第二章 もう一つの春の嵐
二人きりの帰り道。相手は初対面な上に心理的に苦手な異性で、物理的な意味でも距離感が解らない。その上、相手を楽しませることが出来るような会話のネタも持ち合わせがない。学校の最寄駅までのさほど長くもない道程の途中、息苦しいまでの緊張感と恐怖が桜を襲っていた。
逃げ出したい気持ちそのままに駆け出してしまうことだけはかろうじて堪えているものの、出来るだけ離れて歩きたいと思っている桜の心を見透かすかのように椛野は時折立ち止まっては足取りの重い桜が追い付くのを待つ。何処からどう見ても完璧に紳士的な椛野の態度は桜の焦りと申し訳なさを誘い、ひどく落ち着かない気持ちにさせた。
「梅木? どうかした?」
「あ……なんでもない、です」
どうやら考えすぎて足が止まってしまったらしく、訝しげに椛野に見つめられていた。桜と椛野の間には数歩の間があるものの、彼が立ち止まって待っている以上この間は詰めなければならないものになるのだろう。重たい足取りで一歩足を踏み出した時、微かな電子音が響いた。携帯電話に最初から登録されている無機質な電子音は今時の高校生の着信音としては少数派だろう。しかしその音に桜は慌てて鞄から携帯を取り出した。取り出された二つ折りの白い携帯には今時の女子高生にありがちなきらきらしたデコレーションは施されておらず、ただ着信を示すイルミネーションが柔らかく灯されていた。
「あ、の、ごめんなさい」
いいよ、とでも言うように微笑んだ椛野を視界に入れて、桜は携帯を開き液晶に表示されている『柚』という名前に小さくため息を吐いた。そのまま椛野に背を向ける格好で通話ボタンを押して携帯を耳に押し当てる。
「もしもし」
『あ、もしもし、桜姉? 今何処?』
「学校から駅に行く途中なんだけど……」
『じゃあ俺、そっちの駅まで行くから、ちょっとだけ待ってて』
「うん。わかった」
『駅まで、ていうか駅でも気を付けてね?』
シスコン気味の過保護な弟の心配そうな声に桜は少しだけ笑みを浮かべた。二つ年の離れた弟は毎日のように桜と登下校を共にしたがる。どうやら姉を護るのは自分の仕事だという刷り込みがあるようだった。時に鬱陶しい程のそれも、今の桜には天の助けと思えてしまうくらいに緊張していたのだと思い知らされる。
「大丈夫。心配し過ぎだよ、柚」
『……もしかして、今誰かと一緒だったりする?』
「あ、えと、うん」
思いのほか鋭い弟の質問にぎくしゃくと椛野に視線を向けて頷く。頷いたところで電話の向こうの弟には見えないのだけれど、桜の癖と言っても良い。
『わかった。電車来たから切るね』
通話を終えると椛野が緩く首を傾げて桜を眺めていた。
「あの、弟が迎えに来るって……」
「ああ、さっきの弟さんだったんだ。てっきり妹さんだと思ってた」
「え?」
「ユズ、って女の子の名前だと思い込んでたから」
「あ、それ、弟も結構気にしてるの。せめて最後に『る』って入れてくれれば間違われたりしないのに、って」
実際、初めて名前を目にする者の大半が柚の性別を間違える。見た目も桜に良く似ているから制服姿に違和感を覚える人間も少なくない。柚自身、もう少し男らしい見た目が良かったと零すことも多く、幼い頃からいつでも自分と行動を共にしたがる姉離れが出来ない可愛らしい弟の姿しか知らない桜はほんの少し複雑な心境だったりもする。
「サクラにユズか。中々風流な名前だね」
「そう、かな」
「もしかして二人とも春生まれ?」
「どうして?」
「どっちも花が咲くのが春だから」
微笑みながら先を促す。ぎくしゃくと硬い調子で桜が半歩後ろを歩き始めると椛野の歩調がわずかに緩んだ。しかし半歩後ろを歩きたい桜もまた無意識に歩く速度が落ちるのでなかなか二人の距離は縮まらない。
