星奈の話
藤代星奈は二十二歳、九州のある県に勤務する地方公務員だ。県下の公立高校を卒業し、東京の大学に進学した。
そうなると多くの人はそのまま東京で就職するが、なぜか彼女は生まれ育った九州に戻ってきた。
多くの大学の友人たちが目標とする企業は、ほぼ東京に本社を置いていた。
星奈もいくつかの企業を対象に就活をしたのだが、結局最後には九州に戻ることにした。
理由を聞かれると、案外うまく説明できない。
「男に振られたの」
高校時代からの親友、佐々みさきに聞かれたことがある。ほっとけといったから彼女がどう思ったかはわからない。
みさきは妙に納得した顔をしていた。そんな顔をされると、訂正するのも面倒になる。そもそも、恋愛に失敗したから帰郷したわけではない。
実際は振られる男もできなかったのだ、でもそれは内緒。
「いなかった」と正直に言うより「振られた」のほうが、まだ少しは恋愛経験がありそうに聞こえる。そんな見栄を張ったことまで、みさきにはお見通しだったかもしれない。
県庁に入ってまだ半年。名刺を差し出すときには、今でもほんの少し緊張する。大学を卒業したばかりの自分が、毎日決まった席に座っているのは、時々不思議だった。
それでも仕事は不思議なことに楽しかった。
初めは書類の山に圧倒された。判子を押す位置ひとつにも決まりがあって、役所というのはなかなか奥が深い。帰宅後、ミーに今日の失敗を報告するのが日課になりつつあった。
帰ってきてよかったと思っている、都会は悪いところじゃないけれど、住むところも高ければ、通勤もしんどそう。
地元ぐらいが自分の身の丈に合っている、そう思ったことが戻ってきた理由だ。
東京の便利さは好きだった。けれど、駅の人波に押されて帰る夜より、少し静かな道を自分の歩幅で帰る方が、星奈には性に合っていた。
根っからの田舎育ちなのかもしれないと思う。
実家から県庁までは、車で二時間弱という時間がかかる。鉄道は駅までの交通手段を考えると、問題外だ。何せ星奈の実家がある市には鉄道が走っていない。バスか車で駅に行き、そこから電車で通勤、それだけで一仕事だ。
ということで、せめて電車で通勤できる場所で、アパートを探そうとした。
そんな話を聞きつけた親戚が一軒家を貸してくれた、庭付きの3LDK、掃除に困る広さだ。
最初に見に来たとき、星奈は玄関先で思わず「広っ」と声を上げた。一人暮らしには贅沢すぎる。けれど家賃を聞いた途端、広さに対する不満はきれいに消えた。現金なものだ。
親類からは、空き家のままにしておくより誰かに住んでもらった方がいい、と言われた。家賃は固定資産税の分だけ、ほぼただだった。それもそのはず、壊すにも費用が掛かるということでお互いに利点があった。
古いところは少しずつ直せばいい。小さな庭もついている。家賃のことを考えれば、渡りに船だった。
自分好みの家を作る、それは星奈にとって、昔からのあこがれでもあった。
楽しいことはもう一つあった。猫を飼うことになったのだ。
猫はいつの間にか庭に現れ、いつの間にか家の中にいるようになった。三毛猫で、勝手気ままなくせに、星奈が帰るころにはちゃんと顔を見せる。
初めは縁側からこちらを見ていただけだった。次は玄関まで来て、その次には当然の顔で座布団を占領していた。家の主がどちらなのか、いまでは少々怪しい。
朝起きて県庁に出勤し、書類と格闘。帰ってきて、風呂に入って、ビールを飲みながら食事をして、ミーと名前を付けた猫と遊ぶ。
ちなみにこの猫の名前は、友人のみさきが昔飼っていた猫からもらったものだ。
古い家らしく畳の部屋もあるが、星奈はフローリングの一室にクッションを置いて、そこを主な居場所にしていた。ミーはその膝を自分の席だと思っているらしい。ビールの缶を開ける音にも、もう驚かない。
