未来の息子 :約2500文字 :コメディー
とある夜。自宅へ帰り着いた彼は、玄関のドアを閉めた途端、長く深い感嘆の息を吐いた。頬が自然と緩み、顔に蕩けるような笑みが浮かんでいる。胸の奥からじんわりと温かいものが滲み出し、それがゆっくりと全身に広がっていくのを感じていた。
だが――次の瞬間、その幸福感はふっと消え失せた。
違和感を覚えたのだ。何かがいつもと違う。まるで妻がささやかな模様替えをしたときのような、あるいはどこかで買ってきた見慣れない置物が一つ増えていたときのような、そんな小さな異物感。
彼は靴を脱ぎ、音を立てぬよう慎重に廊下を進み始めた。リビングへ近づくにつれ、その曖昧な不安は輪郭を帯び、やがてはっきりとした確信へと変わっていった。そして――。
「……な、だ、誰だ」
リビングのドアを開け、電気をつけた瞬間、彼は思わず声を漏らした。そこに立っていたのは中年の男。ニヤニヤと口元を歪め、待ち構えていたかのようにこちらをじっと見つめている。
泥棒――その言葉が脳裏をよぎった。だが身体は凍りついたように動かない。つい先ほどまで胸を満たしていた幸福の余韻は一瞬で恐怖に塗りつぶされた。
「……父さん」
「えっ」
「会いたかったよ、父さん! 父さあああん!」
男は両腕を大きく広げると、そのまま勢いよく駆け寄ってきた。抱きつき、彼の肩に顔を埋め、「父さあん」と涙混じりの声で繰り返し呟く。そのたびに生暖かい息が首筋にかかり、ぞわりと彼の肌が粟立った。
「と、父さん……? な、何を言っているんだ!」
彼は慌てて男を引き剥がし、後ずさりした。男は笑みを崩さないまま、どこか懐かしむような目で彼を見つめている。
「ふふ、そうだよね。いきなりじゃ混乱するよね。ごめんごめん。えー、信じられないかもしれないけど、僕は未来から来た父さんの息子です」
男はそう言って、にっこりと笑った。
「は……?」
呆然としている彼に構わず、男はさらに言葉を重ねた。彼の生年月日、学生時代のあだ名、好きな妻の手料理――次々と言い当てていった。
恐怖は徐々に薄れていき、代わりに背筋が冷えるような驚嘆が残った。
「――で、父さんは僕が六歳の頃に死んじゃってさ……。あ、ちなみにここには鍵で入ったんだ。ほら、これね。持ってるよ。ずっとこの家で暮らしているからね。それから――」
「わ、わかった。わかったから、ちょっと待ってくれ……」
彼は手を上げて制し、指で眉間を何度も揉んだ。
「ふふっ、信じてくれた? 本当に未来から来たんだよ」
「ああ……そこはもういい。わかった……でも……」
彼は唾を飲み込み、口を開いた。
「早くないか?」
「うん……早すぎるよ。僕ももっと父さんと一緒に過ごしたかったのに」
「いや、そうじゃなくて。早いだろ。来るのが」
「え?」
「お前、今日生まれたばかりだぞ。せめて三歳とか四歳とか、もうちょっと成長の過程を見せてから来てくれよ!」
そう、彼はついさっきまで病院にいたのだ。その腕の中には、我が子を抱いたときの感覚がまだ残っていた。
彼が嘆くように言うと、男はふっと小さく息をついた。
「ああ、それは仕方ないじゃないか。さっきも言ったけど、このタイムトラベルは奇跡みたいなものだからさ。狙って来られるわけじゃないんだよ」
「だとしても、まったく感慨が湧かないんだよ……。まだ赤ちゃんの可愛さも堪能していないのに、いきなり髭面に上書きされたんだぞ」
「ねえ、父さん覚えてる? 自転車の練習のときに、僕が『絶対、後ろ離さないで』って言ったら、父さん、本当にずっと掴んだまま離さなかったよね。二人でそのまましばらく走り続けて、父さん、へとへとになっちゃってさ」
「いや、知らないよ」
「え? 嘘。じゃあ、あれは? 僕が『お化けがいる……』って怖がって寝つけなかったとき、父さん、ずっとベッドの横にいてくれたよね。朝起きたら床で寝ててさ。顔が真っ白で、死んじゃったのかと思ったよ」
「だから知らないって」
「それから、あれは? 僕が幼稚園の窓ガラスを割っちゃったと思い込んで、もう幼稚園に行かないって、べそをかいてたとき――」
「だから知らないんだって! 全部未来の話だろ!」
彼は手で目元を覆った。だが男は気にする様子もなく、やや上を向き、思い出に浸るように頬を緩めた。
「あー、あとあれもあったなあ。幼稚園のお絵かきの時間。“大好きな人”がテーマだったんだけどさ、僕、父さんの絵を描いて持って帰ったんだよ。そしたら父さん、泣いてたなあ。てっきり母さんのことだと思ってたって」
「もう泣けなさそうだ」
「小学校の入学式でも涙ぐんでいたなあ。写真を撮る瞬間、桜の花びらがぶわっと舞ってさ。あれ、本当に綺麗だったなあ。奇跡の一枚ってやつだよ」
「だからやめろよ。全部ネタバレになってるんだよ」
「父さんって、意外と涙もろいよね。まあ、家族のためにずっと頑張ってたもんな。おじいちゃんが轢き逃げしたときも、賠償金だとか何だとかで必死にお金を工面してさ」
「だから知らないって――えっ!?」
「それから……ああ、どれを話そうかなあ。幼かったけど結構覚えているんだよ。僕、記憶力いいし」
「いや、轢き逃げの件を詳しく聞かせてくれ」
「あー、ごめん。あまり詳しくは話さないほうがいいんだ。ほら、未来が変わっちゃうかもしれないからね。そういうの映画とかでよくあるでしょ」
「すでにだいぶ聞かされている気がするが」
「重大なことだけだよ。父さんの死因とかね。幼い頃の思い出なんて、全然取るに足らないことだよ」
「言い方……。あ、そうだ。六歳の頃に死んだって……あと六年!?」
「おっと、もう時間が来ちゃったみたい……。会えてよかったよ、父さん」
「いや、あと六年どんな気持ちで生きていけばいいんだよ。詳しく教えてくれよ」
「それより、何か僕に残したい言葉とかあるでしょ? ほら、三、二、一」
「いや、急に思いつくかよ」
「え、ずっと言いたかったこととかないの? 本気?」
「ないって。なんなら、未来のほうと過ごした時間のほうが長いわ」
「じゃあ、僕から……。元気で。それから……僕のこと忘れないでね」
「ああ、赤ちゃんの顔を見るたびに嫌でも頭に浮かびそうだよ。髭面の死神の顔がな」
「それと……最後に一つ頼みがあるんだ」
「なんだよ……」
男は一度下を向いた。そして少し間を置いて顔を上げると、真剣な眼差しで一歩近づいてきた。
「庭の木の下に、お金を埋めておいてくれない? 今月カツカツでさ」
「お前はまず、自分の今を見つめ直せ」




