弟とお揃いで鞄に提げている小さなストラップをきつく握り締め、目だけが必死に机と椅子を往復する。

 何かがおかしい、そのはずなのに。

 そればかりが頭の中を駆け巡り、いつの間にか椛野が背後から自分の様子を見て首を傾げていたことに気付けなかった。

「梅木?」

 半分泣きそうな表情で桜が振り返ると椛野はどこか慌てたように瞬いて首を傾けた。とりあえず机の上を片付けるよう桜に促すと自分も広げていたものを片付けようと手を伸ばし、若干の違和感を感じて微かに眉を顰める。隣では桜が何時泣き出してもおかしくない面持ちで静かに片付けを終え、膝に鞄とサブバッグを乗せて小さく震えていた。視界の端にその様子を収めると、若干荒い手つきで机の上を片付け桜の肩にそっと触れる。

「ごめん。少し、外で話そう」

 小声での言葉にこくりと桜が頷き、俯いたまま立ち上がる。カウンターの桃香が何事かと椛野を睨み付けたが、それを無視する形で二人は図書室の外へ出た。放課後の人通りの少ない廊下で立ち話もなんだから、と椛野が生徒会室へ案内する。その後ろを今にも泣きそうな顔を俯いて隠しながら桜がついていった。運良く誰ともすれ違わずに生徒会室まで辿り着いたが、もし誰かとすれ違っていたら明日の朝には何かとんでもない噂が学校中を駆け巡っていたことだろう。

「漫画みたいにお茶入れたりは出来ないしソファとかもないんだ。ごめんね」

 ふるりと首を横に振って示された椅子に桜は腰を下ろした。教室の椅子よりは格段に座り心地の良い椅子だったが、今の桜にそれを味わう余裕はない。膝の上に乗せた鞄のストラップをきつく握り締めて俯くだけだ。

「さっき、何かあった?」

 恐慌状態に陥っているであろう桜に対し、椛野はひたすらに優しい声音で語り掛けた。桜は悪くない、とでも言いたげなその口調に震えるだけだった桜の唇が少しだけ動き始める。未だ声を発するまではいかないものの、ストラップを握り締める手に込められた力がほんの少し和らいだ。質問を投げかけ続けても効果がないことを知ってか知らずか、椛野は先を促すようなことはせず桜が答えるのを待っている。人によってはそれがプレッシャーになることもあるのだろうが、桜は少し待たれた方が心を落ちつけられる性質なので問題はない。

「……さっき、何かが肩にぶつかって」

 たどたどしく話し始めた桜の言葉を、頷いたり相槌を打つだけで遮ることはせず、椛野は最後まで聞いた。聞いた後、鞄に仕舞ったノートと筆箱を取り出し、一つ一つ確認していく。桜も食い入るようにそれを見つめた。

「ああ……わかった。定規が足りない」

「ど、どうしよう……私が、ちゃんと見てなかったから」

「いや、梅木と同じことされたら俺も見逃してたと思う。気にしないで」

 椛野自身に心当たりはある。昨日帰り道で見ていた『誰か』だ。見ているだけから持ち物に手を出すまでに嫌な意味で成長してしまったのだろう。桜の存在を利用する形で嫌な方向での成長をわざと促した自覚がある椛野としては桜に罪悪感を植え付けたくはなかった。むしろ責められるのは椛野本人である。

「書架が多くて隠れるのも簡単だっただろうし、仕方ないよ。それより、梅木に怪我がなくて良かった。昨日の桜井みたいなことになったら柚君にも申し訳ないし」

 それに、と椛野は付け足してにこりと微笑んだ。

「梅木がいたからこの程度で済んだんだろうね。こっちが御礼を言わないと」

 確認が終わったものを鞄にしまい、壁にかかった時計を見上げて椛野が立ち上がる。桜もつられて立ち上がり、時計に目をやった。下校時刻まではまだ時間がある。桃香達との約束もあるし、図書室に戻らなければならない。

「あの、私、図書室に戻るから」

「俺も行くよ。桜井のお薦め、まだ借りてないんだ」

 一緒に行こう、と笑う椛野に困ったように微笑み返して桜は歩き出した。ほとんど小走りに近い速度で歩く桜の後ろを椛野がのんびりと楽しげに歩いていく。一人二人すれ違った生徒がいたが先程の如何にも何かありました、と言わんばかりの表情よりは噂にはなりにくい。それをわかっているから椛野ものんびりと構えていることを桜は知らない。

 飛び込むように図書室へ入るとカウンターの桃香が驚いたように瞬いた。椛野がカウンターに近付くと桃香が何やら話しかけているようだったが桜には聞こえてこなかったので気付かなかった。桜は桜なりに必死で先程のテーブルとは違うテーブルの隅に腰を下ろし、鞄にしまっていた文庫本を取り出して活字を目で追い始める。しばらくすると当然の様に椅子一つ間を開けて椛野が腰を下ろし、借りたと思しき文庫本を開いた。若干強張る肩と背中が桜の緊張の度合いを示しているが、椛野は見て見ぬふりをした。

「桜井って凄いな」

 手にした文庫本を数ページ読んだところで椛野が驚いたように呟いた。不意に聞こえてきた親友の名前に桜はどきりと心臓を跳ねさせた。桃香はその性格と容姿で色々な意味で『凄い』と言われることが多いが、椛野が呟いたそれはどういう意味なのか問い返したくておずおずと桜も口を開く。

「桃香ちゃん?」

「ほんの少し好みを伝えたらそれにぴったり合う本を薦めてくるとか、俺のクラスの図書委員でも出来ないよ。桜井は凄い」

「桃香ちゃんはね、読書家なの。図書委員にも立候補するくらい本が大好きで」

 初めてできた大好きな親友を褒められて桜の頬が緩む。手許の文庫本に視線を落としながら嬉しそうに小さな声で親友の話をする桜の横顔を、文庫本から視線を外した椛野が嬉しそうに見つめていることに桜は気付いていない。普段は誰に対しても怯えが先に立つ桜のそんな表情はひどく珍しいもので、カウンターの桃香も首を傾げながら桜を注視していた。ちらほらと姿が見える男子生徒達も珍しい桜の笑みをひっそりと目で追い、それに気付いた椛野が牽制するように微笑むのを見て視線を逸らす。桜自身はそれに気付いた様子もなく、ただ、嬉しそうに桃香の自慢話をするだけだ。

「梅木は本当に桜井が好きだね」

「桃香ちゃんも小梅ちゃんも親友だもの。大好きで、大切なの」

 桃香と小梅が聞いたら照れて恥ずかしがりそうな台詞を臆面もなく桜が語る。それを聞きながら緩く首を傾ける椛野の視線は傍から見るとやけに甘くて優しい。桜以外の相手には隠すつもりもないことが見て取れ、離れた場所から監視するように見つめている桃香は面白そうに口角を吊り上げたのだった。

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