「そこ、私の場所なんだけどなあ」そう言いながら、星奈は結局クッションの端に座る。ミーは一ミリも動かない。猫との交渉において、星奈の勝率は限りなくゼロに近かった。
平凡な日常が彼女にはあっていた。
そんな暮らしに変化が現れたのは、就職して半年ほどが過ぎたある秋の金曜日のことだった。星奈は帰り道、ふらっと居酒屋に入った。
それが、生活を変えるきっかけになるとは、彼女はその時、知る由もなかった。
その日も特別な予定があったわけではない。週末だし、何かおいしいものを食べて帰ろう。そう思っただけだった。
金曜日の夕方には、誰だって少しぐらい自分を甘やかす権利がある。今日は洗い物もしなくていい。帰ったらミーにご飯を出して、あとはごろごろする。それだけで十分に幸せな週末の始まりだった。
以前から見かけていた店だが、入るきっかけがなかった。
彼女はお酒が好きだ。東京時代はもとより、こっちに戻ってきてからも、ちょくちょく飲みには出かけていた。
寿司屋にバーに、焼き鳥、課のみんなや、みさきたちということもあった。
ひとりで飲むのも嫌いではない。料理をつまみながら、隣の席の会話を聞くともなく聞いている時間が、案外楽しい。
この居酒屋は、いい雰囲気だと思っていたが、なぜかつい入りそびれていたままだったのだ。
ということで、その日はやっと暖簾をくぐることができた。
あとから思えば呼ばれていたのかもしれない、って誰に?
そんなことを考えるのは、ずっと後の話だ。呼んだのはもちろん運命の女神に決まっている。
もっとも、そのときの星奈にそんな大げさな自覚はなかった。暖簾の向こうから、料理のいい匂いがした。それで十分だった。
焼き魚の香ばしさに、出汁の匂い。星奈のお腹は、運命の女神よりずっと正直だった。
ぐう、と鳴りそうになるのをこらえ、少しだけ背筋を伸ばして店に入った。
十席ぐらいのカウンター、と小上がり。カウンターにはお酒が並んでいるというよくあるレイアウトは、可もなく不可もない。
まだ夕方の六時前だというのに、すでにカウンターにも小上がりにも客がいた。
仕事帰りの客らしい人たちが、すでに思い思いの話をしている。グラスの触れる小さな音が聞こえた。騒がしすぎず、静かすぎもしない。
「らっしゃいませ」
カウンターの奥から声がかかる、板前さんが刺身を盛り付けている。
その声は思ったより明るく、入り口で立ち止まっていた星奈の背中を押してくれた。
四十過ぎぐらいの髪を短くした小粋な板前さん、いい雰囲気だ。
きびきびとした手つきで皿を扱っている。初めての店で少し緊張していた星奈は、その落ち着いた様子に安心した。
「おひとりですか」
板前さんと同い年くらいの女性が声をかけてきた、多分おかみさん、というか板前さんの奥さん、と星奈は思った。
「カウンターでいいですか」
星奈は「はい」と答え端の椅子を引いた。
端なら邪魔にならないし、ひとりでも気楽だ。そう考えたところへ、思いがけず声が飛んできた。
「そんな隅じゃなくて、こっち来ませんか」
突然すぎて、自分が呼ばれたとは思わなかったぐらいだ。
カウンターの真ん中あたりで、星奈より二つ三つ年上に見える男性が手を振っている。
イケメンとは言えないが、気取らない笑顔がいい。
悪い人には見えない。もっとも、初対面の男を顔だけで判断するほど星奈も子供ではない。それでも、こちらを見てにこにこしている顔につられて、つい口元が緩んでしまう。
「悠馬君、もうお嬢さんがびっくりしてるじゃない」
おかみさんが、すかさずたしなめた。
叱り方に遠慮がない。常連さんなんだろうと星奈は納得した。
