序章 春の嵐は突然に
「ああああああああああっ! 本当にもうっ! む・か・つ・く!」
形の良い眉を顰めながら毒吐くのは桜井桃香。色白の肌に映えるふんわりと柔らかな色素の薄い明るい色の巻き毛とぱっちりとした睫毛の長い瞳。ぷっくりと艶やかな小さな唇は口紅など塗らなくても赤い。黙っていればビスクドールもかくやという西洋系美少女なのだが、三代遡っても異国の血は混じっていない生粋の日本人である。人形めいた可愛らしい外見なのにどこまでも強気で勝気、自分から進んで喧嘩を売ることは稀ではあるものの、売られた喧嘩はきっちりと買ってしまう性質だから始末に負えない。身長一四八センチメートル、小学生向けの子供服もまだ余裕で着られる凹凸に乏しい体型へのコンプレックスは周りが考えている以上に根が深い。
口も悪いし騒々しい一面も持っている桃香だが、本に関しては別らしく進んで図書委員に立候補し、委員会の仕事を真面目にこなしている。貸出返却カウンターの中で静かに本を眺める桃香の姿はそれはそれは絵になっていて、隠し撮りされた写真が男子生徒だけでなく女子生徒の間でも飛ぶように売れたという噂もあるくらいだ。実際のところは桃香も彼女の親友達も把握していない。噂は噂でしかないと思っているのだろう。
その彼女は何故かびしょ濡れで、日も傾いた日向に制服を吊るし体育用のジャージ姿で濡れた髪を拭いていた。春になったとはいえ、初夏にはまだ程遠い五月初旬。水が滴るほどに濡れた姿の桃香は相当に寒々しかった。
「落ち着けよ、桃」
どうどう、と茶化す様になだめているのは長身の少年めいた艶を持つ桃園小梅。竹を割ったようなさっぱりとした性格と一七五センチの長身。中性的なしなやかな肢体を持った上に美少年めいた容貌とくれば女子校ならば学年を問わず絶大な支持を受けたのだろうが、いかんせん此処は共学。男子からは友情を感じられ、女子からはやっかみと憧れの入り混じった視線を感じる非常に微妙な状態に彼女はあった。もっとも、彼女自身はその状況を楽しんでいるようで、幼馴染との生活で培った男言葉と態度とを改める様子は見受けられない。
「桃香ちゃん、はい」
にっこり笑って温かいミルクティの缶を差し出したのは梅木桜。おっとりとして日本人形のように落ち着いた雰囲気を醸し出す典型的和風美少女である彼女は男子からは憧れの的、女子からは僻みの対象と非常に解り易いポジションにある。その所為でいじめにあったこともあり、桜の心的外傷は深い。今までの経験上素直に心を開けない女子は怖いし、その原因となる男子もまた桜にとっては恐怖の対象である。それゆえ孤立しがちだった彼女にとって桃香と小梅は初めての同性の友達だ。二人の存在があったからこそ、桜は勇気を出して演劇部の扉を叩き、今では部長を務めるまでになっている。二年生が部長になるのは一見不思議な事態だが、この学校では三年生は原則として部長にならないという伝統があるため部長はほとんどの場合二年生である。例外として部員に二年生がいない場合だけは三年生が部長になるが、それも数ヶ月だけのことですぐに下の学年の生徒を部長として選び直すことになる。
親友同士の女子三人は下校時も一緒にいることが多い。今日も演劇部のミーティングが終わった後、この教室で合流する約束をしていた。桃香がずぶ濡れで扉を開けた時には過去の自分を見ているかのようで悲鳴を上げそうになったけれども。
一見すると何の接点もなさそうな三人が仲良くなったのは入学式の事。同じ中学から入学した女子に桜が絡まれている所に偶然通りかかり見ていられなくなった桃香が盛大に啖呵を切り、そこへこれまた偶然遭遇した小梅が憤怒の形相の桃香と小さくなっていた桜を強引に人垣から引き摺り出してクラス編成を見に行ったのがきっかけだった。