「俺なんて冬生まれだからね。ヒイラギとアオギリでトウゴって」
「そうなんだ」
「そう。苗字も入れたら四文字中三文字が木編だよ? バランス悪過ぎだよね」
頭の中で言われた文字を漢字に変換して言われてみれば確かにそうかもしれない、と頷いたものの、よくよく考えれば桜もそうだ。しかも桜に至っては名前全部に『木』が入っている。しかしこれはある意味バランスの良い名前なのではなかろうか、なんて考えていると椛野がふっと小さく笑った。
「そういえば、梅木は名前全部に『木』が入ってるね。それってある意味バランス良い気がするかも」
「柚も……弟もそうなるの」
「はは、お揃いなんだ?」
「うん。そうみたい」
やんわりと椛野が他愛のない話題を振り、桜が考えながら言葉少なに答える。そんなぎこちない会話は徐々に二人の距離を縮めていき、駅に辿り着く頃には半歩後ろにいたはずの桜は椛野の隣に並ぶような位置に立っていた。改札を通り自然に足がホームへと向いた、その時、桜がよく知る声が聞こえた。
「桜姉」
聞き慣れた声は振り向かなくても誰かわかる。柚だ。
「早かったのね、柚」
「桜姉が遅過ぎるんだよ」
あからさまにほっとしたような桜の声音に椛野がこっそり苦笑する。桜にとっては見知らぬ男子と二人きりの帰り道、きっと緊張しているのだろうとは予想していたものの、ここまでだとは思っていなかったからだ。
こっそりと安堵の溜息を吐いている桜の死角から柚が警戒心も露わに鋭い視線を向け、それに気付いた椛野は動じる様子もなく緩やかに微笑んで見せた。柚が口を開くより先に椛野が桜に向かって声をかける。
「梅木の弟さん?」
「うん、そう。柚、椛野君っていってね、あの、遅いからって此処まで送ってくれたの」
「……どーも。桜姉の弟で柚。中学三年」
先に自分から挑発めいた言葉を浴びせようとしていた柚だったが、椛野にそれをくじかれた格好になったため、返す言葉はやや不本意そうな響きを帯びている。
「受験生? 志望校はやっぱりお姉さんと一緒?」
「まあ、そんなとこ。ていうか、あんたも名乗れよ」
「ゆ、柚!」
柚の挑発的な発言に桜の方が慌てた様子で声を上げる。そんな二人を見ながら椛野は楽しげに目を細め、それを目撃した柚が面白くなさそうに顔をしかめた。
「はは、それもそうだ。梅木もそんな慌てなくていいよ? 気にしてないから」
「で、でも」
「良いんだって。俺は椛野柊梧。紅葉って書く方じゃなく、木編に花って書いてモミジって読むんだ。君のお姉さんと同学年。よろしくね、梅木の弟君」
「ふーん……ヨロシク、センパイ」
ふと、視線を感じて椛野は緩く首を傾ける。桜と他愛のない会話をしながらまっすぐ此方を見つめてくる柚の猜疑心溢れる強い視線ではなく、どちらかと言うと纏わりつくような、いわゆる物陰からそっと見つめるだけで良い、という類のものだ。たとえ好意があるのだとしても人ごみの中から自分に注がれる誰の物とも知れない視線はいくらかなじみがあるものだったが椛野にとってあまり心地の良いものではなく、意図的に意識から切り離そうと柚と桜に向かって声をかけた。
「ところで、何線? 桃園にも宣言したし、ちゃんとホームまで送るよ」
「だ、大丈夫、だから」
「言わなかった? 送れるところまではちゃんと送るよ、って」
「で、でも、柚もいるし」
「申し訳ないんだけど、路線が一緒なら電車の中まで付き合わせてもらって良いかな?」
ほんの少し声を抑えて話しかけると桜だけでなく柚までもが不思議そうに首を傾けた。良く似た綺麗な顔が二つ、同じような表情を浮かべる様はどうにも微笑ましく、椛野はやんわりと人当たりの良さそうな笑みを浮かべた。
「どうも最近、俺をじっと見てる人がいるらしくて」
「え、と……それって」