「ごめんなさい、いい人なんだけど調子がよくて」
おかみさんの言葉に星奈はつい笑ってしまった。
おかみさんの言葉から、彼は安全な人だという印象を受けた。
初対面の相手に声をかけられるのは、普段なら少し警戒する。けれど、この店では大将もおかみさんも彼をよく知っているらしい。それなら、まあ大丈夫かな。
「それじゃ、お誘いを受けたので、でも誰かに叱られません?」
星奈は彼の横に腰を掛けた。
知らない店で知らない人の隣に座る。ちょっとした冒険のようで、星奈はおかしくなった。
これで変な勧誘でも始まったらどうしよう。そんな考えも一瞬よぎったが、隣の男はただ嬉しそうに椅子を引いてくれた。おまけに大将が、面白いものを見るような顔をしている。
「あ、それは大丈夫、こいつがモテるわけないから」
板前さんが、星奈を見て微笑んだ。
大将の言い方も、おかみさん同様には容赦がないが、目は笑っていた。
「ひどいなあ、大将、俺だって」
「って誰もつれてきたことないよね」
おかみさんの言葉に、周囲の客たちもつい笑い声をあげた。
悠馬も言い返そうとして、結局笑ってしまった。
いい雰囲気だと思った、これならお酒もおいしそうだ。
誰かをからかっても、嫌な感じがしない。常連同士の気安さに、初めて来た星奈まで混ぜてもらった気がした。
初めての店なのに、もう何度も来ているような気がする。居心地のいい場所というのは、案外こういうものなのかもしれない。もちろん、お刺身がおいしければなおよしだ。
「えーっと、まずは生ビールとそれから、んーと、お刺身を」
「はいよ、生ビール一丁」
「あ、なら俺ももう一度生ビール」
すでに酎ハイを飲んでいたくせに、若者が言った。
調子のいい人、と星奈は思ったが、本人はまるで気にしていない。こういう人は、どこでも友達を作れるのだろう。
「じゃ、初めまして、に、乾杯」
若者につられて、星奈もジョッキを持ち上げた。
冷えたジョッキが手のひらに気持ちいい。
ひと口飲むと、仕事終わりの疲れがすうっとほどけた。「ああ、おいしい」思わず声が出る。隣で悠馬が笑った。しまった、ちょっとおじさんくさかったかもしれない。
「俺、高橋悠馬、で、もしかして県庁にお勤めじゃないですか」
「あ、はい、どうして」
ストーカーか、と思いかけて初めて会うのに、それもないだろうと星奈は内心苦笑した。
県庁で見かけたと言われても、星奈には覚えがない。
「会議で県庁に伺ったときに見かけた気がして」
「会議?」
「はい防災会議」
「こいつこれでも大学の職員なんですよ」
大将は手を休めずに、いかにも当然という顔で付け加えた。
「これでも、はないと思うけど」
悠馬が口を尖らせたが、大将は知らんふりだ。
「はい、この春から県庁で勤務してます、藤代星奈って言います」
「やっぱり、美人はすぐ覚えるんだ、星奈さんか、素敵な名前ですね、あなたにぴったりだ」
そんな台詞をさらっと言える人が世の中にいるんだ。星奈は半ば感心した。けれど、言われた本人はどう返していいかわからない。褒め言葉というものは、受け取る練習が必要らしい。
「その厚かましさなのにどうしてモテないのか、不思議だな」
大将のセリフに、周りの客がくすくす笑う。どうやらこの二人のやり取りは、どうやら店の名物らしい。
「はいお待ち」
カウンターに刺身が置かれた、軽口を言いながらも大将の手は動いている。
マグロに、ハマチに、アジ、きれいに盛り付けられたそれは品のいい皿と合わせておいしそうだ。
切り身の角がきれいに立っている。星奈は思わず目を見張った。こういう皿が出てくるなら、この店に入って正解だった。