『あんた達ウザイわ! いくらこの子みたいに顔が良くてもあんた達みたいに性格不細工だったらモテてるわけがないでしょうが。それがわからないくらいに頭の中身がおめでたいわけ? そんなこと言ってる暇があれば性格と顔に磨きをかける修行の旅に出れば良いんだわ! ていうか今すぐ旅立ちなさいよ、さあ!』
黙っていれば人形もかくや、という愛くるしい外見の桃香がほとんど一息に叩き付けたこの言葉の強烈なギャップは学内における生きた伝説となりつつある。同学年である二年生や先輩である三年生のみならず、まだ入って間もない一年生でもちらほらと噂を聞きかじる程度には有名な話だ。
「ありがと、桜」
「寒いでしょう? 大丈夫?」
「なんなら紅葉から上着借りても良いかもよ?」
「んあー? 呼んだか、小梅」
小梅の背後からした男子生徒の声。びくりと桜が肩を震わせ、桃香が幾度か瞬いたが、それにも慣れっこなのか小梅は至極普通に振り返り、にんまりと笑った。
「桃がさー、こんなだから紅葉の上着でも貸してやった方がいいかなって」
「うーわー……桜井、どした? 池にでも落ちたか?」
小梅に抱き付く様にじゃれながら桃香にそう問うたのは葵紅葉。生まれる前から小梅の家の隣に住んでいる正真正銘の幼馴染だ。応援団で団長として活躍する彼を小梅は待っていたわけである。先程の登場の仕方もそうだが、互いのことを小さい時から見知っている所為か二人とも相手の言動については大抵のことでは驚いたりしない。一見すれば恋人めいたスキンシップもただのじゃれあいであり、二人にとっては日常のことだ。非常に仲の良い二人なので付き合っているのでは、と噂になっているが当人達は否定も肯定もしないという傍から見れば大層微妙な関係である。
「…ちょっと中庭に呼び出されて行ってみたら、上から水かけられた」
最悪、と毒吐きながら桃香は嫌そうに顔を顰める。プルタブを引く手つきも何処か八つ当たり気味の力の入り具合で、ぺこん、と乾いた音が静かな教室に響いた。
「そりゃ災難……風邪とか引くなよ? 小梅にうつると俺が困る」
「わぁかってるわよ。誰か判ったらただじゃおかないんだから」
桜が手渡したミルクティを飲みながら桃香はぶつぶつと紅葉に返した。桃香の親友である小梅の幼馴染というポジションに居る紅葉にとって、桃香の容姿と内面のギャップはこの一年で随分と見慣れたものであり、極自然に受け流してしまえるものになっていた。
ふと、時計を見上げた小梅が軽く首を傾けて、不思議そうに口を開いた。普段の時間よりも時計の針が指していたのは随分と早い時間だった。
「あ、てか紅葉、もう部活終わり?」
「いんや。予算の申請、今日までだからちょっと提出しに出てきたとこ」
予算、と聞いて桜が何度か瞬いた。おずおずと口を開くと申し訳なさそうな細い声が問いかける。
「あの、紅葉君、予算の申請って今日までだったの?」
「おう。何、梅木が聞いてたのと違う?」
「来週が期限だって言ってたと思ったんだけど……いやだ、私、日付勘違いしてたのかしら。急いで清書しなきゃ」
慌てて鞄の中の書類を取りに席に戻る桜の背を見て紅葉は少し眉を顰めた。その横で小梅と桃香も嫌そうに表情を曇らせる。多分、きっと、水面下で今も密かに行われている桜への嫌がらせである。入学式での桃香の啖呵の御蔭か表立ってのあからさまな嫌がらせはなくなったものの、すぐには気付かれそうにない嫌がらせは続いていた。口には出さないが、桜の部長就任も自分達の負担を減らすと言う実益を兼ねた嫌がらせの一つではないかと彼女の周囲は思っている。彼女自身はくじで引いてしまっただけだと言っているのだが、真実は誰も知らないところだ。
「おい梅木」
「え? あ、はい」
「書き終わるまで待っとくから一緒に出しにいかねー?」
「あの、でも、それは悪いと思うんだけど」
「いいんだよ、桜。紅葉、絶対サボりたいだけだし」
駄目な団長だよねぇ、と溜め息混じりに小梅が言うと紅葉はへらりと緩い笑みを浮かべて見せた。