「さすがにちょっとこのまま一人で帰るのも居心地悪いし」
椛野が語るそれは、桜と柚にも覚えのある感覚だった。見知らぬ他人が好意を持ってじっと見つめる視線。世間が納得できる理由もないのに無下にはできず、かといって無視するには密度の高いそれは本当に居心地が悪いものだ。相手に悪気がないとわかっているから、なおさら。
「三番ホーム。楡ノ木台方面の電車だけど、来るなら来れば?」
「有難う。楡ノ木台ならほとんど同じ路線だし、助かる」
「桜姉が目で訴えてるから仕方なく、だし。感謝なら桜姉にしなよ」
渋々、といった様子で柚が呟いて歩き出した。その後ろを歩き始めた椛野に遅れる事半歩、桜も小走りについていく。第三者の視点で傍から見ていれば仲が良いのか悪いのかわかりにくいことこの上ないのだが、当の本人達はまるでわかっていない。
目的地である三番ホームに着くと、ちょうど電車がホームへ滑り込もうとしているところだった。運が良いのか悪いのか、三人が乗り合わせる電車で柚と桜は良く似た顔を見合わせて苦笑を一つ。
「それにしても二人、良く似てるね」
「姉弟だし。全然似てなかったら怖いっての」
「双子って言っても通るかもしれないくらい似てるよ」
「そう?」
「うん。笑ったりすると本当に良く似てる」
一緒に居るのに会話の一つもないのは不自然だろう、と椛野が適当に話題を振り柚がさっくり返す。時々桜がたしなめるように柚に向かって一言二言。
そんなぎこちない会話がしばらく続いている内に柚は椛野に慣れたらしく、ぶっきらぼうではあるが冷たくはない返事を返すようになった。元々面倒見の良い椛野は今年受験だという柚の志望校が姉と同じ高校だと聞いた時には同性同士であることもあり、桜とは違った視点からいくつかアドバイスを与えていた。
そんな二人の会話を近い場所からじっと眺めていた桜は、会話に入ることを躊躇する自分を不甲斐なく思うと同時に、初対面で時間もそう経っていないにもかかわらず弟が警戒心を剥き出しにしたままでなく接していることに実はひどく動揺していた。こんなことは今までにはなかったことで、自分だけでなく弟自身戸惑っているのだろうかと様子をうかがってみてもその気配は感じられない。自分一人が焦っているようで不規則な鼓動と不安定な感情の波はひどくなる一方だった。
「梅木?」
「はえ?」
頭の天辺から足の先まで自分の思考に浸っていた桜は急に慣れない顔が眼前に現れたことでびくりと肩を震わせた。常の自分ならば絶対に接近を許さないであろう距離。近過ぎると感じるほど近くにある慣れない他人の顔は、ぼんやりと脳裏に思い描いていたよりも整っているように思えて、そんな自分の思考にもますます焦燥感を募らせてしまう。
「はえ? じゃないよ、桜姉。具合悪い?」
「そんなことない、けど」
「じゃあなんか考え事? 眉間に皺、寄ってる」
「そういうわけでも、ないんだけど」
いくら弟相手とはいえ公衆の面前で自分の中の焦りや迷いを言葉に出すのははばかられ、曖昧に濁そうと首を振る。心配そうな弟の視線に、反射的ににこりと微笑み返すと眉間に伸ばされていた指が戻っていった。代わりに椛野の心配そうな顔が近付いてくる。どきりと心臓が跳ねる音が聞こえてしまいそうで思わず一歩引いてしまった桜は自分が呼吸を一瞬止めたことにまるで気付いていなかった。
「本当に大丈夫? あまり顔色良くないけど」
「だ、大丈夫、だから」
自分ではその場に留まって答えているつもりなのだが、条件反射なのか弟の後ろに隠れるように桜の身体は勝手に逃げる。気が付いたのは柚の袖に手を伸ばした時だった。はっとして椛野を振り返る。いくらなんでもこれは失礼だ、と自己嫌悪に陥った桜に優しげな低い声が申し訳なさそうにかけられた。
「ごめん。こういうの苦手な人なんだ? 次から気を付ける」