一切れ口に運ぶと、思わず目を細めた。ほどよい脂が舌に広がる。これは当たりだ。星奈の頭の中では、悠馬の印象と刺身の評価が、なぜか同じ勢いで上昇していた。
「うーん、これだとやっぱり日本酒ですよね、あ、西の関があるんですね、それを」
「はいよ、燗にしますか」
「いえ、冷で」
「有名なお酒なの?」
「地元のお酒なんです」
悠馬に聞かれ星奈はつい答えてしまった。
地元の酒の名前を聞くと、つい嬉しくなる。
帰ってきてから、そういう小さなことに気づくようになった。
「そうなんだ、ってごめん、わかんないや、俺ここにきてまだ三年目で、あまりわかってないんだ」
「あ、やっぱり、大学の友達に関西の人がいたから」
「大学、男の人?」
「いえっ、て踏み込みすぎじゃないですか、初対面なのに」
「ごめん、ごめん、でも気になるやん、星奈ちゃん美人なんやから」
「美人なんて初めていわれた」
と言ってみたけれど、本当はちょっとばかりうれしい。
褒められ慣れていないだけで、褒められるのが嫌いなわけではない。むしろ、もう一度言ってくれてもいい。そう思った自分に気づいて、星奈は慌てて盃を口に運んだ。
「え、なんで、ね、大将、美人だよね、星奈ちゃん」
大将は苦笑している、えーっと、それはどういう笑いなんだろう、気になるけどまあいいか。
そんなこんなで、結局、悠馬という男性のペースに乗せられてしまった。
料理はおいしいし、話も尽きない。悠馬はよくしゃべったが、星奈が何か言えばちゃんと聞いた。そこが、少し意外だった。
仕事の話をすると、悠馬は相槌を打ちながら時々真面目な顔になった。ふざけているだけの人ではないらしい。その発見が少し嬉しくて、星奈は自分でも驚くほどよく話した。
「またここで逢えたらいいですね、なんて悠長なことを俺は言わへんよ、ほい、これ、俺のメルアド、よかったら返信してきて」
「あはは、いいも悪いも、私のメルアド教えちゃう、今」
ちょっと酔ってたのかも、簡単にアドレスを教えてしまった。
普段なら、連絡先を渡す前にもう一度くらい考える。ところが今夜は、考えるより先に指が動いていた。お酒のせいにしておこう。そう決めたが、胸が弾む理由までは説明できなかった。
帰り道、夜風に当たりながら星奈はひとりで笑ってしまった。
初めて入った店で、初めて会った人に連絡先を教えるなんて。普段の自分なら、もう少し慎重なはずなのに。
それぐらい悠馬は、自然に星奈の心に入り込んでいた。
帰宅してミーに「ちょっといい人に会った」と話しかけたら、猫はあくびをひとつしただけだった。そりゃそうだ。まだ、いい人かどうかだって、わからないのだから。
「ね、ミーどう思う、もう一週間もたつのに、全く連絡来ないんだよ」
次の日ぐらいにメールぐらい来るかと思ったけれど、待てど暮らせど、なしのつぶてだった。
最初の二日は、仕事の合間に何度か画面を見た。三日目には、そんな自分がおかしくなった。四日目からは、見ないようにしようと思うのに、やっぱり気になった。
通知音が鳴るたび、つい画面に手が伸びる。課内の連絡、通販の案内、天気予報。どれも大事だが、いま待っているのはそれじゃない。自分の単純さが少し情けなかった。
こっちからメールしようかと、件名までは打ち込んだ。
でもそこで星奈の手が止まった。それが相手の手かもしれない、こっちから動くのは不安だし悔しかったし、焦っているみたいに思われそうで躊躇してしまったのだ。
そう、星奈は恋愛に慣れていなかった。
送信画面を開いては閉じる。そんなことを何度か繰り返した。
ま、からかわれただけかもしれない、何か寂しかった。
ミーは返事の代わりに大きく伸びをした。猫にはメールも恋愛も関係ない。そう思うと、少し羨ましい。
「ミーだったら、好きな相手には自分から行く?」