「まあ、ほっときゃ生徒会の方から来そうな気がしないでもないけど」
「無精者」
「使えるモンは使った方がよくね?」
「そりゃそうだけどさ」
既に準備を終えて書類を提出するだけになっている紅葉と小梅がだらだらと他愛もない話をしている間に桜が予算審議用の提出書類を清書し終えて、ほっと溜息を吐いたところに扉の開く音がした。あまりのタイミングの良さに反射的に全員が振り返る。
「えーっと、演劇部の梅木さんはまだ残ってる?」
「あ、はい。私です」
少し緊張した面持ちで桜が立ち上がると、女子生徒が一人、つかつかと近付いて来る。幾度か全校集会などで見かけたことのある顔だから彼女は生徒会の役員なのだろうと桜は推理した。てきぱきと仕事を片付けるであろうことがうかがえる動作と自信が透けて見える表情は桜が苦手とする雰囲気を作る一助となり、自分の表情が硬くなりつつあることに気付いて桜は大きく一つ息を吐いた。
「生徒会の柚木です。今日が予算審議の書類提出日なんだけど、出来てます?」
「はい。ここにあります」
ぎくしゃくとした硬い動作で桜が差し出した書類を受け取ると僅かに首を傾けてざっと目を通していく。記入漏れ等も見当たらなかったのか、一つ頷くと柚木と名乗った女子生徒は口許だけで笑った。
「確かに。できれば余裕を持って出して欲しかったんですけど、良いでしょう」
「あ、俺も出す出す。応援団でっす」
「葵君も、ぎりぎりに提出する癖、直した方が良いんじゃない?」
「別に間に合ってるから良いんじゃないの? 審議って来週からなんだろ?」
「早く集まれば早くから始められるの。屁理屈ばっかり言わないでよ」
その時、開きっぱなしだった入口から男子生徒が紅葉の隣に歩いてきた。
「紅葉、そろそろ下校時刻だ。部活、解散させに行かなくて良いのか?」
「うっそ、マジで? 俺まだ着替えてねぇって」
それと、と視線を巡らせる。ほんの一瞬だけ桜と視線が合ったようだった。
「柚木で最後のはずだから早く荷物取りに戻れ。会長が待ってる」
「椛野は?」
「俺はもう持って来てるし」
「一緒に持ってきてくれても良かったのに。じゃ、私はこれで」
軽く肩を竦めた女子生徒がひらひらと手を振って扉の向こうに消えると小梅が紅葉の肩を叩いてにやりと人の悪そうな笑みを浮かべた。
「あーもう、さっさと着替えて来いよ。あたし、待つのヤだぞ?」
「悪い。すぐ着替えて来る」
「さっさとしろよ。あと五分しか待たねぇからな」
小梅の脅しは常に半ば本気だ。紅葉とて容赦なく置き去りにされるのは勘弁願いたいところ。それに、窓の外はもう夕暮れ時。冬ではないし少しずつ太陽が顔を覗かせている時間が長くなっているとはいえさほど明るくはない。慌ただしく駆け去った紅葉の背を見送り、その場にいた全員が荷物を纏めながら帰り支度を始めた。
「桃香ちゃん、制服、乾いた? 乾いてなかったらジャージで帰らなきゃだね」
「嫌なこと思い出させないでよー……多分乾いてないから、このままね」
窓辺の小さな制服は案の定しっとりと冷たく、重い。溜息を吐きながら桃香は制服を畳んでジャージが入っていた袋に仕舞った。家に帰ったらアイロンかけなくちゃ、と呟くと桜がそうねと小さく笑う。
「やだ、もう結構暗いのね」
「桃園は紅葉と帰るから良いとして、桜井さんと梅木さんは一人?」
「桃香はバスだし途中まであたし達と一緒。桜は電車だから一人だな」
何やら思案気に椛野と呼ばれていた男子生徒がゆるく首を傾けた。
「椛野って電車じゃなかったか? ついでだし桜送って帰れば?」
「そうだね。梅木さん、何線?」
「い、いいよ、そんな……一人でも大丈夫だし」
「女の子一人で帰すのって副会長としても不安だろ? それじゃなくても桜可愛いし、役得だって」
「小梅ちゃん!」
