05/07 待てよソフトクリーム
燃え上がる太陽の下、一人きり。広大で漠然とした荒野に、一人きり。
男は歩き続ける。流れ出る汗は瞬く間に気体へ変じ、吐く息さえ焼け付く。しかしそれでも、男は正面を見据え、歩き続けるしかなかった。
世界を股に掛けるビジネスマンだった。妻も無ければ子も居ない。夜を共する女性なら数え切れないが、恋愛事には興味も抱かず、ひたすら仕事に打ち込み続けて十数年。資本主義を支える独身勝ち組、それに対する仕打ちが、これだ。
今頃はマルセイユから出るヨットで海の上、美女を肴にワインを楽しんでいるはずだったのに。それを思うと酷く気分が落ち込むが、だからこそ生きて帰れば英雄だとも思え、唾が出る。
彼の乗る軽飛行機が墜落したのは、ほんの数時間前の事だ。乱気流に揉まれている最中、エンジンが突然停止し、そのまま落下。今はどこそこの上空、等に男は関心が無かったものだから、ここがどの辺りか全く見当も付かない。アメリカ国内では、あるだろう、か。
遭難事故が発生した場合、その場から動かない方が良い、とテレビのショー番組で言っていた。しかしそれは救難信号が発信出来た前提だ。墜落する間際、パイロットが何度も無線に呼び掛けるのを男は聞いていた。恐らく雷に打たれるかして、無線が故障したのだ。全く、お粗末な事だ。
もう良いんだ、細かい事は。それより生き残る事が大事だ。だいたい、墜落した飛行機付近に居たとしても、壁一枚隔ててパイロットの死体があると思うと気が滅入るし、水も食糧も少なく、救助を待っているだけで発狂していただろう。東に真っ直ぐ進んでいて、道程には足跡がくっきり残っている。救助隊もきっと気付いてくれる事だろう。
しかし。しかし、だ。
一体、この砂漠に終わりというものはあるのだろうか。もうずっと、もうずっとずっと歩いているのに、見渡す限り三百六十度全て地平線だ。海風の臭いもしない、それどころか風すら無い。自分がカトリックなのかプロテスタントなのかも忘れるくらい、神と距離を置いて久しい男だったが、地獄というのはこういう場所なのだろうな、と思う程絶望的な眺めだった。
何気なく、ペットボトルのミネラルウォーターに口を付けるが、口を湿らせる水分はやって来ない。ぐいと仰いでも来ない。無い物は無い。男は叫び投げ捨て喚き嘆いた。
死んでしまう!
男は死に物狂いで走った。走って走って、力尽きた。そして泣き崩れた。流れ出る涙が勿体ないと、顔に擦り付け濡れた手を舐める事に、また泣いた。
思えば寂しい人生だった。子供の頃から成績優秀、良い高校、良い大学に通い、卒業後は大企業に就職、忙しくもトントン拍子に出世して、手元にあるのは金だけ。それに対し疑問を呈した事は今の今まで全く無かった。けれど、振り返ってみれば空っぽだ。
きっと幸福というものを、幼い頃のどこかに置いて来てしまったのだろう。男はそう考えた。
その所為なのだろうか。幻が見える。
それは子供らしい、馬鹿げたものだ。
巨大なソフトクリーム。公園の屋台で売ってる様な、高校の学園祭で冗談で売られる様な冗談で買う様な、白く渦巻き状のそれが、燃える空気に揺らめいている。
男は笑った。腹を抱えて笑った。砂漠にぽつんとソフトクリームなんて、これほど滑稽な絵面は無い。なんでソフトクリームなんだよ、と男は頭の中で大笑いした。
なんで、ソフトクリームなんだよ。
今欲しいのは単に水だ。出来ればキンキンに冷えたビール。なのにどうしてアイスクリームなどという子供のお菓子が、目の前に現れるのか。
確かに、確かにソフトクリームで喜んでいた頃は、幸せだった。毎日が充実していた。本当に下らない事で笑って、些細な事に驚いて、誰もが尻目に見過ごす出来事が輝いていた。
ああ、畜生、食いてェ。
男は立ち上がる。そして、走り出した。ソフトクリームに向かって。
幻だろうと何だろうと、あの、幼い頃の夢が目の前にある。男は走った。
段々と、近付いてくる。ソフトクリームは男の背丈よりも大きく、そびえ立っている。男はネクタイを振り解き、袖を引き千切り、余す体力を全て使った。
いよいよ辿り付くという時、突然、ソフトクリームがやや持ち上がり、逃げ出した。
「おい、ちょっと待て!」
何でソフトクリームが逃げ出すのかという不思議はさておいて、男は追い掛けた。
ソフトクリームはもの凄い速度で逃げる。男はそれを追う。
追いついて、男は飛び付いた。がっしりと両手両足でしがみついた。いや何かがおかしい。ソフトクリームにしがみつける訳が無い。どうにも、そのソフトクリームは固かった。
何だコリャ、と男が思っている内に、ソフトクリームはどんどん走る。熱い空気を切って砂漠を横切っていく。砂埃を上げ、どこまでいくつもりなのか、どんどん東へ東へ突き進む。
「畜生、何なんだよ、畜生! 待てよソフトクリーム、この野郎!!」
男がソフトクリームを殴り付けると、急停止した。その反動で男はぽんと投げ出され、熱い砂の上に落ちた。
一体何なんだ、と顔を上げると、そこにあったのは、大きな二つの鋏と、大きな目玉だ。わあ、っと男は叫んで後ずさる。そう、男がソフトクリームだと思っていたものは、大きな貝殻、大きなヤドカリだったのだ。
ヤドカリは男を何やらけったいそうに見下ろしていたが、ぷいとそっぽを向いて、またカサカサと歩き出す。男は鼓動を押さえ付けながら、ヤドカリが去り行くのを見送った。
と、ヤドカリが向かう先に、男は見たのだ。それは青く澄み渡る空を写す、穏やかな水面だった。
わっと男は走りだす。ヤドカリを追い越し、水の中に飛び込んだ。水を飲み頭を洗い体を洗い、初めて、生きている事を実感した。
頭上をバタバタとヘリコプターのローター音がする。男は歓喜の雄叫びを上げた。
しかし男はどこか満ち足りなかった。
救助隊のヘリに収容された時、男は言った。
「ソフトクリームが食べたい!」
一日一話・第七日。
二日続けてコメディーになってしまいまった。のんびり書いていたら時間が無くなって後半駆け足になってしまいまった。面目ない。
「アイスクリーム(*´ω`*)!」のお題をくれたねこたさんに感謝を。