猫は尻尾を一度だけ動かした。答えは不明。でも、少なくともミーは、欲しいおやつがあれば遠慮などしない。見習うべきかもしれない。
東京でも、彼ができかけたことはあるが、なぜか深い関係になる前に終わってしまう。友人が言うには隙がなさすぎるらしい。
飲みに行っても男のほうが先につぶれてしまい、それ以上進む気も失せるらしい。
馬鹿なといいたい、酒の強さだけが原因とは思いたくない。気の合う人に出会わなかっただけ、ということにしている。少なくとも、星奈自身はそう思っていた。
とにかく、星奈に彼ができたことはなかった。
好きになるのは、もっと大変なことだと思っていた。なのに、ほんの数時間話しただけの人を、こんなに気にしている。恋愛というのは、どうにも理屈が通じないらしい。
次の金曜日、星奈は例の居酒屋「海」に行くことにした。お酒も料理もおいしかった、と、自分に言い訳をした。
でも自分は騙せないことも彼女は知っていた。もしかしたら会えるかもしれない、それが本音だと。
出かける前に鏡を見て、くるっと一周回った、お気に入りのシャツとミニのスカート。
もしかして会えたら、と、自分で自分が一番かわいく見えると思った服を選んだ。
鏡の中の自分に向かって「別に、会いに行くわけじゃないし」と言ってみた。誰も聞いていないのに、ひどく言い訳がましい。ミーだけが足元からじっと見上げていた。
「らっしゃ、お、星奈さん」
大将の声に、カウンターの真ん中で男性が、はじかれるように立ち上がった。
その勢いに、星奈は入り口で足を止めた。
「悠馬さん……」
会えたのはうれしいはずなのに、一瞬の躊躇があった、振られたんだったら会いたくはない、そんな気持ちが沸き起こったのだ。
そんな気持ちをおかみさんの一言が吹き飛ばした。
「よかったね、悠馬君」
おかみさんが言うと、悠馬が大きくかぶりを振った。
「やっと、来てくれた」
悠馬らしくもなく絞り出すように言った。
いつもの軽口はどこへ行ったのだろう。目の前の悠馬は、まるで試験の結果発表を待つ学生みたいだった。その顔を見ただけで、星奈の胸のつかえが少し軽くなった。
「悠馬君スマホを水没させたんだって」
水没、ということは、星奈は一瞬で状況を理解した。
「メールをくれなかったのは、アドレスが消えたから? 私振られたわけじゃなかったの?」
「そんなわけないやん、メール待ってたけど、来ないから降られたのは俺のほうやと思っていた」
「県庁に来ればよかったじゃない、いるのわかってるんだから」
「俺はシャイなんや、振られたかもしれへんのに行けるかいな」
「毎日ここに来てたんだよ、あなたが来るかと思って」
おかみさんの言葉に悠馬は慌てた、耳が赤くなっている。
待っていたのは自分だけではなかった。そのことが、胸の奥にじんわり広がった。悠馬の耳が赤いのを見て、星奈まで顔が熱くなる。
会いたかったのは、自分だけじゃなかった。たったそれだけのことなのに、店の明かりまで少し明るく見える。星奈は笑おうとして、うまく笑えず、結局うつむいてしまった。
「ごめん、私がメールすればよかった、でも……」
星奈は頭の中で、この一週間を巻き戻した。何度も画面を見たことも、ミーに愚痴を言ったことも。全部、ひとりで勝手に悩んでいたらしい。
「じゃ、俺振られたわけじゃ、よかったあ」
「私も同じこと考えて落ち込んでた」
星奈はそれが告白の言葉だとは気づいていない。
「はい、生ビール、おめでとうの気持ち、店のおごり」
ジョッキをカチンと当てた二人に笑顔が戻った。
「二人とも、ややこしいねえ」とおかみさんが笑う。反論しようとした星奈だったが、できなかった。たしかに、メール一本で済む話を一週間もこじらせたのだから。