けらけらと他人事のように笑う小梅にそんなんじゃない、と言い返しながら彼は笑う。小梅の制服の袖を縋るように握っていた桜は、その笑顔からなんとなく目が離せなかった。人見知りが激しく内向的な桜にしては大変珍しい事だったが、それに気付いた者は居なかった。
「ジャスト五分! どうよ!」
そこへ、ばたばたと慌しい足音を立てながら紅葉が戻ってきた。その後ろには何故か息を切らした男子生徒が一人。
「せ、せんぱ……全力、とか、俺、聞いてねーんすけど」
「細かいことは気にすんな。男だろ」
「……何、ですかそれ」
息も絶え絶え、といった風情で話す男子生徒とは対照的に紅葉には余裕が窺えた。全力疾走で校舎を駆け抜けたとは思えないが、先程響いた足音はそうではないことを物語っている。
「おー、早かったじゃん。で、そのちっちゃいの、誰?」
「あ、これ? 応援団の一年で、柊木っての。なんか思いつめた顔して桜井に用があるとかなんとか言ってたから連れてきた」
「え、ちょ、先輩! なんつーこと言うんですか!」
「なんだよ、本当のことだろ。とりあえず、とっとと名乗れ」
「あ、えと、柊木葵、一年です」
先輩からの爆弾発言に頬を真っ赤に染め、ぺこり、と頭を下げた未だ線の細い少年が桃香の姿を見た途端、さらに深く頭を下げた。
「あ、あの、桜井先輩、今日はホント、すみませんでした!」
突然謝られた桃香はきょとんと一つ瞬いた。何処かで聞いたような名前で何処かで見たような顔ではあるが、その彼から謝られるような心当たりはない。訝しげに首を傾げる桃香がおとなしかったのは頭を下げたままの姿勢の柊木が言葉を発するまでだった。
「その制服、多分俺の所為なんです!」
途端、桃香の眦がきり、と吊り上った。桃香の背後で桜がおろおろと口許に手をやり、小梅と紅葉は面白そうに口許を歪ませる。桜の傍に居た椛野がちらりと壁の時計に目をやった。下校時刻まで、あと少し。
「……どういう、ことかしら?」
「俺の幼馴染が、何か、その、俺と桜井先輩が付き合ってるとか勘違いして、それで」
「はぁ?」
「あいつ、思い込み強くて、そんなんじゃないって何度言っても聞いてくんないし……しかも先輩が俺をたぶらかして遊んでるとか言い出して」
「……ちょっと待って。それって、アレ? 私、電波な妄想の被害者なの?」
眉間に皺を寄せ、こめかみに指を押し当てた桃香は地の底を這うような声音で呟く。柊木はますます恐縮したような様子で頭を下げた。
「本当にすいませんでしたっ!」
「別に君に謝ってもらわなくても良いんだけど……っくしゅん」
厭味っぽく答えた直後、くしゃみを一つ。桜が慌てて桃香の腕を取ると椛野が手を叩いて自分の方に注意を向けた。
「下校時刻になった。続きは帰りながらやればいいだろ?」
「柊木も帰りの方向一緒だし、桜井、送ってもらえば良いんじゃね?」
「じゃあ、そういうことで、梅木さん」
ふいに話を振られて桜がびくんと肩を竦めた。今度は桃香のジャージの袖を握りしめた桜に、そんなに警戒しないでも、と呟きながら椛野が小さく笑う。
「何線か聞きそびれてたから、教えてくれるかな?」
「ひ、一人で大丈夫だから……あの、えっと……」
「途中まででも帰る方向が同じだってわかってる女の子を一人で帰すほど無責任じゃないよ、俺は」
全員の帰りを促しながら桜に話しかける椛野に他意はないように思える。それでも桜は一人で帰りたいと強く思っていた。ほとんど知らない相手と二人だなんて、自分には荷が重すぎる気がする。そもそも二人で帰ったところで会話もろくに出来やしないのだ。自分とのつまらない帰路は相手に気の毒過ぎるに違いない。
そんな桜の心情を解っているのかいないのか、椛野は足取りの重い桜を待つように数歩先で立ち止まった。一度送ると言った以上きちんと桜を送ろうと決めているらしい。そんな二人を同学年の三人は面白そうに眺めていた。
これが、接点のなさそうな六人が面識を持つきっかけとなった出来事。桃香はこの日のことを心の中で『春の嵐が起こった日』と呼んでいる。