「ごめ、ごめんなさい……っ」
「気にしてないから、謝らないで。俺も無神経だったし」
「ほら、桜姉。こっちなら平気? ドアの方に行く?」
過剰反応な自分が悪いと思っていても身体は素直に離れようとする。椛野も桜から一人分場所を開けて立ち、桜と椛野の間に柚がするりと滑り込んだ。安心できる距離と安心できる人の傍、桜はようやく不穏な動悸がゆっくりと治まっていくのを感じていた。
しかし、桜は椛野が言った『次から』という台詞を聞き逃していた。桜自身が今後椛野と関わり合いになることはないだろうと思い込んでいるということもある。普段ならそれに気付いた柚が射殺しそうな視線を向けて威嚇するのだが、今回に限ってはちらりと物言いたげな視線を向けただけで済ませてしまったので桜が気付く余地は無いに等しい。知ってか知らずか椛野は緩く微笑んで、柚との会話を再開した。
「学校見学会が夏にあったと思うから、申し込んでみたらどうかな? さすがに個人での見学っていうのは無理だと思うしね」
「それって学校通さないと無理?」
「以前、御両親が申し込んでくるパターンもあるって聞いたことがあるから中学校を通さなくても大丈夫だと思うけど……一応、担当の先生に確認しておくよ。メアドか電話番号を教えてもらえると有難いんだけど」
「……桜姉」
不意に会話の矛先が自分に向き、桜の心臓は再び不規則に跳ねた。何、と目で問うと柚が大真面目な顔で口を開く。
「桜姉さ、さっきの話の返事、こいつから聞いておいて」
「え?」
「同じ学校に桜姉が居るんだから良いでしょ? それにさ、よく知らない人と話すのに少しは慣れておいた方が良いと思うし」
色々困るでしょ、と心底心配そうな視線が突き刺さる。確かに柚の発言は納得できるものなのだが、桜が知っている弟は姉と他者のそういった接触をあまり好まない生き物だった。突然の出来事と想定外の事態に桜は身体ごと思考回路がストップしてしまった。
「あんた、桜姉のクラスとか知ってる?」
「知ってるよ。君の予想通りかどうかはわからないけど」
「あ、そ。じゃあわかり次第で良いから、桜姉に伝えておいて」
「わかったよ。その時はお手柔らかに頼むね、梅木」
自分を置いて話は決まっていく。何か言わなければ、と思えば思うほど桜の唇は動かなくなって言葉が喉に引っかかる。おろおろと彷徨わせた視線が不意に椛野の視線とぴたりと重なった。あからさまに困った表情の桜に椛野は緩い苦笑を浮かべてみせる。
「そんなに嫌がられるとは思ってなかったんだけど」
次の停車駅を告げるアナウンスが流れて、椛野の視線が桜から僅かに逸れた。良く聞き知った駅名は桜と柚の降車駅でもある。
「次、降りるんじゃない?」
こくりと頷いた桜は、降車駅を教えなかったのに指摘されたことにも気付けないほど自分の考えに手一杯で、自分と椛野の間で柚がぎろりと椛野を睨み付けたことに気付かなかった。降車駅を知っているということは聞き出さずとも乗る路線など知っていたという事だ。今にも舌打ちしそうな勢いの柚の鋭い睨みを真正面から受けても椛野は素知らぬ顔でひらりと手を振る。
「それじゃ、また明日」
「さ、さようなら」
明日会うはずないのにどうして、と焦りながら背を向け、桜は小走りにホームへと降りる。その背を追いながら振り返った柚はひらひらと手を振っていた椛野が唇に人差し指を当てて、黙っていて欲しいという意味のジェスチャーを返してきたのを目撃した。小さく舌打ちしながら立てた右手の親指を勢いよく下へと向けた後、危なっかしい足取りで遠ざかっていく姉の背を走って追いかける。
そんな二人の背を見つめながらひどく楽しそうな表情で椛野が低く何事か呟いたのだが、発車を示すベルがかき消した所為で幸か不幸かそれを聞く者はいなかった。