「うーん、おいしい、やっぱり最高」
「酔う前に、ハイ、スマホ出して」
星奈は、悠馬宛てにメールを送信した。
今度はちゃんと届いた。悠馬の画面が光り、彼が嬉しそうにこちらを見る。たった一通のメールが、こんなに頼もしいものだとは知らなかった。
「ね、キスされちゃった、どうしよう」
帰宅してからも、星奈は妙に落ち着かなかった。クッションに座り、ミーを膝に抱いて、さっきから同じ話を繰り返している。
ミーがあほかという顔をしたような気がした。
「ねえ、聞いてる?」ミーの耳がぴくりと動く。「聞いてるなら、なんとか言ってよ」返ってきたのは、眠そうなあくびだけ。猫の恋愛相談室は、本日も営業する気がないらしい。
「で、来週泊りでドライブしようって言われた」
うんと言いかけて、思いとどまった。
楽しかったし、嫌なわけではない。でも、知り合ったばかりの相手と泊まりがけというのは、やはり早い気がした。
「ミーがいるからって取りあえず断った」
まだ、何もわかっていないような気がしたのだ。
そう言った自分の声が、少しだけ小さくなった。
「なら、家に来たいって」
ミーが顔を見た、ような気がした。
「家に来るんだって。うちに」声に出した途端、急に現実味が増した。星奈は部屋を見回す。脱ぎっぱなしの上着、読みかけの雑誌に、 猫のおもちゃ。これは、ちょっとまずい。
星奈はミーの額を指で撫でた。家に人を招くなら掃除をしなければ。そう考えた途端、気になるところがいくつも浮かんできた。
次の土曜日、朝から星奈は起きて部屋を掃除した、今日から何が始まるのか、期待と少しの不安があった。
床に散らばった雑誌を片づけ、クッションの位置を直し、庭に面した窓を開けた。ミーは掃除の邪魔をするでもなく、忙しそうな飼い主を眺めている。星奈は雑巾を握ったまま、ふっと笑った。さて、どんな一日になるのだろう。
掃除機をかければミーが逃げ、雑巾を持てばミーがついてくる。いっそ猫の手も借りたいところだが、当の猫は手伝うどころか、片づけたばかりのクッションに丸くなっていた。
「あ、」
星奈は突然ミーが振り返るほどの声を出した。
「ちょっと買い物行ってくるね」
スェットの上下にアポロキャップを被った星奈は、自転車を引っ張り出すと一目散に駆け出した。
近くのドラッグストアが目的地だった。
多分そこに売っているはず、しかし生まれて初めてのことでどこにあるかがわからない。
かといって、モノがモノだけに店員に聞くのも恥ずかしい。
棚の前を通るたびに、わざと関係のない商品を眺める。歯磨き粉、洗剤、入浴剤。どれも必要ではある。けれど今日の目的はそこではない。二十二歳の星奈は、妙なところで度胸がなかった。
店内をぐるぐる回ること二周、やっと棚に並んでいる目的の箱を見つけた、星奈は何事もないように箱を取ろうとして、誰かにぶつかった。
「あ、すいません」
「え、」
「あ、」
ぶつかった相手はなんと悠馬だったのだ。
「……」
自分が何を買おうとしていたかが知られたこと、それと部屋着そのままのスウェット、これ以上ないほど最悪の展開だった。
よりによって、どうして今日なの。昨日ならもう少しまともな服だったのに。
いや、昨日ここへ来る理由はなかった。頭の中で言い訳が渋滞して、口からは何も出てこない。
「そとでまってて」
パッと箱をとり上げた彼も赤い顔をしている。
悠馬が出てくる前に、逃げちゃおうかという考えが頭をよぎったが、さすがにそれは思いとどまった。
「このまま、家に来る?」
見れば悠馬もパーカーとジーンズ、たぶん彼も部屋着だ。
例のものがないことに気づき、慌てて買いに来たに違いない。
「いいの? あ、だめだ、シャワー浴びたり」
「いいよ、もう。うちで浴びればいいじゃない」
悠馬が驚いた顔をした。
言ってから星奈も驚いた。あれ、私、いま何を言った? 悠馬が真っ赤になったので、つられて自分まで熱くなる。さっきまでの買い物より、よほど心臓に悪い。
コンドームを買おうとしていたことがばれたのだ。星奈はもう格好をつける意味がないような気がしていた。
「うん、でもお土産も」
「ミーに? いいよ、一緒に買い物してかえろ」
「ミーただいま」
飛び出してきたミーが悠馬を見て立ち止まった。品定めをするように、上から下まで視線を走らせた、ように星奈には思えた。
「この人、悠馬さん」紹介してみたが、ミーは悠馬の顔をじっと見ている。普段は誰にでも愛想がいいわけではない。星奈はなぜか、自分が面接を受けているような気分になった。
「ほら、はやく」
星奈は悠馬の脇を肘でつついた。
「あ、ミーちゃん、これ、お近づきの印、これからよろしく」
悠馬は『チュール』をとりだした、買っていこうと星奈にいわれたものだ。
ミーは「そんなもので俺の気を引こうとは」という表情をしたが、すぐに「みゃぁ」と甘えた声を出した。
つまるところ飼い主と同じで、食いものにはつられやすいということらしい、簡単に雄馬になついてしまった。
「ちょっと、ミー。そんなに簡単でいいの?」星奈が抗議すると、ミーは知らん顔でおやつに夢中だった。悠馬が声を殺して笑う。そんな二人を見て、星奈もとうとう笑ってしまった。いつもの部屋に、いつもと違う笑い声が増えた。
「ごめんね、ちょっとだけミーは隣の部屋にいてくれる」
悠馬がシャワーを浴びている間に、ミーを隣の部屋に移した。
これからのことを見られるのはちょっと恥ずかしい気がしたのだ。
ミーは少々膨れた顔を見せたが、おやつといつものクッションにつられて隣の部屋に行った。
どうしよう、星奈はベッドの端に腰掛け、しばらく考え込んでいた。
脱いでベッドの中で待つか。それとも、悠馬に脱がしてもらうか。
どちらがいいんだろう、こういうとき、女の子はどうするものなのだろう。映画や小説では、いつの間にかそういう雰囲気になって、気がつけば二人ともベッドの中にいる。
でも、現実はそう簡単じゃない。
服は自分で脱ぐのか。脱がせてもらうのか。そもそも、どのタイミングで脱げばいいのか。
「うーん……」
星奈は小さく唸った、悠馬に脱がせてもらう。
それはそれで、ちょっと憧れる。
でも、悠馬の顔を思い浮かべると、どうにも不安になってきた。
きっと緊張する。間違いなく緊張する。そして、服のどこかを引っかけたり、ボタンを外すのに手間取ったりするに違いない。
下手をすれば、二人して笑い出してしまいそうだ。
「……やっぱり、自分で脱ごう」
結局、星奈は服を脱ぎ、裸になってベッドに潜り込んだ。掛け布団を胸元まで引き上げる。
これでいい、たぶん。
いや、本当にこれでいいのだろうか。
急に恥ずかしくなって、頭まで布団をかぶった。
「何やってるんだろ、私……」
心臓がどきどき、うるさいぐらい音を立てている。
ほんとうにいいの? いまさらそんなこと思う。
でも、嫌なわけじゃない、悠馬が好きだ。
ずっと一緒にいたいと思う。
だから、今夜は。
そこまで考えたところで、廊下から足音が聞こえてきた。
星奈は慌てて布団から顔を出した。
部屋の明かりは消してある。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、床をぼんやり照らしていた。
ドアが静かに開く。
「星奈ちゃん……?」
「うん、こっち」
自分でも驚くほど小さな声が出た。
悠馬が暗い部屋を手探りで進んでくる。
そのときだった。
「わっ、いてっ!」
ゴン!
派手な音が響いた。
「えっ、悠馬!?」
星奈は跳ね起きた。
「大丈夫!?」
慌てて照明をつけると、ベッドから飛び出した。
テーブルの角に足をぶつけた悠馬が、床にしゃがみ込んで足をさすっていた。
「もう、何やってるの! 大丈夫?」
「うん、大丈……」
悠馬の声が途中で止まった。
「星奈ちゃん……」
「え?」
悠馬が口をあんぐりと開けたまま、星奈を見つめている。
何だろう。
そんなに驚くほど、ひどく足をぶつけたのだろうか。
星奈は首をかしげた。
そして、悠馬の視線をたどった。
「あ」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
自分が裸だということを、すっかり忘れていた。
「え、あ、きゃあっ! えっち!」
星奈は慌てて胸を両手で隠し、その場にしゃがみ込んだ。
「み、見た!?」
「いや、その……」
「見たでしょ!」
「うん」
「正直に言わなくていいっ!」
言ってから、星奈はますます恥ずかしくなった。
何を言っているんだろう。
そもそも、見られてもいいと思ったから、ここで待っていたのではなかったか。
それなのに、いざ見られたら、この騒ぎだ。
悠馬も困ったような顔をしている。
しばらくして、二人とも小さく笑った。
「ごめん」
「何が?」
「驚かせちゃって」
「ううん。私こそ、変な声出しちゃった」
悠馬がそっと近づいてきた。
星奈の前に膝をつく。
さっきまでの騒ぎが嘘のように、部屋が静かになった。
悠馬の顔が近い。
心臓の鼓動が聞こえる。
自分のものなのか、悠馬のものなのか、もうわからなかった。
「星奈ちゃん」
「うん」
悠馬の両手が、そっと星奈の頬を包み込んだ。
温かい。
星奈は顔を上げた。
悠馬が真剣な顔で見つめている。
こんな顔をするんだ。
いつもは優しくて、少しおっとりしていて、時々とんでもなく不器用なのに。
今は、何だか別人みたいだ。
悠馬の指が、そっと顎に触れた。
星奈は目を閉じた。
唇が重なる。
柔らかく、温かい。
最初は触れるだけだったキスが、少しずつ長くなる。
星奈は悠馬の肩に手を置いた。
あれ。
震えてる?
そう思った途端、なんだか嬉しくなった。
緊張しているのは、自分だけじゃないんだ。
唇が離れる。
「悠馬……」
「うん?」
「緊張してる?」
「うん……すごく」
星奈は思わず笑ってしまった。
「私も」
二人は顔を見合わせた。
悠馬の手が星奈の背中に回った。
そっと抱き寄せられる。
星奈も悠馬の首に腕を回した。
もう、恥ずかしいとか、どうしたらいいとか、そんなことは考えられなかった。
ただ、悠馬のそばにいたかった。
「星奈ちゃん」
「なあに?」
「……いい?」
星奈は小さく頷いた。
「うん」
悠馬が星奈を抱き上げた。
「わっ」
思わず声が出る。
「だ、大丈夫? 落とさないでよ?」
「大丈夫だよ」
「さっきテーブルにぶつかった人の言葉とは思えないんだけど」
「それは言わないで」
星奈はくすくす笑った。
悠馬も笑った。
今度は何にもぶつからず、星奈をベッドまで運んだ。
彼は星奈を、そっとベッドに横たえた。
悠馬が星奈の顔に顔を近づける。
星奈はその頬に手を伸ばした。
「ねえ」
「うん?」
「電気、消して」
悠馬が照明を見上げた。
「あ、そうだね」
ベッドから離れようとする悠馬の手を、星奈は慌ててつかんだ。
「ちょっと待って」
「え?」
「足ぶつけないでね」
「わかってるよ」
悠馬が笑う。
星奈も笑った。
やがて照明が消えた。
カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいるので、真っ暗にはならない。
でも、それで十分だった。
煌々と照らされたままでは、恥ずかしすぎる。
悠馬がベッドに戻ってきた。
星奈は掛け布団を少し持ち上げた。
「きて」
自分で言っておきながら、顔が熱くなるのを星奈は感じた。
悠馬が隣に横たわった。
星奈はそっと身体を寄せた。
星奈は悠馬の胸に耳を当てた。
『とくん、とくん』
悠馬の心臓も、ずいぶん速く打っていた。
「ふふ」
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
星奈は目を閉じた。
悠馬の腕が優しく肩を抱く。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
窓の外では、風が木の葉を揺らしている。
悠馬が星奈の髪をそっと撫でた。
「星奈ちゃん」
「うん」
「愛してるよ」
星奈は顔を上げた。
月明かりの中で、悠馬が微笑んでいる。
そんなこと、今さら、星奈はそう思ったが、急に胸がいっぱいになった。
「私も」
星奈は悠馬の首に腕を回した。
「大好き」
そういうと星奈は自分から唇を重ねた。
今度は、どちらも笑わなかった。
ただ、もう一度、確かめるように抱きしめ合った。
二人の夜は始まったばかりだった。




